アートディレクター/
グラフィックデザイナー
1958年、淡路島生まれ
洲本高校、上智大学卒業
1984年 外資系広告会社入社
2009年 独立
デザインや絵画、写真の展覧会を開催中
2010年 インドでバンダナを制作
2011年 淡路島でTシャツを制作
2016~2018東京都美術館×東京藝術大学の
とびらプロジェクトに参加
2021年「トーハチAtelier」淡路島にオープン
受賞:
カンヌ広告フェスティバル、クリオ賞、
ニューヨークフェスティバル、
IBA、各ファイナリスト、ACC賞、
ECOCOLO BOOKCOVER
DESIGN COMPETITION優秀賞、
藤原新也氏主催Web : Catwalk Photo
award/Catwalk賞(2016)、銀賞(2018)受賞
展覧会:
2013年3月「ブラジルの音楽画」展
(原宿・ペータースギャラリー)
2013年8月
「ブラジルの音楽画&洲本の風景画」展
(洲本・坂本文昌堂ギャラリー)
2014年10月、洲本市の路上で
学生時代のシルクスクリーンポスター展
「ヤマダレトロ 1979~1984」展を開催
2015年5月
「旅する絵画~遠くへ近くへ~山田収男絵画展」の企画・制作(洲本市文化体育館)
2018年4月
「花色紙・山田収男水彩画展」の企画・制作
(洲本・坂本文昌堂ギャラリー)
2018年8月
「淡路島海景」展(淡路市・淡路島ハイウェイオアシス)
2018年10月
「淡路島記憶景」展(ウェスティンホテル淡路)
2019年5月「アワジ×ブラジル×アイビー」展
(淡路夢舞台)
2019年6月「ブラジルの音楽画・時のつづく限り」展
(北青山・ブラジル大使館)
2021年1月–2月
写真家宗虎亮&野水正朔氏との3人展
「サウダージ洲本!サウダージ淡路!」展
(洲本・トーハチAtelier)
2022年2月
「お向かいの猫のための展覧会」
(洲本・トーハチAtelier)
2022年8月
「ひまわり2022」(洲本・トーハチAtelier)
2023年1月
「淡路島が見ている夢/淡路島写真1955–2022」(洲本・トーハチAtelier)
2023年10月
「淡路島が見ている夢のつづき」(洲本・トーハチAtelier)
Munehiro Yamada
art director, graphic designer
Studied philosophy at
Sophia university ,Tokyo Japan.
1984– Worked for J.W.Thompson Japan,
advertising company.
2009 Became freelance
2010 made bandannas in India
2011 made T-shirts in Awaji Island
2016–2018 the official member of TOBIRA PROJECT
2021 Tohachi Atelier open in Awaji Island
Awards :
Finalist-Cannes Lions,
Clio, NY festival, IBA,
ACC award,
ECOCOLO BOOKCOVER
DESIGN
COMPETITION award for excellence,
Catwalk Photo award/Catwalk prize(2016),silver prize(2018)
(Photo competition given By
Photographer Shinya Fujiwara)
Exhibition :
2013 March
“Graphic Art of Brazilian Music”
(Pater’s Gallery Harajuku, Tokyo)
2013 August
“Graphic Art of Brazilian Music and Landscapes of Sumoto”
(Sakamoto-Bunshoudou Gallery Sumoto, Hyogo Japan)
2014 October
“Yamada-Retro1979~1984”
(On the street of the native town Sumoto,Hyogo Japan)
2015 May
Planned and produced for
"Painting Journeys~home&abroad
~Kazuo Yamada Paintings" Exhibition
2018 April
Planned and produced for
"HanaIrogami–Kazuo Yamada
water color Paintings" Exhibition
2018 August
“Seascapes of Awaji Island”
(Awajishima Highway Oasis)
2018 October
“Landscapes in Memories of Awaji Island”
(The Westin Awaji Island)
2019 May
“Awaji×Brazil×Ivy”(Awaji Yumebutai)
2019 June
“Graphic Art of Brazilian Music/Pelo Tempo Que Durar”
(Brazilian Embassy,north-Aoyama,Tokyo)
2021 January-February
"Saudade Sumoto! Saudade Awaji!"(Tohachi Atelier)
3 person exhibition with 2 photographers
(Torasuke Mune&Masaaki Nomizu)
2022 February
"For the Cat at the Store just across from Tohachi Atelier"
(Tohachi Atelier)
2022 August "I GIRASOLI2022" (Tohachi Atelier)
2023 January
"Awaji Island dreams a dream of Awaji Island dreaming."
Awajishima Photography 1955–2022(Tohachi Atelier)
2023 October
"Continuation of the dream of Awaji Island" (Tohachi Atelier)
アトリエ改装を先延ばしし、その間にいろいろやることが出てきた。
母との5年間をまとめることと、その間に作った私の作品をまとめることだ。
その一歩を固めようとやってきた東京で、出会いがありそのプランが進められそうだ。
帰りの道中、虹が出た。
アトリエの修繕計画がなかなか進まず、行ったり来たりの進捗状況。
思い悩みプランを何度か変えたので再度(三度?)の見積もり中。古民家再生協会の野口さんには頑張ってもらっている。
それでもすでに工事に向けて先月来、だいぶ片付けた。B1のジークレープリント60枚くらいは自宅の方へ移動し、さまざまな什器、包装紙etc.なども家の方へ移した。まだ工事のスケジュールが決まらないので飾り付けに関するものや油絵の道具やオーディオ関係などはそのままだ。
夏前後で東京へは2回行き、家族に会ったり、自宅のメンテナンス。友人と会い、美術館へ行き、公園や大きな商業施設へ行き、都市について考える。今日は洲本にいて、ここにいる意味を考えながら両親が残したものの整理、廃棄を進める。
食べるものとは違い、出来立てのものよりも使い込まれたものの方がよい。新品のものより、中古の綺麗なものに魅力をより感じる。そのせいでなかなか廃棄へと向かわないものが多い。その訳はまず、デザインが魅了的だ。もう一つの理由は少し視点を変えれば新たな使い道が生まれたりするからだ。作品作りとは違う、これももの作りなのだろう。すぐに使い道が思いつかないものはとりあえず仕分けをして、収める場所に移動していく。その一方で、ものを移動したり、誰かにあげたり、破棄して生まれるスペースの魅力も捨てがたい。本棚にスペースが生まれ、部屋にスペースが生まれる。これも一つのもの作りだ。奥深い世界を今漂っている。
ひょんなことからDVDが手に入り見ることができた。予告は映画館で見て気にはなっていたが、コロナがあり、劇場で見る機を逸した。見ると愛おしいとしか言いようのない世界があり、気持ちが溶けた。
予告編では大事なところが伝わらない映画があるが、この映画もその一つだ。テーマがあるゆるシーンに潜んでいる。
東京のお嬢さん育ちの女性と、富山出身で大学進学を機に東京へ来た女性の2人が主人公で、その周辺にいる親戚や男性、友人たちもそれぞれの位置での生き方を見せてくれる。貴族というタイトルにも表れているが、生きる「階層」を鮮やかに描き出す。しかしその「階層」に優劣はなく、それぞれ生きづらく右往左往している。上流階級だからこその不自由さ、凡庸さ、創造性のなさ。地方を捨てて東京へ出てきた中産階級はお金に苦労しながらも、自由だ、という描き方も鮮烈だ。それがフェアに描かれている。そんな「階層」の違う女性が一瞬の交わりを経て、それぞれに生きていく。友を作り、仕事を作り、世界を作り、新しく生きていく。
一番胸が熱くなったのは、女性同士の寄り添い方だ。違うことはそのままにして、相手を想いながら本質だけで言葉をかわす。昨今の人の揚げ足ばかり取り合っている日本人社会と対極の生き方だ。何もできることがなくても、気持ちがあれば少なくとも寄り添える。
2人の主人公それぞれに大事な友人ができていくところが嬉しい。その上で、この映画は全く新しい価値を見出している。それは脚本、演出、キャスト、カメラ、照明、衣装、音楽、とりわけ今のこの時代など全てあってのことだ。
自分が地方から東京へ出てきた頃も思い出させてくれた。その時の自由の感覚を。小さな町の汲々とした暮らしから抜け出した頃を。そんなことを描いた映画はいくつも見ていると思うが、こんなに実感に近い映画は初めてだった。それは女性同士の友愛というテーマで描かれているからかもしれない。それが逆に、そこに自分が写ってるようで愛おしいのかもしれない。
女性たち3人の姿勢が違っていてとても印象的だったシーン。
アルバム『ワルツを踊れ』に感動し、その時共演したウィーン・アンバサーデ・オーケストラとの2007年の日本での共演ライヴCDも買っていたが、このDVDまで、手が回っていなかった。
最近ちょくちょくYouTubeでその断片を見ることがあり、そのどれもがあまりにいいので先日メルカリでDVDを見つけて手に入れた。
音楽をする喜びをなんと幸せに表現しているのだろうか!ウィーンの演奏家との幸せな時間が収録されている。
CDだとここまではわからなかった。
オーケストラのアレンジ自体も、一筋縄ではなくその和声や緩急、ダイナミクスや解釈なども本当に驚きに満ちていて原曲を大事にしながらも遠くへ遠くへその曲を誘っていく。
オーケストラがくるりの音楽を愛している。くるりも彼らを最大に愛している。オーケストラとバンドが体を揺すりながら同期して演奏してる姿は美しい絵だ。コーラスもいい。厳格そうなファーストヴァイオリンの女性の漏らす笑顔には涙が出る。驚きのコンサートだ。
これはアンコール。この日2度目の「ブレーメン」。
先週末、母の新盆の法要を行なった。
黄色い百合を10本ほど生けたのだが暑さで一週間、持たなかった。墓の高野槙もそうだがこの季節に花を生けることの難しさを感じる。まめに取り替えないと、美しさを維持できない。それでは毎日が落ち着かなくなってしまうので、花の絵を飾った。
↓これは新盆初日の百合。
毎日、花びらがポロポロと落ちていくので身の回りにある花の絵を集めてみた。祖母、父、私。3代に渡る花の絵が出てきた。最初の写真で額に入ってない絵が祖母の油絵。板に描いている。父が年取った祖母(父の母)に手解きをしてできた絵だ。味があって私はとても好きなのでそのうち父の絵と一緒に2人展をしたいな、と思っていたのだけど、この度、図らずも3人展になってしまった。
賑やかで、楽しい祭壇になった。
古い家を再生することと合わせて、他にも再生運動をしていることに気づく。
同級生の丸井さんからお米を買っているが、彼女が糠もくれるというので野菜くずを使って古い土の再生を始めた。そう思って見ると、家の倉庫の奥やアトリエの外のゴミおきば周辺にも古い土が鉢に入ったままいくつもある。毎日の調理で野菜くずや果物の皮などはどんどん出てくる。それらを使って、土再生運動が始まった。
土嚢袋に硬くなった土を少し入れ、その上から毎日できる野菜と朝食時の果物の皮をパラパラとレイアウトする。その上に糠を一握り。そしてまた土を少しかけて馴染ませる。夏は数時間で発酵しているようで袋全体が熱くなる。発熱!袋をひっくり返したりして、全体を撹拌する。それを毎日繰り返すと、どんどん美味しそうないい香りの土に生まれ変わる。こんなにたくさんの果物の皮や芯、野菜の皮などが入った土はいかにも美味しそうだ。農家の人が土を舐めてその良し悪しをみるというのもわかる。土を見る目が変わる。
というわけで、建物ではない再生もしている。
毎日が再生生活。
↓昨日の朝のコーヒーと夕飯の野菜くず。
↓袋の中の古い土の上に撒き、その上から糠をかける。
↓待機している古くて硬い土。それを少しかけて馴染ませる。
アトリエ横の壁際が日当たりが良い。ここはまだ手をつけてない。以前からあった鉢に、お隣のおばちゃんが水をあげてくれている。彼女と一緒に気の利いたものを植えていこうか?
こちらは父の死後放置されていた自宅2階の坪庭。ここにも野菜くずから作った土を使う。
緑が繁茂し、今では光の庭になっている。
断続的に行なっていたアトリエの片づけを再開。
今回はより本格的に。
2018年あたりから作品制作と並行するようにやっていたが、今回は本腰を入れてかからねばいけないようだ。
古民家再生をよくする建築の方を紹介してもらい、その方がこちらの気持ちをよくわかってくれて話が進んでいく。これなら抜本的にやってみようと思わせてくれるのだ。その勢いを買ってアトリエの片づけを再開。順調に行けばとても嬉しい。最後のチャンスかもしれない。
1番の目的は耐震補強である。それを施しながら古くなった部屋全体に手を入れる。アトリエの2階は窓や天井の梁に風情がある。これらを残し、壊れたりした部分を撤去してシンプルで落ち着いた内装に作り変える。そうすれば2階にも作品を展示できる。これが気持ちの中で徐々にまとまってきた構想だ。
この部屋も3年くらい前から少しづつ片付けて、運べるものはほぼ何も残していない。たくさんあったものはあげたり、売ったり、捨てたり、倉庫に保管したり。かなり色んなことをしたなぁ。
畳を上げると新聞紙が。日付は昭和36年(1961年)1月24日。
ずいぶん片づけたが解決しなければならないものがいくつかある。とりあえず荷物を運び込む自宅1階の倉庫にスペースを作った。その後、アトリエ2階のスチール棚の分解。これは5つほどあって、以前取りかかれなかった物件😹
こんなふうにねじ止めを6箇所もやってあるのでゆっくりと地道にやっていく。そんなに重いものを乗っけていたわけじゃないが、こんなところにも父の面影を見る。一個の棚の分解に小一時間かかる。しかしあわてないあわてない。音楽を聴きながらこの行為を楽しもう。
しかし片付けは疲れる。アトリエを出るとお向かいのクロがいて気持ちを癒してくれる。ひととき遊び、脳みそのワープ。
ご近所のしょうこちゃんも出くわしていっしょに遊んでくれる。
うちに帰ると東京のO君からのたくさんの応援物資が届いた。
音楽によって英気を養い、また明日に向かっていこう。
ありがとう!
PS:今回も送ってくれた曲。
片付けのテーマ曲だな。
"Never Been Gone"
日没後の太陽の光が強く残り、明るい時間が伸びているように感じる。あまりそういうことに気づいた話を聞かないがどうだろうか。
日没の時刻は季節によって変わる。夏の今頃は一年で最も遅い季節だ。それとは別に、去年の冬の短くなった日でも、何か明るい時間が伸びたように感じたのだ。例年だと、もう暗くなっている時間でも明るいのだ。あくまで、感覚だけれどそんな気がする。
近年、太陽の光が強くなっている。これは誰しもが感じているだろう。うちのベランダの竹の日除けも冬も出したままだった。しまおうにも太陽が強いので、しまう気にならない。その強くなった太陽の明るさが、日没後も影響して明るい時間が年間を通して長くなった気がするのだ。
海と逆側の山。満月の少し前の月。
これは兵庫県洲本市の今日の夕方7時前から7時半までの東の海の光景。西からの光が山をこえて水平線に差し込んでいる。
この後も8時になってもなかなか暗くならない。かつてならもう夕闇になってもよさそうなのに明るいのだ。
初夏の到来は
燕や雨によって気づかされるように、
夏の訪れは
長くなった夕方の時間や
夕日の光の色、
きゅうりの香り、
重くなった湿度や
まだ明るい時間に回が進む野球中継によってもたらされる。
それが今日。
2010年6月19日(土) 夏と名付けられた季節
父が育てていた蘭が4月から咲き始め、
満開になって春が進んでいく。
何年か前から元気を取り戻したようにまた咲き始めた。
夕方のその表情はとりわけ命の色気がある。
遥か遠くからのメッセージを受け取る。
2015年4月17日(金) 父が育てていた蘭の花
リビングにアナログチューナーを導入し、FMラジオを聴けるようにした。もちろんradikoで聴けば聴けるんだけど、いちいちあの画面を見るのが嫌なんだな。radikoのトップ画面のデザインが魅力的ではない。さらにそのビジュアルによってせっかくの音声によるコミュニケーションを壊しているように思う。DJは声が魅力だから音声だけあれば十分なのだ。DJの写真はいらない。
そのために気づかなかったことにも気づかされた。TV電波は今はインターネット会社による有線でリビングまで入ってきているが、その電波にはFM波も入っている。だからその周波数帯をFMチューナーで取り出せば弱電界地域でも綺麗な音でFMラジオが聴けるのだ。あまりこんな面倒なことをしてる人も少ないとは思うが、やはりチューナーのレバーに触れ、その硬質な質感を指先に感じ、小気味いいカチッという音と共に電源が入りインジケーターのランプが点き、数字のある直線的グラフィックが浮かび上がる。その瞬間おもむろに音楽が聞こえるというこの一連の流れの儀式性が生理的に気持ちいいのだ。だからこれはradikoで聴くのとは全く違うラジオ体験だ😁
それともう一つの要因は私が学生時代から使っているチューナーと同型の良品をネットで見つけて手に入れたこともあり、設置に向かった。このチューナーはスイッチ類のインターフェイスや全体のデザインがよくできておりオーディオ機器の原型のようなデザインなのだ。これはradikoで聴くことではとても追いつけない魅力だ。
メーター部分に幾つかのランプが点っている光景は、夜の家を外から見るようなそれを光の窓とでも呼びたくなるような心温まるものだ。
先日、国立西洋美術館の展覧会で坂本夏子さんの作品と再開した。去年、船橋のギャラリー"Kanda & Oliveira"で見た絵だ。
彼女の絵は私にとっては特別で、見ているとさまざまな音が聞こえてくる。ヘッドフォンをして音楽を聴いているようだ。つまり、ヘッドフォンをしていなくてもヘッドフォンで音楽を聴くように耳元で音楽が鳴っているのだ。
ほかの作家の絵でもこのように音が聞こえるのはよくあるが、これらの絵の前では音がクラスターになって絶えずガンガン鳴っていた。坂本さんも描きながらそんな音楽の中にいるのではないか。
視線が移動するのに合わせるように、その音の塊/クラスター(和音、ノイズetc.)がどんどん変化、転調していく。音の発生元も至る所から移動しながら。メロディーはない。ひたすら重層的な和音、非和音の塊が溢れ出すのだ。かなりうるさいくらいに。
コンサートが終わったような気分。館内のレストランでひと休み。
中庭の新緑からも光と共に命に溢れる音が軽やかに跳ね回る。
この日は上野公園に入った時から不思議な流れ(?)があった。
東京都美術館で一緒にとびらプロジェクトに参加していた(2015–2018)時の同期生の関さんとばったりでくわし、坂本夏子さんの参加しているこの特別展(「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」)のチケットをいただいた。
企画展は今や2,000円を超えてしまっているので今回は常設展でゴヤの版画シリーズを見ようと思っていたのだが。しかし見るべくして、見ることになったのだった。
昼食の後は、ゴヤの版画シリーズ。戦争画である。殺戮、強姦、処刑、死体遺棄.....。あらゆる悪徳が描かれる。
この作品はゴヤの存命中には公開されず、死後50年ほど経って1863年に公開されたという。それだけ内容が残酷だということではないか。今でいうと戦争地の報道写真のようなものだろうか。
それにしても、ゴヤの筆は冴え渡っている。絵自体は小さいが、それが何十点も集まると藤田嗣治の巨大な戦争画にも匹敵する。
描かれた喧騒、阿鼻叫喚とは裏腹に、絵は静寂が支配する。
寒かった季節の緊張が解けて色彩が目の前を通り過ぎる。ここ3年ですっかり馴染みになった川沿いの道を行く。季節はめぐるが毎年同じものはない。
菜の花のブッシュは羊の群れが横切って移動するように見える。
セメントの裂け目からさえも春が溢れる。
別の日、こちらも馴染みになった岩山を登って行く。
この山は瀬戸内国立公園だからなのか市にお金がないからか、とにかく手が入ってない。でも岩でできてるからか竹や樹勢の強さに任せた同じような木が生えていないように感じる。それぞれの木が適当に縄張りを分け合いながら成長してるようだ。木の根の見事な造形。
長い歴史の間に、根が岩を抱き込むようにして生育している。
ここは温暖多湿なアジアだと実感する。
八王子神社。長女の出産のお礼参りをする。
この神社は下写真左側にある大きな岩を祀ったのだろうか。
鈴緒に藤山寛美と書いてある。頂上に寄席にまつわる狸の廟があるからか。かつて彼は何度も来島したと聞いたことがある。
新緑に混じる桜はより一層美しい。今年は入学式が終わっても桜が咲いているという昔に戻ったような季節感。
前日のアジのムニエルとサラダをお弁当にした。これとお茶があるとゆっくりできる。
松の赤ちゃん↓むくむくして動物みたいだ。
三角の岩を組み合わせて作った階段。城の石組みで余った石の再利用か。デザインに経年の変化が加わり美しい。
今年もまた中学の3年4組の同級生が植樹した桜の周りに集まったのだが、去年にも増してどんどん他クラスのメンバーが増えてきた。
これは中学生時代をともに送った仲間が到達した、一つの達成のように思う。つまり卒業後の時を経て集まってもまた学生時代のクラスのように何かを生み出すという特別な関係を維持している。これを私は大いなる達成と呼びたい。何か新しいものをクリエイトしている。
来年は7周年なので何か記念になるようなことをするのもいいかもしれないな。このゆるいわいわい感がいい😁
この時間を共に過ごせたことに感謝する。
2023年4月1日(土)桜再生プロジェクト5年
先日、友人の経営する山本農園(洲本市千草)で作ったジャムのラベルをデザインした。上の写真は薄い色の英文字で母の名前を入れた香典返し用のバージョン。洲本市内のJAなどで徐々に販売。同級生と一緒にこういうものが作れる環境は楽しい。自分で育てたイチジクと甘夏みかんで作ってくれた。さらりとクリーミーで、とても上品な質感だ。果実と砂糖だけでできてるから美味しいよ😀
山本(旧姓丸井)志織ちゃんは夫婦で農園をやっている。彼女は小学校と高校の同級生。小学校では6年間同じクラスだ。彼女の足は早く、学年の女子で常に1番だった。それも誰も寄せつけない速さ。運動神経がよかった。そんなことがこのラベルを一緒に作るときにも発揮される。スポーツができる人は勘がいいんだな。コミュニケーションも速い。思い切りがいい。また4年生からはコーラス部でも一緒に歌を歌っていた。地区で賞を取り、大阪でのコンクールにも一緒に出場した。私は一学年上でどこからか転校してきたピアノが上手な先輩に目がいっていた。山本志織ちゃんとは2013年に洲本市内のマーケットでバッタリ再会し、それ以来お米を持ってきてもらったり、野菜をいただいたり、飲みに行ったりと交流が復活していた。少年時代に同じ空気を吸っていた同級生で、今も心置きなく話せる友人は貴重だ。
仕事で作った庭じゃないな、と感じる場所。作り手の愛情が溢れていた。これを作り、維持しているグループが素晴らしい。
小さな花や野草、ハーブ、木陰の草木、球根類………。
豪華なものは一つもない。その中にいると気持ちがほどけていく。
ケレン味がない。落ち葉もそのままにして。穏やかな自然の宴。
春間近の静かな庭園にある美しさ、この上なし。
この季節ならではの黄色を楽しむ。
先月5日にはレモンマーマレードの黄色を。
年末にレモンが黄色くなるのを待って近所の平岡農園から買ってきた。無農薬、ノーワックスだから安心して作れる。
オレンジなどと比べ皮が硬いのでフードプロセッサーを使い、刻んだ皮を細かくしてから何度か茹でこぼす。その後、ワタ、実、ジュース、砂糖を合わせて煮込み仕上げていく。
今日は頂き物の文旦がたくさんになったのでこの黄色でも作る。
皮とワタと実に分ける。
上の写真は。細かく刻んだワタ。この後、フードプロセッサーでさらに細かくした。下の写真は実を薄皮の小袋から取り出しているところ。
文旦はサイズが大きい上にワタの量がすごいのでたくさんできる。
近所の料理好きの方々と親戚にくばって回る。
図らずも女性たちとのコミュニケーションツールになっている。
記憶のプールを失い
魂は さすらう。
つかのまの葛藤を経て 安息。
あなたは覚えている
その間に会った たくさんの色合い。
網膜に 映る。
水仙 菜の花
バラ 山茶花 ホトトギス
レンギョウ ひまわり
柊 エリカ
色たちに送り出されて
暗い地中から空へ昇る。
そこでは 忘却から蘇り
懐かしい人たちと会うだろう。
ふわりふわふわ
そして命は今
生まれたばかり
目覚めたばかり。
昔のように思い出す。
楽しいこと 悲しいこと
美しいこと 生きること。
会いたかった人たち。
久しぶり
やっと来たよ
色たちに迎えられる。
百合 ストック ラムズイヤー
オレンジ ブドウ 桃 リンゴ
文旦 レモン スイカ コーン
桜 ヒナゲシ ユキヤナギ
ふわりふわふわ
ある小説家が自分にとっての映画ベスト15というのを過去に書いていて、それを先日読んだら面白かった。
人が好きに選ぶものって面白い。例えば、好きなものを食べていいよと言った時、相手が何を選ぶのかとても関心がある。その作家の選んだ作品は私の好きなものと方向が重なったものがいくつも見られ、全く違うものもあって興味深い。その一方で「無茶なことするなー」という風にも思った。それは若い時見て感銘を受けた作品が必ずしも今見ていいとは限らないからだ。しかし、簡略に添えられた選択の理由(多分新聞の連載記事なので文字数制限がある)もシンプルなだけに面白いので私もやってみる。もう一度やると変わっている可能性大。
年始からまた大きな震災があり、裏金疑惑の議員は起訴を免れ、開幕した国会でも何かいい展開が期待されるでもなしのこんな年明けだから、あまり物事を深刻に考えすぎても良くないと思い、こういった真実はどこにもないアホらしいこともいいだろうと選んでみた。それぞれに動画を添付することもできるが、それだと普通の名画紹介サイトのようになるので、あえて予告編などは付けずに文字だけで。
15ー転校生(1982) 大林宣彦
性に縛られない痛快さ。何度ヴィデオを見たか。男女の性別が入れ替わることで起こるトラブルの楽しさ。常識をぶっ飛ばしてくれた。
14ーアマルコルド(1973) フェデリコ・フェリーニ
良き少年時代。ノスタルジー。こんな映画を作れて幸せだろうな。はみ出し者、捻くれ者、さまざまな個性の人たちの中に少年がいる。
13ーデルス・ウザーラ(1975) 黒澤明
中学生の時に見たと思ってたが年代を調べると高1か。授業で映画館へ行った。五感の鋭い山岳ガイドが現代文明に殺されるあっけなさ。
12ーマイライフ・アズ・ア・ドッグ(1985) ラッセ・ハレストレム
一緒にいる時間が取れない病弱な母親といることが嬉しくて、おどけて後ろへひっくり返って見せる海辺のシーン。懐かしい夏の一瞬。
11ーベルリン・天使の詩(1987) ヴィム・ヴェンダース
見えない世界を見せる映画の真髄のような映画。ラストのソルベイグのモノローグ。真正面の表情のアップ。絵も心も本当に美しかった。
10ー歩いても歩いても(2008) 是枝裕和
亡くなった母のために作った映画と聞き見に行った。母を美化せず描き、主人公の境遇の情けなさも合わさり、切なくも愛しい映画。
9ーシェルブールの雨傘(1964) ジャック・ドゥミ
ラストの雪のクリスマス。ガソリンスタンドのシーンの苦さ。全てのセリフをジャズで歌っているという驚くべき構成もショッキング。
8ーアニエスの浜辺(2008) アニエス・ヴァルダ
映画自体を彼女はいつも新しく発明する。独特の映画話法とユーモア。軽やかさで自由を教えてくれる。自分自身のドキュメント。
7ー孤独な果実(1985) ジョン・リード
ジェーン・バーキンが初めてその人としての演技を見せてくれた。その中で演じるということの本質を演じ、それが実人生と重なり合う。
6ーゴダールのマリア(1985) ジャン・リュック・ゴダール
こんなに音楽が美しく聞こえてきた映画は初めてだった。マリアの処女懐妊を現代で描いた驚きの作品。前半の『マリアの本』もよい。
5ーアーティスト(2011) ミシェル・アザナヴィシウス
現代の無声映画。主演のベレニス・ベジョが素晴らしい。中盤のオフィスの階段ですれ違う時の投げキッスは実際にされたら卒倒もの。
4ーアイ・アム・サム(2001) ジェシー・ネルソン
強いと思われている女性が弱い男性に支えられていた。登場人物それぞれの弱さを描いているのがいい。父と子、母と子の物語でもある。
3ートリコロール(1993) クシシュトフ・キェシロフスキ
監督の人生の総集編的3部作。各編の人物が他編の脇役で混じり合い世界の成り立ちを教える。生きることを俯瞰して見せる神の視線。
2ーカオス・シチリア物語(1984) ヴィットリオ&パオロ・タヴィアーニ
シチリアの市井の人々のエピソードが寓話のように語られる。どこか知らない行ったことのない土地の風景。そこで生きる人々の熱。
1ー赤い風船・白い馬(1956/1953) アルヴェール・ラモリス
大切なものを守ろうとする少年時代の神話的時間を描く。奇跡のような演出、画面構成、色彩、街。雨あがりの逆光のパリの街の美しさ。
マルチェロ・マストロヤンニ、ジュゼッペ・トルナトーレ、テレンス・マリック、ジム・ジャームッシュ、クロード・ルルーシュなどの映画を入れられなかったことが心残り。他にもある。無理だ。
年末から続く忌日法要も大詰めを迎えた。今朝6週目の法要を終えて、今週末には二日早い四十九日を寺で取り行っていただく。
大晦日の二七日(ふたなのか)の後、1月二週目から毎週火曜日に住職さんがやって来て法要を行なってくれる。11時から1時間ほど。読経があり、その間に焼香盆が回される。
およそ20分位だろうか読経の間の時間、空間、香り、光が変わる。日常のなかにありながら、心が亡くなったものと同化していき時空が歪む。完全に非日常の世界へ入っていく。何かのアイデアが湧く時のような自由な解き放たれた気持ちの有り様とでもいうか。心がフリーになったような感覚。他では味わえない感触がある。言霊とはよく言ったもので、読経を体感することによってそのことがわかる。そんな空間を現出させるのが、この忌日法要だ。
お経の終盤は真言を唱え、それが終わると場が現実に戻っていく。
住職は正装を解き、鳴物を風呂敷でくるみ、法要が終わる。
そのあとは天候の話、法要の話、仏教の話、世間話、ご近所の話・・・・。こうやって普通の生活に帰っていくのだ。
死者を無事にあの世に誘うための仕組みではあるが、残された者をもしかるべき場所へ導いていく。
週ごとに卒塔婆が一つづつ増えていく。上は大晦日の二七日(になのか)の後。卒塔婆の数によってグラフィックにそれが表され美しい。それにより気持ちも整っていく。
四七日(よなのか)
五七日(いつなのか)。住職さんの卒塔婆に書く文字が格別だ。
そして今日、六七日(むなのか)。
家の祭壇の前で、読経してもらうのも今日で最後だ。
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そういえば、と過去の写真を思い出した。
これは父が亡くなった年、2017年2月末から四月までの四十九日間の心象を描いた20枚組のフォトストーリーだ。
『四十九日まで』
冬から春へ。溢れ出す色彩が、体に染み透る。
この組み写真はあるクローズドサイト(会員だけが見ることができる)の写真コンペで銀賞を得た。コンペを主催するのは藤原新也氏だ。出品することで、その時の時間を振り返ることができた。そしてさらに賞云々より、会員の投票の多さでも共感を得たのがわかりとても嬉しかった。この死をめぐる心象風景が他人の気持ちを捉えたのだった。それだけ普遍性のある出来事ということだ。
そして、この写真から6年。この時参加してくれた方の中で鬼籍に入ってしまった方が母を含め6名。今見ると、このことも人生を感じさせる。この写真の持つ意味も変わってくる。
今年のスタートは大勢の仏像の視線をいただいた。
洲本の家からこんなに近いところにあるのに、車が無いせいで訪れたことがなかった。
寺に入ると特別な空気が流れている。
鎌倉時代から、この地域を守ってきたということが体感で伝わってくる。なだらかな丘を少し登ったところにあり、空気も静謐だ。建物や樹木も風情がある。
建物の古さがいい。羅漢以外にも、書や掛け軸、仏像などが無造作に並べられている。全く無防備に投げ出されているところが仏心を表しているのか。その在り方に心が動く。
裏口を出たところにある歴代の住職の墓。
鎌倉時代から連なるこの寺の歴史が、真っ直ぐに並んだ五輪塔の墓によってそのことをビジュアルで語っていた。
今年はまた様々な出会いがありそうな一年のスタートだ。
母が今月20日に亡くなった。
来年の正月は母はうちで迎えることができないんだなと秋口から年末が近づくにつれ思いを巡らしていた。
母は今年の3月末から介護付きの施設に入居した。コロナの影響がまだ残っているために面会は月一回、それも玄関ホールで15分程度のものだった。食欲はあるが、認知症がどんどん進み、夏頃には誰の名前もわからなくなってしまった。その頃から食べ物の誤嚥が多くなり、水でさえうまく嚥下できなくなっていた。12月11日の面会時には看取りの時期に入りましたと介護士の方から告げられた。この頃から食べられなくなり、寝たままの時間がほとんどになってしまったのだった。もともと食欲旺盛で、それをエネルギーに生きているようなところがあったので、食べられなくなってからの衰えは速かった。
看取りを告げられてからは面会も自由になり、家族や親戚がどんどん訪ねていった。その時間が一通り終わるのを待っていたかのように20日の夜半2時過ぎに亡くなった。連絡をもらいその朝、施設へ向かい(途中主治医のところへ立ち寄り死亡診断書をもらった)遺体と一緒に自宅へ戻った。
主治医の高田先生と事前に何度か話し合っていたように病院へは転送せず、点滴なども施さず自然な死を待つということで最後の静かな時を過ごせたせたように感じた。それは施設の体制が看取りをしてくれるということも大きく、ありがたかった。
その後、22日通夜、23日告別式と慌ただしく年末の時期が過ぎていった。
それにしても、と思うのは母がひとり施設で正月を迎える、というイメージがわかず何か引っ掛かりがあったのだ。いつも親戚や私の友人たちがやってきて賑やかな温かい正月を母と過ごしていたからだ。いま葬儀が終わり、遺骨になって祭壇に母はいる。いつものようにこの懐かしい自宅で正月を迎え、四九日までの日々、納骨する二月初旬までここで過ごすことになったとも言える。それは偶然か。死ぬということに意思の力が働いたのかはわからない。いずれにせよ何か不思議な思いに包まれた。思うに、気づかないまま過ぎてしまっていることが多すぎるのだろうが、人生は不思議なことの集積なのだ。
入居してから少しずつ家族の写真を持っていき、母の部屋に貼ってもらった。面会の回数が増えるにつれ部屋が賑やかになっていく。何かの力添えをしたいということの具体的な表現だったが、母は薄れていく記憶の中で時には写真の前で車椅子に座って眺めていたという。
地球の様相がかなり危ない局面にきているのが日々の気候でわかる。
今年の年始の雪、夏の暑さがあり今月12月は霧とぬるい風だ。
12月10日の朝。夜の低温から朝になって急に暖かくなったからだろうか。濃霧が垂れ込めなかなか消えない。
見たことのないシュールで美しい光景だが。
そして12月15日。朝起きてリビングに降りていくと窓が曇っている。夜の気温が相当冷え、部屋が暖かいせいで窓に結露したな、と思っていたら驚いたことに窓の外側の結露だった。
窓を開けると、生ぬるい風が。
うーむ。
つまり部屋の気温の方が低く、外側が暖かい。夏のエアコンの入った部屋についた窓の結露の状態と同じだ。これが今年の12月。
人口の多い途上国なども含め世界中至る所での車の急激な増加、それらを作るプラントの火力発電、かつてなかったような巨大建築の建設、そしてさまざまな戦争。これらが絡み合って気温の上昇を呼び起こしている。そのせいで気温が上がり、今度はこれまで使っていなかった地域でもエアコンを使うようになった。南アジアだけでなくヨーロッパでも。エアコンは部屋の熱を外に出すのでますます外気温は上がる。特に夏のエアコンの利用は身の安全のため世界中で推奨される風潮なので、気温は上がり続けるだろう。世界中が今の暮らし、今の価値観の中にいるとこれは止めようがない。氷河期が来ない限り気温は上がり続けるのか?
10日の霧は昼前には消えていったが午後になってもこんな風に風景が霞んで春のようだった。
何年かごとに思い出した時に手を加えている作っている私家版の絵本『ぞうくじらとともだち』の改訂版を久しぶりに作った。
最近出来上がってきたのが右下のもの。第4バージョンだ。
これまでは自分でプリンターで出力したものを使って製本していたが、今回はBON BOOKSという写真アルバムを作るサービスで作った。これは元々は家族のアルバムなどを作るサービスなのだが店頭でその装丁とページ数を見て、「これで作らなきゃ」と思ったのだった。というのはフォーマットの表紙レイアウトとページ数がこれまで作ってきた『ぞうくじらとともだち』私家版とぴったり一致していて驚いたのだ。
表紙のデザインは誰が注文してもこのようなデザインの布張りで真ん中に写真を配する仕様になる。ページ立ては24ページか48ページを選べる。これまで作ってきたデータを少し調整してすぐに48ページでオーダーしてみた。プリントはオンデマンド印刷。だから色味も理想通りとはいかないが、いい線で出てきた。図書印刷という元々印刷と製本の老舗がやっているサービスなので出来上がりのニュアンスはいい。普通のフォトブックとはちょっと違う。写真屋さんで作るアルバムというよりちゃんとした書物の体裁になっている。だから手元に置いて置きたいような"物"としての存在感がいい。
また面白いのは、そんなプライヴェートなフォトブックなのに、誰が注文してもこの布張りで真ん中に絵があるという同じデザインの本が生まれる。左下に入るタイトル文字もデザインとフォントが決まっていて、タイトルが違っていてもみな同じ仕上がりになる。これも興味を惹かれたポイントだ。個性的で美しい造本だが、同じ装丁で、中身は全く番う本が世界に散在するということだ。まるで世界が一つの社会主義的家族で同じようなフォトブックをそれぞれの家に持つようなユートピアを想像した。
この絵本の始まり。長女が生まれたあとなぜか絵本を作りたくなった。何故だろうか?そんなものは作ったこともなかったのに。その頃は社会人になって7~8年経ち、人間関係もすっかり新しくなっていた。それでもふと気になり過去の仲のよかった友人を思い出す。音信不通だったり、その頃亡くなってしまったりした何人かの友人を思い出した。そして彼(または彼ら)を想いながら描き始めたのだけど、そのプロセスもよく覚えていない。ストーリーと絵を一緒に作っていたのか、物語を先に書いたのか全く記憶にない。休める時には会社を休んで4.5畳の部屋にこもって描いていたことは覚えている。伝い歩きできるようになった娘が(まだはいはいだったか)何度も部屋に入ってきた。その度に彼女を抱き上げ、あやし、ひとしきり遊んでからリビングへ連れて行く。悩める会社員生活、会社の仕事だけでは納得のいかない日常の中で、そういった時間を作っては絵を描いていた。
今この本を見返すと、その時以上にたくさんの友達に限らない親や、親戚、先生、サークルのメンバー、バイト仲間、会社の先輩・同僚、引っ越していった近所の人、街でよく会っていたおっちゃん、学生時代に毎日のように行っていた定食屋でカウンター越しに話しかけてくれたにいちゃんなど書ききれないあらゆる人の顔が浮かんでくる。この私家版『ぞうくじらとともだち』はそんな感情を引き出し、忙しい日常を立ち止まらせる力があるようだ。そして、自分の若書きの至らなさとその時の溢れるエネルギーを感じてしまう。その頃の自分の生活、家族なども想起し自らを過去に連れ戻す装置のようでもある。
今回のバージョン、もう少し手を入れて年内に再度発注してみよう。
思わぬところからきっかけは生まれて、遥か昔の若かった頃の時間が戻ってくる。旧友との再会や、かつて暮らした場所への再訪、どこかで聞いた曲のようなデジャブ。生きていくと、時に思いがけない事がやってくる。そんな感慨に囚われるような映画との再会があった。
その映画の上映は1986年11月のニュージーランドシネマウィーク。日本ではなかなか紹介されないその年のニュージーランド映画6本の上映会。私の見た映画は11月22日と24日の2回しかその上映はなかったようだ(その時のプログラムがネット上にある)。だからこの映画を日本で見た人は数十人から多くて100人くらいしかいなかったことになろうか。場所は竹橋駅の科学技術館ホール。東京近代美術館の裏手あたり。そこで見た映画によって映画の見方が変わってしまったのだった。
日本語のタイトルは『マンスフィールドの追憶 孤独な果実』となっている。ニュージーランド出身の女流作家キャサリン・マンスフィールドの半生を、生きている夫の視点を絡めて描いた文芸作品だ。
キャサリン・マンスフィールド(1888–1923)はニュージーランド・ウェリントンの裕福な家庭に生まれ、ロンドンのカレッジに入学。卒業後の2年間の帰国を経てまたロンドンに戻りその後二度と故郷に戻ることはなかったという。
彼女はさまざまな困難に直面する。移民として、この時代の女性として、作家として。失恋、流産、何度かの結婚、破局、性病、最後は結核で亡くなる。これらの体験が作家としての彼女を作っていると言えるのだがあまりに過酷な人生だ。彼女の作品をまとめ、出版したのが最後の夫ジョン・ミドルトン・マリ。彼ともさまざまな確執があり関係は一筋縄ではいかないようだが、映画では彼がキャサリン・マンスフィールドの手紙や日記などをまとめた豪華本を出版するため、フランスにやってくるという設定で物語が進んでいく。そしてそのようなプライベートなものを大々的に公にすることについて”Fair”なのか、と問うていくのがこの映画の趣旨だと思う。
マリが出版にまつわる事務作業をしている場所で舞台制作をしているグループがあり、そこで衣装デザインをしている女性マリー・テイラーをジェーン・バーキンが演じている。彼女はこの出版を進めている恋人の話を通じて本の内容が、死んだキャサリン・マンスフィールドにとって”Fair”ではないと感じ、その編集をしている恋人と揉める。また、随所に挟み込まれる生前のキャサリン・マンスフィールドの役もジェーン・バーキンが二役で演じている。
それまでアイドル的ちょい役のような作品やゲンスブールのカルト的映画や、この作品の前年のドワイヨンの作家主義すぎる映画のような作品への出演しかそれまでのジェーンにはなく、やっと彼女自身の本来の魅力を出せた初めての作品として当時の私はこの映画を見た。この作品のおかげかこの後、文芸作への出演が増えていく。
この映画はジェーンの二役がとても魅力的な映画の鍵になっている。その理由はシンプルで、二役の両方がジェーン自身を投影しているからだと思う。ジェーンそのものの映画に見える。キャサリン・マンスフィールドとジェーンが重なって見えるのだ。ジェーンは演技というよりドキュメントのように画面の中にいる。マリー・テイラー役は今のジェーンそのもので、ジーンズをはき大きな籐の買い物かごを持って登場したりする。1920年前後の作家としてのキャサリン・マンスフィールドの文章を書いたりする姿も写真などで見るジェーンのプライべートの印象そのものだ。黒髪のボブのかつらをつけているが全く違和感がない。
当時大きなスクリーンで見て、とても驚いたシーンも後半に出てきた。今回見たのはVHSテープ版なので画像の粒子が見えて、表情が鮮明ではなかったが当時の記憶が蘇る。ジェーンの演じるマリー・テイラーは、恋人の行為がマンスフィールドの遺言を裏切っていると感じ、かっとして彼を殴るシーンがある。その時のジェーンの表情をかつて見た時に驚いたのだった。怒っているという演技だが本当に辛そうに、やるせなさやどうしようもない、さまざまな感情が入り乱れるような表情だった。これは演技ではなく、ジェーンそのものの存在で殴っているように見えた。そこに彼女の演技者ではないリアルが現れた。つまり、ジェーン・バーキンは女優として演技をするのであるが、それが自ずと自身のドキュメントになっているという稀有な女優だということに気付かされたのだった。
今回新たな発見があった。これは脚本家や監督の演出だがジェーンそのもののようなシーンで印象的なものが2つあった。一つはオープンカーでジョン・ミドルトン・マリとドライブしているシーン。遠くで踏切の遮断機が降り始めたのを見たジェーンがいたずらっぽい笑顔で車を急発進しギリギリで遮断機を通り過ぎ大笑いするシーン。
もう一つはジョン・ミドルトン・マリにキャサリン・マンスフィールドの話を聞くために手漕ぎボートで小島に渡って話しているうちに、ボートが流されていく。気付いたジェーンは大急ぎでズボンを脱ぎ(脱ぐんですよ、高齢男性とは言えその前で)ボートを追いかけて泳いでいくとてもお転婆な行為をする。次のカットではブスッとして濡れ鼠で運転をしてるかと思えば、次の瞬間二人して大笑い。この二つのシーンはあまりにもジェーン・バーキンすぎる。こんな演出を入れることで映画がグッと魅力的になっていた。そんな風にジェーンの魅力を生かしたこの映画自体の作りがとてもいい。おそらく監督がジェーンの魅力をよくわかっているのだ。
その後実存としてのジェーンは歌手として1989年に日本で初めてのコンサートを開催(その前年だったか、セルジュ・ゲンスブールのコンサートもあった。どちらのコンサートも素晴らしかった)。新譜の発売のたびに何度もコンサートで来日する親日家でもあった。映画俳優であれば観客のダイレクトな反応はわからないが、彼女は日本で何度もステージなどで観客の喝采と羨望、憧れのような眼差しを受けてきたからこそ、その後の日本との関係をうまく続けられたのだ。その度に(7~ 8回?)会場に駆けつけ私は彼女の姿を遠くから見た。この映画の女性マリー・テイラーと寸分違わない女性がそこにいた。
今年の7月にジェーン・バーキンは亡くなった。彼女も名前の後に(1946–2023)と生年と没年が表記される人物になった。そんな年にこの映画との再会を果たせたのは喜ばしい。人は死んでもその思い出や憧れをその人を知る人々に鮮明に残していく。
このテープを購入したサイト。マニアックなのでCDやLP、映像ソフトで何か探し物がある時に助けになるかもしれない。
VELVET MOON
この映画をウェブ上で公開しているニュージーランドのサイト。自動生成英語字幕がつけられる。
New Zealand FILM COMMISSION
週末にアトリエをオープンしてみた。
人が来るとなると窓を磨き、埃や蜘蛛の巣を払って床掃除もする。久しぶりにスッキリしたアトリエで絵を飾る場所を作ると気持ちがいい。描いてると、ひたすらになるのでなかなか片付かない。作るのは片付けることの逆だ。脳内は片付くが、テーブルは混乱する。
25年ぶりに家に戻って来た従兄弟の息子とそれを心待ちにしていた叔母。嬉しい笑顔が絵の前に現れた。
お二人の服が絵の色と見事にシンクロした。
告知は積極的にせず、口コミで友人たちが来てくれるゆったりした時間。のんびりした雰囲気で行こう。
作品をひたすら作るのじゃなく、見てもらう機会を日常の中に作って行こう。それが生活の中のアート。
この夏は、一昨年見つかった古い絵をうちにある100号のキャンバスに描いた。突然思い立って。それまでに自分の中でそんな機運は高まっていたのかもしれないがやるぞ、ではなくふわりとなんとなく始めた。絵とはそう言うふうに描けるものだとわかる。だからこんなに昔から絵というメディアがあるんだ。
油絵の描き方はこうなんだと決め込まず、元絵の指示に従うというルールで描く。迷うと元絵に戻る。元絵がこう言ってるからその通りに従うというやり方。このやり方は迷わずどんどん進められるので、絵の仕上がりも早かった。父の残した絵の具を使ってるので、足りなくなるとシャバシャバに溶いて増量したりする。一方で、クレヨンがこってりと乗ってる部分は油絵の具を盛り上げたり様々な書き方をやってみる。そして、毎日少しづつちょこっと直したり、中途半端な隙間時間に急に描いたり衝動的に進めていく。元絵に合わせて色を調合し、元のクレヨンのニュアンスを油絵のタッチに置き換えていく。これも思いの他楽しい作業だった。不思議に楽しい時間を見つけた。
7月の半ばに馬の絵を描きあらかた完成をさせ、暑かった8月は中止。9月に入って製紙工場を描き始めた。古い絵の発見から2年目でここに至ったことを自ら多としたい。
今日、窓の外には中秋の名月。月の出。
このシリーズに油絵の作品が入ってくるとまた楽しくなる。デジタルだけだと表現が狭くなるのでこの展開はいい。
『洲本の風景画』
会期の終了二日前に香川県丸亀の猪熊美術館へ向かう。15年前の夏休みに娘と行って以来だ。
洲本からの路線バスが限られた時間にしかなく(限られた時間にしかなくというよりも、今やあるだけありがたいというべき)、慎重に乗り換えのスケジュールを作る。乗り換えアプリで調べた上でさらに電話で確認する。いくつか時間の違うところが出てくる(^^;;)。
当日(かなり乗り換え時間にナーバスになってる)、スタートはバスで徳島へ向かう。鳴門大橋を渡りながら左手下方に渦潮が少し見える。海に造られた競艇場を右手に見ながら高速を鳴門で降りて、くねくねとした道を回り込み道の駅「くるくる鳴門」の前に遠慮がちに作られた風情のバス停で停車し、そのあと少し走って徳島駅前に到着。ここまで約90分。日曜の早朝のバスが順調に進んだのでほっと一息。その後徳島からの電車がよかった。
徳島~阿波池田へは特急剣山で徳島線を行く。阿波池田からは南風8号岡山行きの土讃線だ。岡山行きと聞いておっ、となる。島が橋で結ばれているので四国からも本州の新幹線駅へつながっているのだ。しかしその現代的なアクセスに似合わず、四国の電車はローカル色が豊かだ。2~4両編成でモーターの音も高らかに走る。これは列車が古いと言うよりも徳島から丸亀へと向かう内陸からのコースは山がちな尾根を伝って走っているようで、かなりの馬力をかけているのだと推察される。丸亀の手前からは四国の中央から北へ向かい瀬戸内に面して空が広がっていくがそれまでは四国の真ん中あたりの山際を走るのだ。途中には材木工場があり田んぼなどは見当たらない。山岳鉄道のように列車の窓に夏草が触れる。駅以外は単線で走ってるようですれ違う電車はない(美術館からの帰路は瀬戸内側のルートで丸亀〜高松/予讃線、高松〜徳島/高徳線になった)。
四国では電車は学生や年寄りしか使わないのかもしれない。今取り沙汰されている地方の赤字路線の一種か。とても風情があってよいのだ。2両編成の電車はボタンを押して降りる。乗り換えでアンパンマンの絵でラッピングされた電車が待っている。丸亀近辺を走り去る電車を見るといつの時代かわからなくなる。瀬戸内に近づくと山の形も穏やかになってくる。長閑で懐かしい景色だ。
予定通り丸亀駅に到着。美術館は駅の目の前。建物といい周りの立地といい、ここは本当に素晴らしい。空は広く駅前にせせこましいロータリーもなく気持ちが晴れ晴れとする。伸びやかな空気を感じる事ができるいい場所だ。
中園孔二君の何が気になっていたかと言うと、その作品もそうだが学生時代から数回の個展で注目を浴びながら2015年に25歳で早逝しているのだ。大学を出てしばらくして何故か香川県の海のそば、高松市内に移住しアトリエと住居を構えた。そしてある日海に泳ぎに行って海で亡くなったという。
そのことの成り行きに驚いた。海のそばで育った者としては他人事ではないのだ。また創作期間9年で600点の作品を残したのも異常な数だ。そもそも香川県への移住も一人で来ている。恋人や夫婦で来るのとは全く違う。そして知らない町で絵を描く。その孤独を思う。都会に移住するのはわかる。人口も多く、お金さえあれば頼りにする店やインフラが沢山ある。そこでも都会ならではの孤独はあるが、田舎の孤独とは違うだろう。彼は横浜市で生まれているので、その辺りの感覚はわからない。
ただここ10年の東京の在り方(都市として、歴史的に見て)を振り返ると、若者には住み辛くなっているように感じる。都市の中の遊びのような隙間がどんどんなくなってるのだ。窮屈で自然の減少も加速している。今後の見通しとしてそれらが改善されるようなプランも感じない。だから、地方へ行くという感覚は大いにわかる。
この展覧会はテーマを『ソウルメイト』としている。
中園の言葉が残されている。
「ぼくが何か一つのものを見ている時、となりで一緒になって見てくれる誰かが必要なんだ。となりっていうのは近くでっていう意味じゃない。それを見ているのが自分たった一人だとしたら、それは”見ている”ことにならない。二人以上の人間が同じ一つのものをかかえるという事が、それを”見る”という事だ。」
ここに並べられた絵は色彩に溢れ驚くほど様々な形態があり、ポジティブで野心的な試みに満ちた作品が多い。即興的でもありエネルギーが迸る。彼の孤独感だけを痛切に表しているとは見えない。だがここにある作品群は彼の悲痛な心の叫びを表してないか。絵を見ると彼の心の孤独を感じて切ない。つまり、エゴンシーレやバスキアたちが夭逝の画家の歴史の中にいるのに比べ、彼はその死がまだ生々しいのだ。そのことを受け止めながら絵を見るのは初めてのことだから通常の感覚とは違う部分に訴えてくる。
会場には彼が生前に残したインタビュービデオが流れる。
ビデオや書き残した言葉から、彼が生きていたことがこれから解き明かされていくのだろう。ただ、もうこれ以上新しい作品が増えていかないのは何よりも寂しい。
2014年の彼のインタビュー。
不慮の死の一年前のインタビューなので見るのに少し気が滅入る。
彼はとても明るいのでそんな感じはないのだが。
複雑な思いと共に美術館を後にした。
interview1
夏の暑さにやられてぼんやりと過ごしていても、八百屋の店先に新しい季節はやって来ている。近所のお堀の蓮の花が盛りを過ぎたと思ったら、店先にはもう蓮根の初物が並んでいる。この暑さの中でも、季節は変わらなくやって来る。いつもと同じように、新鮮で美しい。
自然の持つ織り目正しさ。その循環に心が律せられる。
鳴門のレンコン きめ細やかな真っ白な肌
さっそく蓮根できんぴら。
近所のイチジクや昔ながらのマスカットも秋に向かい美味しい。
8月の頭に東京から戻った時、3本の木がベランダで枯れていた。2週間、家を空けた罪かと落ち込んでいた。諦めずに水をやっていたら新芽が伸び、あたかも4月の新緑のように芽が吹き始めた。今もまだそれは続いている。春が2回やって来たかのようだ。ジャガランダは枯れた枝の下から新芽がどんどん再生している。シマトネリコと栴檀は枯れた幹のさまざまな場所から新芽が噴き出している。その生命力に目や心、五感がときめく。音楽が聴こえる。
介護付き老人ホームに3月末から入った母の面会も8月は2回行くことができた。母の部屋にはまだコロナのせいで入れないが、予約して訪問すると入り口ホールで10~20分ほど会えるので、今の母の様子がわかりとても安心だ。
母の認知症は確実に進み誰が誰かすらわからなくなってきた。しかしお土産の北海道・六花亭のお菓子を娘が渡すとチョコの箱を一つ開けて、その中の全部をひ孫に振舞った。ひ孫はびっくりして戸惑いながらもしっかりをそのチョコを握りしめていた。母の顔を見つめていた。母のプライドや子供達への気持ちが薄れてないことがわかった出来事だった。この夏の鮮烈な思い出。
『認知症でも心は豊かに生きている』
妻や娘が一緒に行ってくれるのは、何よりも嬉しい。
今はお互いそれぞれの母親のことを看る必要があるので夫婦でなかなか会う機会がない。これがこの時期の一つの試練か。
少し前には中学の同窓会があり、旧友たちと再会。こんな風に大人数で会う同窓会も最後かもしれないね。
吹奏楽部で毎日一緒にトランペットを吹いていた加藤ちゃんと。
このいい表情を撮ってくれたのは誰だったか。グレーの空間がいい。
東京から会社員時代からの友人大久保くんが泊まりに来てくれた。何年か振りで一緒に海に入った。美味しいものを食べて、たくさんの話をした。これもいい思い出になる。
去年からとにかく実家の台所のものが次々と壊れる。ガスコンロが壊れ、この夏は冷蔵庫が。新しい家電がやって来て部屋の風景も変わる。自分の意思にかかわらず、季節が変わるように少しづつ何かが新しくなっていく。
この夏、自分でもあまり意識をせず新しいことをしていたのは、100号の油絵を仕上げたこと。自分にとっては初めてのこと。
ずっと気になっていた父が残した画材。従姉妹からも伯父の残した筆などをたくさんもらっていた。そのおかげで一昨年の年末から油絵の小品は描き始め去年はお向かい猫のまつわる展覧会もやった。これは2022年2月22日と締切を決めてそれに合わせて開催したもの。
『お向かいの猫のための展覧会』
お向かいさんにもとても喜ばれた。これも両親が残した近所付き合いの名残だ。
そしてこの夏は100号の油絵を描いた。
一昨年アトリエの2階で見つかった、私が小学一年生の時に描いた絵をもとに大きく描いた。その時の気持ちを感じたくて。昔の小さな自分と出会う不思議な時間になった。自分の過去の絵を追体験することですごく元気でわんぱくだった頃を思い出したのだ。絵の中にその頃のエネルギーが宿っている。
これはおそらくスケッチ会の時の絵なので風景を自分なりにリアルに描いている。目の前にあるものを一生懸命に描いている。
海辺の砂浜には大浜公園がありそこでは馬に乗ることができた。馬子さんが綱を引いてくれて公園内や後ろにある三熊山へも登っていける。10円くらい払えば乗れる飛行機など遊園地もあった。大きな噴水や猿山。象の形を模して作った2つの橋。手漕ぎボートの店。温かいあめ湯が飲める茶屋。茶屋の椅子席の下の砂地には地中に住むハチの穴がたくさん開いていて、足元でハチが忙しそうに出入りしていた。ヨシズ張りの日陰は海岸とは違い涼しくていつも食事をする客で賑わっていた。皆楽殿と呼ばれた野外ステージでは夏休み、歌や踊りのいろいろな催し物があった。そんな夢のような景色があった。
大きく描き直せそうな絵がもう一枚あるので、これもいずれ描いてみたい。こちらは農家を訪ねて描いたもののようだ。場所がはっきりとはわからないので、小学校に問い合わせてみようかと思う。これらはこれまで描きためてきた『洲本の風景画』のシリーズに入るだろう。
幼い自分との対話は続く
20代にスペインを旅した時、シエスタで店がしまっている事に驚いた。お昼から夕方まで商店での買い物ができなかった。スペインの気候は暑く陽射しは容赦がない。しかし私は当時若かったのでそれが理解できなかった。そんな私が日本で今シエスタを取り入れている。暑くてどうしようもない時間には眠り、リフレッシュして生活を再開した方が能率がいいのだ。今朝も7時前に起き、朝食を終えて片付け物をしてるうちに注文してあったIKEAの大きな本棚が届いた。これが組み立てるにもそれぞれのパーツが重いのだ。汗びっしょり。なんとか2時間弱で組み立て、昼食に用意してあった天ぷらそばを食べ、Tシャツを取り替えてシエスタ😁本を読みながらゴロゴロしているといつの間にか2時間眠った。寝覚めはすごくいい。生まれ変わった感。活動再開。本棚が入っていたパッキングの段ボールや旧本棚から出てきた娘の学生時代のたくさんのバッグなどの置き場所を決め、直射日光が終わる時刻から集合住宅の植木の水やりなどを済ませ、クロネコ、図書館、MUJIと雑務をこなした。夕方の大通りを渡る風は涼しく、今日の業を成し終えた感があった。自分にも世界にも無理なく暮らすシエスタの効用を実感した日。
30代でトルコで熱中症になったことも思い出した。この時はコンヤという町で知り合ったトルコの方が額から頭に一周ぐるりときゅうりの輪切りの薄いのを貼り、その上からタオルを巻いてくれた。そして日陰で横になって休んでいるうちに徐々に回復してきた。トルコはスペインよりもさらに湿気がないので日本より体感温度も高い。ここでも日中は遊んでないでシエスタにかぎる。
「脱成長」という概念を本気で見つめなければいけない今、これまでは一つの理念として描いていたが、この夏の気候を体感していると、切羽詰まっていると日々実感する。今年が一番涼しいという説もそうかもと思ってしまう。斎藤幸平氏は「歴史的に見ると、経済成長と資源エネルギーの増大は極めて密接に連関して増え続けてきている。これを急にあと10年20年で経済を成長させながら、二酸化炭素の排出は抑えるってかなり難しい。(中略)私は、省エネ、再エネや炭素税とかも大事ですけど、短距離飛行機の廃止はフランスでは既に始まってますが、クルーズ船やプライベートジェット禁止とか、牛肉とかスポーツカーにはもっと重い税金をかけるとか・・・。それを低所得者の補償に使うなど大胆なことをしないとダメでしょうね」とかなり抜本的な提案をしている。(BS-TBS 『報道1930』7月25日放送の記事より引用)
私たちの世代はこれから余計なものをいろいろ制約されてもそれでOK。やっていけるだろう。普通の生活の中の新たな課税にさえならなければ。一般的に贅沢と言われるものとは違う価値観を見つけられるから。それよりも気になるのは、戦争や巨大建築を作るためのエネルギーや世界中でどんどん増え続ける自家用車・・・。問題は国と企業の在り方だ。
それともう一つ別の日本を覆う暗い闇、ジャニーズ問題。バレーボールの7月のネーションズリーグでジャニーズ応援団(?)の起用が問題になると、「国際大会はしょうがない」と主催者は諦めそそくさと彼らを応援団から外すが国内のTVや新聞などでは彼らの性被害の問題などないことのようになっている。メディアの共犯だ。このことの何が1番の問題かといえば、子供の人権の軽視である。延いては気候の悪化も実は人権問題に直結する。不都合なものに報道規制をかけるこれらの事柄は実は繋がりあっていて、三流国になってしまった日本の現状を表す。政治家の世襲にはじまる日本社会の劣化が温暖化問題にも大きな大きな影響を与えている。
タビアーニ兄弟の兄・ヴィットリオが亡くなり、弟パオロ一人で初めて撮った作品の予告編を見た。そして驚いた。それはどう見ても『カオス・シチリア物語』を想起させるものだったからだ。その映画は若い頃に見て、とても心揺さぶられた映画。シチリアの土俗と都市へ向かう人々との対比があからさまでなく様々な枝葉を持って描かれていた。それは都会で働き始め、悩んだり、壁にぶつかったりまた時に幸せな時間を体験したりしている自分との対話のような映画であった。シチリアの海や山が自分の故郷を思い出させる。そこに住む人々の自然や運命への従順さと権力への無言の抵抗。灼熱の大地とその美しさ。相対するものがぶつかり合い土地の生命力となっていた。人が生きていくことの諸々を描く、私にとっての映画の理想を見せてくれた。そんな映画の時を経た続編のようだ。
寓話的な語り口。リアリズムの映像。登場する無名の人々。役者も見たことがない人たちばかり。かつて世界のどこかで暮らしていた人たちを思い出させる。彼らの表情が懐かしく、切ない。音楽はオペラもあり、叙情をそそる。往年のニコラ・ピオヴァーニがつくる音楽。そんな映画が今の時代には新鮮に思える。そしてこの新作には『カオス・シチリア物語』など彼ら兄弟監督の過去の映画の映像が引用されている。これは90歳を超えた監督ならではの至芸だ。そして彼は今回の映画のテーマで亡くなった兄への想いを描いたのだと思った。
見終わってしばらくして『カオス・シチリア物語』を見返した。この映画は5話からなるオムニバス映画だ。何度も見ているが今の自分にはエピローグの「母との対話」が沁みてきた。母が亡くなり何年かして息子である作家が誰もいない自宅を訪れる話だが今の自分を見ているようだった。またはずっと会っていない同級生の友人を見ているようでもあった。私の母は健在だが今年の3月末に介護施設に入った。だから私が故郷に帰るときは(色々な理由で毎月のように帰っている)この映画の主人公と同じ無人の家に帰る。これは以前見た時とは違う初めての映画体験になった。果たしてこれから母が亡くなった時にはどういう心境になるのかと思わずにいられなかった。
もう一つ強く印象に残ったのは3つの物語に様々な形で登場するサロ(役名)だ。
第2話「月の病」では月に魅入られた新婚の夫を見守るため妻に頼まれてやってきた従兄だが、かねてからの想いを遂げようとする従兄の妻を押し退けて満月に叫ぶ夫を助けようとする。エピローグに於いては2つの役を演じる。ひとつはシチリアに帰郷した作家を馬車引として出迎え「俺を覚えてるか?」と問う。作家は忘れていたが家に着き彼と別れた後で、「サロだ」と思い出し呟く。それに応えるようにもう遥か彼方を走り見えなくなったサロが振り向き大きくそして感極まったように微笑むシーンが忘れられない。生きる意味がここにも現れている。その後の母の回想シーンでは船頭として亡命する一族の船を静かに漕いでいた。
このような人間は田舎にはたくさんいて、心優しく一方で怠け者でお金の稼ぎが悪い人間として市井で平凡に暮らしている。しかし彼らこそが故郷を作っている人々であり尊い人間なのだとでもいうように、タヴィアーニ兄弟が彼らを描く筆致は随所でそんな繊細さを見せるのだ。新しい『遺灰は語る』の中でも骨壷をシチリアに運ぶ道中の列車の中の様々な乗客たちや街中で遺灰の葬列を見守る人々がそんな温かい人間臭い心根を持つ人々として描かれる。
タヴィアーニ兄弟の映画は兄が亡くなっても変わっていない。
耐久商品を買おうとすると街のショップでは新しいデザインのものだけになってしまい、なかなか買いたいものが見つからないことが多い。1960~70年代は街を走る自動車でさえデザインが魅力的で幼い頃はよくノートに描いたものだった。今は車のデザインも魅力がなくなってしまい、その他の耐久商品でも同じようになかなか買いたいようなものはない。だからそんなものにばったり街で出会したら一期一会と思い買った方がいい。
この鍋はオーストリア製でかなりクラシックなデザインだが今でも新品が買える。ル・クルーゼやダンスクの鍋とも質感が違う。1550年創業とある。説明書の注意書き→空焚き禁止/蓋の取っ手は熱くなるので素手では掴めない/落とすと琺瑯は傷つくよ/洗ったら完全に乾かして。なんでも便利に出来ている日本製とは全く違う。また利用する資源についても「天然資源を侵さないよう、地球上に十分資源があり、天然で環境に優しい原料のみを使用。また、製品は100%再利用が可能で製造過程で発生するクズもすべて再利用されています」とある。熱は自前の水力発電。エネルギーの再利用として水力発電からの電力で熱せられたオーブンの熱(800℃)は「琺瑯製品を焼く」「製品を乾燥させる」「製造工程で使用する温水やセントラルヒーティング」の3つの用途に利用するらしい。ヨーロッパの老舗企業の環境意識は相当に進んでいる。
そんな見えないデザインが、見えるデザインと相まって心温める製品になっている。
陶器のポットはずっと使っているもの。これはイギリスの定番デザイン。鍋をテーブルに置いたときとてもマッチしてたので一緒に撮影。
東京の自宅の集合住宅内の公園の整備のため、敷地内の木々の落ち葉を集め土を作ろうよ、というプロジェクトを始めた。そのための看板を設置し張り紙もして、住民の意識を高める。なんでも楽しくやったほうがいいので、気楽な感じに見える立て看板を作ってみた。
これは「土中環境」という概念を唱えている髙田宏臣さんの考えに共鳴し、自分のところでも同じようにやってみようと始めたもの。土の下に水の流れる道を作り、固まっていない空気の通りの良い健康な土中環境を作ろうという概念である。このような概念は一つの哲学である。私も完全に理解しているわけではないが自分なりの理解でやってみる。その姿勢が大事かなという思いで。
敷地内の桜とクスノキが大きくなり、かなりの落ち葉が出る。少し小さめのイチョウ、ヤマボウシ、カクレミノ、マンサク、ツバキ、サザンカ、マテバシイなどの木からも。それ以外に低木のロベリア、アジサイ、アガパンサス、アベリアエドワードゴーチャーなどもある。その落ち葉や更新で切った小枝などを循環させ土を健康にし景観をよくしていければ、毎日の行いに明確な意味が生まれ生活が楽しくなる。
忙しさのせいにして見逃していたものの価値を再認識してそれを利用し始めると、住民の意識も変わり一緒にこの場所を作っているという共通の認識ができるんじゃないか。そうするとお金を払って誰かにやってもらっていたことがその出来栄え以上の価値を持つんじゃないか。そんなことを集合住宅で提案するのも面白いし、やりがいのあることだと思う。
先週末、神戸の塩屋にあるグッゲンハイム邸で写真家の藤原新也さんの主催するweb会員限定のインド音楽のコンサートがあった。その音楽に加えグッゲンハイム邸に興味があったのだけれど、その立地に驚いた。この辺りは海からすぐの崖を住宅地にしたようで、目の前がすぐ海。そして、海と邸宅が並ぶ敷地の間、邸宅のすぐ前を電車の線路が走っている。自分の家の敷地に入るために踏切を渡らなければならないのだ。つまり、地図で言うといちばん南から北方面に向かって海、線路2本、車道、細い歩道、線路2本、住宅地、山という並び。
上の写真、踏切を渡ってすぐ前の階段を10段ほど左側に登るとグッゲンハイム邸の入り口である。
この建物の前の自動車道の脇を東に歩くとこんな踏切もある。
写真ではわかりにくいかもしれないが、どちらも踏切を渡り急な坂を左に登る。するとその先に自宅の敷地がある。この3か所以外にももっと歩けばありそうだった。
考えるに、この線路はもともと歩道で、電車を通す時に他に線路を作れる道がなくやむなく家の前のメインロードに線路を敷いたのではないだろうか。さもなければ、山中を走らせるか、長いトンネルを掘るしかない。
そんな普通はありえない不思議な町に迷い込んだ感覚のまま、グッゲンハイム邸に入って行った。
町の雰囲気に押されて気もそぞろだったか。音楽に集中できなかったのは町のせいか音楽のせいか。
会員限定のイヴェントなので、雰囲気だけ掲載。
タブラー広本雄次さん、藤原さん、サーランギー西沢信亮さん
終わって邸の山側を少し登った。
急な山道を登ると(宅急便の人は大変だ)淡路島と明石大橋が見えた。
いろんな町に出かけて、時にシュールな体験をするのはいい。
このあと塩屋駅近くでお好み焼きの早い夕飯。うるさいおばちゃんおっちゃんたちの声のBGMの中でのビールは初夏の旅情😀
地域おこし協力隊の高田久紀さんが任期中に開発していたかるたが完成したと昨日届けてくれた。
これは楽しい。
去年の春にまず洲本に因んだ俳句を市民に向けて募集し入賞者を決める。その後、それぞれの句からイメージされる絵をまた募集する。そして選ばれたものをまとめ上げてつい最近完成したというわけだ。
絵札の裏には描かれた場所などの説明がある。
絵が足りないといってきたので、私も一点参加した。絵にするのがむづかしい句には絵が集まらなかったらしい。
私の絵は、句の後半の「花は葉に」という言葉を、ひらがな表記は同じで「花母に」と読み替え、父が残したキャンバスを使いアクリルで母を描いた。とまあ以下ご覧のように句も絵もとても多彩で面白い。
当たり障りのないものになってしまいがちな行政の仕事、絵一つを選ぶにも高田くんはかなり頑張ったようだ。上の真珠核の話題などもよく取り上げてくれた。それらが一体となり、さまざまな花が咲いているようでとても楽しいものを作ってくれたのだ。市内のいろんな場所で販売してほしい。洲本の土産の定番にしよう。洲本市は高田さんに感謝だね😀
すもと歴史かるたのサイト
東京からの帰り道、新大阪で下車して民俗博物館へ向かう。
博物館は懐かしい万博お祭り広場跡地の近く左側にある。
このポスターの彫刻が気になっていた。
この彫刻はメキシコの(アンヘリコ)ヒメネスファミリーという親子が作っているらしい。かつてエスニック民藝の店でメキシコの木彫りの像をよく見かけたが、この作家の描くものはかなり個性的だ。
「ナワル」という存在を描いているという。
ナワルとはシャーマン(スペイン語ではクランデーロ)のことで、呪力で病気を治したり、動物に変身したりするという存在。上のポスターのナワルはヤギに変身したナワルらしい。
メキシコ先住民の間でナワルはよく知られているが、地方によってその意味が違うという。
もう一つの意味は誰もが生まれながらに持つ人に寄り添う影のようなもので、たいてい動物の形をしているという。グアテマラのキチェ民族の子供達は、もし動物を殺せばその動物をナワルとする人から怨みを買うと教わることで、動物との共生の価値を学んでいく。
つまりナワルには動物に変身するシャーマンと、人間の分身動物という二つの意味があると言えるようだ。
彫刻自体かなりインパクトがあるしそれを描こうとする心の強さからくる物体のエネルギーを感じる。
この彫刻は狼だろうか。すごく穏やかな顔をしている。
これらの彫刻はその形や動き、表情から生きて人に寄り添ってるように見えるから不思議だ。
他にも見所が沢山あった。
展示は見慣れたペルーの編み物の帽子やパナマのモラ、ペルーの祭壇飾り(レタブロ)などから始まり、ジャマイカのラスタファーライやスリナムのマルーン(逃亡した黒人奴隷とその子孫)の人々の彫刻など多彩な展示があった。そして終盤のコーナーが圧巻であった。チリのアルペジェラというパッチワークが1973年からのピノチェト政権の弾圧への抵抗を描いていたり、メキシコのオアハカ刺繍を作る女性グループはアメリカへの不法移民の置かれた危険な生活を描いたりしている。壁画運動や民芸品でしか知らなかった中南米の国々の現代アートを見た思いだ。
連れ去られ行方不明になった夫の妻たち。
国境を封鎖するトランプ大統領。
また、メキシコにおいてほとんで知られていない黒人の存在を啓発するシリーズもあった。先住民の存在とも合わせて、彼らの地位の向上を目指し大きな木版画で表現している。
この展示自体が国立の施設で開催されているからだろうか?または収蔵作品のリミックス編集による展示だからだろうか、これだけのボリュームがあって入場料が880円。最近の東京都美術館の特別展が軒並み2,000円を超えているのと比べると、近くにあるものを再編集する豊かさを感じる。一般に価値の高いと思われているものはそれだけ入場料も高くなるが、自分で新たな価値を見出していけばもっとたくさんのものに触れられる。
ラテンアメリカの民衆芸術HP
美術手帖の記事
昔通った大学のある街で同級生に会う前に昔歩いた道を歩く。
この大きな都市には、大切な人が沢山いる。40年以上を過ごし培った人々との関係。もっとその関係を大事にしたい。悲しいことはいくつもあったけれど、ありがとう東京。
この町もやはり桜の植え替え時期。戦後すぐに植えた木々の更新の時期が来ていて、寄付を募っている。
全国どこも同じ。
赤い電車がトンネルに吸い込まれ消えていく。
グラウンドを臨むこの道もずいぶん前に舗装された。
新緑も濃くなり、紫陽花が(昔はこんなにあったっけ)盛り。
むせかえる夏の緑にはまだ時間が少しある。
この通学路を歩いている若者はかつての私だろう。
在校生、卒業生と近所の人以外は来ない道からの懐かしい夕景。
川越に住む大学時代の同級生、広沢浩一くんがお母さんの介護で頑張っているので応援しようと出張制作してきた。春先に作ったマーマレードを送ったらおかあさんも喜んでくれたという話を聞き、一度行かねばと思っていた川越の町に馳せ参じたというわけである。
彼に都合を聞き、広沢家での訪問&制作は昼食後ということにし、午前中は川越の町をぶらついた。コースは喜多院〜小江戸川越・蔵造りの街散策〜広沢家〜明るいうちに撤収とした。
喜多院の境内散策。寺へのアプローチは山道から雰囲気があり、古代からの歴史や風格を感じる。
菩提樹の木。
この厄除けのキャラがいい😀
本堂の外にある五百羅漢。風雨にさらされた何百年という長い年月の中で自然の一部になっていた。その人間臭いポーズと相まって身近で、愛すべき造形だ。近くに住んでたらちょくちょく会いに来たくなるような群像。こういうものは美術館で見る仏像とは全く違った感情を呼び起こす。
この後市街地へ向かうが今日の予定が日曜日に当たってしまったので、街中は大混雑。黒漆喰の蔵は迫力があり、なぜ黒になったのかを知りたかったがそんな余裕はなかった。ろくにぶらぶら歩きもできず、街外れの台湾料理店へ逃げ込む。
カフェ的なこじんまりしたこの店が良かった。ランチで一息。
そこから自転車を走らせ、広沢家には途中迷って電話で道を尋ねながら15分で到着。お母さんに挨拶をし、お土産を渡しお土産をいただく。わいわいと近況などを話す。
お母さんはベッドにいる時間が大半で、時間になるとヘルパーや看護師の方が来るが、広沢くんの完全看護である。要介護5なのだ。寝返りが打てない。そして発語がほとんでできないのだけれど、脳はしっかりしていてこちらの言うことは理解し、表情の反応もある。お茶を出しなさいなど、息子にそれとなく促したりしている。とてもエレガントなのだ。このお母さんだからこそ彼は動けない母親に話しかけながら、ほぼ24時間世話ができるのだ。
介護の形は本当に家庭それぞれで違う。それに対応するように介助者や医者などの力を借りながら暮らしていく。家族が小さくなってしまった今の社会では、このシステムがなければ社会は回っていかない。そして介護されるお年寄りに会うと、さまざまな感慨が湧いてきてこちらの成長を促される。
今日、多少は生活の慰めになっただろうか。これからも生活は続いていく。我ら介護適齢期の者にはこれから何ができるだろうか?
彼の自転車に先導されながら、本川越駅へと向かった。
彼がその時書いてくれたFACEBOOKの記事
東京の我が家の集合住宅の周りの植栽も春を迎えて賑やかになっている。嬉しいことに毎年なかなかうまく整わなかったツリーサークルが緑で覆われ綺麗になっていた。
アイビーに混じるドクダミの混入バランスが美しい。
上の写真はハート型のドクダミの葉が優勢。
下はアイビーの方が勝る。
いつもなら大量に咲くのに。
今年は控えめなドクダミの数が奥ゆかしい。
花が終わったヤマボウシ。実がなるんだろうか?
ベランダの姫スイレンは一番花がついた。
まもなく初夏に差し掛かる。
PS:このヤマボウシは蕾だった。今満開。6月25日記
PPS:ヤマボウシに実がついた。10月8日記
淡路島の五月はおそらく全部の季節の中で最も美しいと思う。
毎日のように山の表情が変わり、それを見るたびに心が動かされる。
緑によって体と心が解放される。
小高い丘のような曲田山を経て、それより少しだけ高い三熊山へと登っていく。急勾配で登り着いた標高133mからの景色は独特だ。
緑と海が溶け合う。
ここ3年、毎春ここで写真を撮っているが何度見ても美しい。
だから毎年来たくなる。
木の種類の多さ、多様さのせいだろうかこの辺りの新緑はモコモコと山が蠢いているように見える。山が一つの生命体のように感じる。
お城の周りは今工事中で広い敷地を取り囲んでいた石垣が徐々に姿を現している。インドやカンボジアの遺跡を旅してるようだ。見応えある場所になるかもしれない。
木を切りすぎて地盤が崩れないように注意してね。
徐々に下って海に至る。
帰り道から見上げる緑。賑やかな山の緑の繁茂と比べ街は静かで何事も起こってないかのようだ。
最後はマーケットで食べる緑をピックアップ。
おまけ:翌日、自宅から見る成長し続ける新緑と『洲本の風景画』で2013年に描いた洲本城。
↓この前日の猪鼻で旧友の西村くんの経営するキャンプサイトの新緑も。ボーイスカウトの先輩細川さんがスカウトの引率で来ていた。帰省中の上山くんを案内した。
そのあと向かった淡路市の海平の郷の新緑も。
夜はマーケットで買ったグリーンピースを白米と炊いた豆ご飯のチキンマサラカレー。
去年先行発売されていたデヴィッド・ボウイ (1947–2016) の2枚組CDがやっと映画として公開された。
これはデヴィッド・ボウイのアーティストとしての伝記映画であり彼が音楽を通し生きてきたその哲学の映画だと思う。
先行して聴いたCDの印象は鮮烈であった。ライヴ音源が中心でほぼ時系列に楽曲が披露される。それがさっきやったライブのように音が現代的であった。なぜかと音楽に詳しいO君にきいてみたらデミックスというデジタルによる音源分離技術があるらしい。つまり昔のライブ演奏などはスタジオ録音と違って音がトラック別に収録されていず、ひと塊で録音されている。それを楽器別に波形などで分離しそれぞれの音を整えることができるという。だから音に曇りがなく最新のデジタルの音になる。そのためまだ彼が生きていて最近行ったライブのように聞こえたのだった。これはデジタル技術の功の部分だ。その映画版がやってきた。
東京圏の映画館はすごいもので、何十もの上映館があり上映形式が3種類ある。IMAXとDolby Atmosと通常の映画館方式である。こんなにたくさんこの映画を上映する都市が他にあるんだろうか。しかもこれはハリウッド映画ではなく、ある種マニアックなコアな音楽ファンに向けた映画なのだ。
私事映画はなるべく午前中に見たいのでその観点で選ぶと池袋グランドサンシャインのDolby Atmos10:30と出た🤗
映画中2度、涙がこみ上げた。導入部から"Hallo Spaceboy"にかけて自分の鼓動が大きく打ち始め動揺してるのがわかった。涙は導入部と中盤の "Heroes"のライブ映像の時だ。闇のようなロスアンジェルス時代を経て、伸びやかな人間に再生したようなボウイの姿に打たれた。この時代はマスコミからも解放され、誰の注目も受けることなく制作に打ち込めたと映画は語っていた。一人のアーティストに立ち返った時代だったのだ。
ベルリン時代近辺(70年代後半)の『ジャスト・ア・ジゴロ』と『エレファントマン』の映像は若々しく、毀誉褒貶を受けながら懸命に音楽以外の新しい世界へ向かって行く姿に時を経た視点から改めて触れられる。そしてやがてカルトスターから一般的な大スターへと変貌する『レッツダンス」(1983)の世界へと移っていく。そこでのライブはそれまでの彼からは想像することが出来ないくらい大衆化され、映画ではかなり馬鹿馬鹿しい演出がフィーチャーされている。
べルリン時代の映像はもちろん、もう少し後の2000年以降の映像も見たかった。この辺りから彼はまた時代との共振が復活し始め希望溢れる最後の2作品へとつながる。不遇の90年代を経た2000年代。演出されないストレートなライブで彼の曲の良さと優れた音楽性が改めてわかる。映画の冒頭とラストが最終作品である『ブラックスター』であることはよかったが…。
おそらく版権の問題などで使えない映像が沢山あるのだろう。それを埋めるためにステージとは関係のないような歴史上の映画のさまざまなフッテージを挿入しているように感じる。彼が好んだ映画も含まれているとは思うが、凡庸に見える映像も多かった。無駄な繰り返しも。ボウイのステージ映像を期待して行った者には拍子抜けの感がある。あらゆる人を満足させるのは無理だ。"Heroes"のステージなどを見ることが出来ただけで満足しなければいけないね。
アーティストの晩年がいつも気になる。ロックミュージシャンやハリウッドのスターたちは多く悲惨な死に方をする。頼むから華美ではない幸せな晩年を見せてほしい。また若い時の世間への登場の仕方も気になる。奇異な形で世間の注目を集める場合が多い。これはデヴィッド・ボウイもそうだ。もっと穏やかな方法で世間に現れてほしいといつも思うがそうはいかないようだ。だから注目を集めたその後の人生の方がいつも気になるのだ。デヴィッド・ボウイが40歳を過ぎて(1992)イマンと再婚し幸せに暮らしたことはこの映画でも描かれていた。だから90年代の作品は不遇だったが私生活の充実はあったのだろう。その後の2000年代に入ってからのライヴ映像(Youtubeなどで見られる)でのボウイは、歳をとったからこその人間としての魅力が(若い時よりも)とても強く感じられる。そして最晩年(2013–2016)の新たな再生とも呼べる2作品。その復活した姿に打たれる。
素晴らしかったのはナレーションが全てデヴィッド・ボウイ自身の声だったことだ。第三者の語るボウイ像はそこにはない。その時の心境や哲学的な思想が彼の声で次々と語られる。その声の美しさ。過去にプロコフィエフの「ピーターと狼」(1978)でナレーションを行ったCDもあったね。語りが一つの曲のように聞こえる。
私は日本でのライブを1990年東京ドームで見た。これは過去を総決算すると謳われたライブだった。モノクロの巨大な映像を利用した演出が美しく迫力があった。その時の映像も映画では使われていた。その頃のように、過去を総決算しこれからは新しい曲しかやらないなどとは言わず、もう少しリラックスしてさまざまな時代の多彩な曲を常時演奏するようになったのは2000年前後からだったように思う。
時に傷つきボロボロになりながらそれでも常に新しいものを求め、現代のマスメディアや音響&ヴィジュアルの先端技術を駆使しながらも安易に徒党を組まず孤立して前へ進む姿は、私にはニーチェが昔言った「超人」の新しい形態のように見える。
デヴィッド・ボウイ『ムーンエイジ・デイドリーム』
"Heroes"の頃のボウイに会える。
David Bowie Tokyo 12 12 1978 full video
2018年に曲田山に植樹を始めて5年。仲間との花見に参加できた。島外からの参加者もあり11名が集まった。2018年以降の進展を知らないメンバーもいるので、まとめた資料を持参し説明した。我々の後、市のグループが100本以上の幼木(3m位)をこの公園に植え、市内全部で今後2000本余りを植える計画になっている。この同窓会がきっかけとなって、大きなグループが動き出したというわけだ。なかなかこういうのはない。だからこの会は共通のミッションを持つ仲間が集まるよさがある。単なる同窓会との違いだ。
話に花が咲き、天候は申し分ない。
満開の桜の下で過去と未来を語り合う時間があった。
これまでの経緯/
2018年12月9日(日)木を想い、世界を知る我ら
2020年3月5日(木)ハチドリのひとしずく
2021年2月1日(月)ハチドリのひとしずく第二章
2021年2月21日(日)後は見守ろう
去年からこのようなニュースを聞いてきたが日を追うごとにその件数が増えてきた。
再開発や建て替え、または賑わいや雇用の創出という名目で都市の木々が次々と切られるという。
◉東京・新宿区が明治神宮外苑の再開発に伴う約3000本もの低木(3メートル未満の樹木)の伐採を許可◉葛西臨海公園の水族館の建て替え工事にともない約1400本以上の樹木の伐採計画
◉商業施設と日比谷公園を融合させる計画が発表され、1000本の樹木が伐採される恐れ◉尼崎・小田南公園に阪神二軍ファーム球場建設のため公園内の樹木1000本伐採予定
東京オリンピックが終わってから続々とこのようなニュースを聞く。
オリンピックの次にお金を動かせる手法として、都市にあるたくさんの木々に目をつけたようだ。美的センスが感じられない前時代的な手法。東大を筆頭とする官僚養成大学教育の行き着く果てがこんなものだったっかと心が痛む。本当に悲しき日本。
東京はヨーロッパなどの都市に比べ街路などに樹木が多く、住む者や通う者の生活を豊かにしてくれていた。花の蜜を求めて蝶や蜂もやってくる。かつて私がつけていたオーデコロンの香りに誘われ駅から会社近くまでついてきた蝶がいた。私が大学に入学した時、四谷の土手の沢山のレンギョウが伸び伸びと枝を伸ばす光景を初めて見た。その奔放さは若者の心を明るく開放してくれた。日常のシーンでは大きなビルができるたびにその周りには沢山の木々が植えられ生活に潤いをくれた。そんな恩恵にあやかりたくて、30年と少し前に開館まもない葛西臨海水族園/葛西臨海公園の側に引っ越したのだった。毎年徐々に大きくなる木々を家族と一緒に楽しみ愛しんだ。家族で撮る写真の背景は木々や花や緑が美しく彩る。そんな豊かさを木々はもたらすということを知っていればこんな計画は考えもしないだろう。
この公園は都が作った公園だから都は何をしてもいいんだというような考え方だが実はそうではないのだ。その公園を利用するすべての人々に対してその良さを維持し改訂していく責務がある。30年で水族館を建て替えるというのもどうなんだろうか。スクラップ&ビルドではなくその場所の記憶を残しながら直していくべきだろう。設計者の谷口氏にも聞いてみたい。樹木も同じだ。毎年咲く花を見に来る人々がいる。木と一緒に我々も年をとっていく。育った樹木を資産と考えるべきだ。新しい施設を作りたいなら、既存の樹木を最大限に活かしながら作ればいい。それが今の時代だし新しい思想を感じる。公の場所に携わる者は市民よりも何十年何百年も先を見越した新しい思想を持って公共の場所を扱って欲しいのだ。
この季節は遠方からやってくる旧友のようで嬉しい。いつもの調子でワイワイとにぎやかだ。
祭りの日のように華やいでる。墓の水を換えて空を見上げれば春がふんわりとそこにいた。
神戸新聞の神戸版の夕刊に、文学の中の風景を描いたシリーズがある。その一編の中でトーハチAtelierが顔を出した。
筆者の樋口大祐氏は神戸大学文学部の教授で物語の中の歴史性のようなものを研究している方のようだ。サイトには文化構造専攻教授とある。谷崎潤一郎の『蓼喰ふ虫』(1928/1929)などの取材で洲本を訪れ、その時にアトリエを覗いてくれた。人形浄瑠璃のことや賑やかだった頃の話をし、図書館に浄瑠璃の資料などがたくさんある事をお知らせした。たまたまこの時期に来島したと思われるが最終日の夕方滑り込みで来店してくれたのは何かの縁だと思う。しかしこの作品を読み返すともうひとつ不思議なことが起こった。
物語の中「その十」の冒頭に「淡路源之丞大芝居 洲本町物部常盤橋詰」とある。少し読み進めると「奇抜な方では大江山の鬼退治で人間の首よりももっと大きな鬼の首が出る」と記されている。源之丞が大頭を持っている写真を今回展示してたのでびっくりしたのだ。記事写真では私の左肩のところに少し隠れている写真。そして物部常盤橋というのはここから数分のところだ。
今回の写真展の最中に宗虎亮氏のご子息である宗泰一さんから『淡路野掛浄瑠璃芝居/宗 虎亮写真集』という貴重な写真集をいただいた。その中に前述の写真を始め、人形を扱っている時の源之丞氏の写真や「淡路源之丞人形倉」という収蔵施設にあるさまざまな人形や小道具の写真もたくさん掲載されている。源之丞は代替わりしているかもしれないが、初めて見るそんなものに触れたばかりだったのでそれが『蓼喰ふ虫』の世界とリンクし、現実のこととしてまた自分の身近なところでの話として急に生々しく変質した。日常何気なく見ていた風景が変わる。それは新しい情報によって過去を生きた人々の息遣いが聞こえてくるようになったからだ。文学があり写真がありそれらは過去と未来に架橋し伝え残していくためのメディアとして人が作ってきたものであったことを実感した。
神戸新聞夕刊
今日は父の七回忌。22人が集まり、近くのお寺での法要は心休まるものだった。お寺の本堂がひとつの親戚の家であり、住職さんやその家族が近しい親戚関係であるかのように感じ始める。そこに会うたびに年をとっていくいつもの面々と成長真っ盛りの子供達が集まり、故人を想う。母は検査入院中で参加できなかった。
七回忌に因んで父をしのぶ小さな刷り物をつくった。A4二つ折り4ページ、表面だけの簡単なものだ。
去年の七夕の日に知人の友人から父の絵がひとつ帰ってきた。トーハチAtelierで絵や写真の展示を不定期にやっていることを耳にしてくれたようでFacebook経由で連絡が入った。これも何かの縁だろうと喜んで引き取らせてもらった。おそらく生前父が淡路の美術協会の知り合い(返してくれた方のお父さん)にあげた絵を、描いてるサインを見てその息子さんが持って来てくれたということだと思う。よっぽど好きとか資産価値のないものは手元に置くより、作者に近い人の元にある方がいい。そう考えて届けてくれたのだと思う。返そうとする人の気持ちが温かい。こんな所にも父の絵があり父の行為があり、それが時を経て帰って来たという感慨があった。父の過去に触れるこれもひとつの奇遇。その絵を表紙にあしらった。
思い起こすと2013年に父の米寿のお祝いがあり、2015年には父の作品集制作と個展を開催した。その度に洲本に帰り、以前には無いような父との密な日々を送った。その間父は間質性肺炎で入退院を繰り返した。一年遡ると2012年の秋は上野の美術展の審査で酸素ボンベを携帯しながら単身東京に来ていたのに。この時は4泊くらい滞在していたので、わたしや大学生の姪など日替わりで父と一緒に泊まってサポートした。毎晩父と食事をした。駅ビルの寿司屋のカウンターで食べ、泊まったホテルのイタリア料理屋で食べた。駅からホテルへ渡る大きな歩道橋のまん中あたりで父は息が切れてベンチで一休みする。そこは浮浪者のたまり場になっていたようだが、父は気にせず彼らの間の空いたベンチに腰掛けて一息ついていた。わたしも笑顔になって一息着いた。この時期に父と寄り添えた時間は思い出の特別な部屋に眠っている。
下の写真は2015年5月に撮ったもの。
展覧会の会場から介護タクシーで病院へ帰る時の父。軽く手を振る姿を見ながら、この世との別れをしているような気がしていた。
その一年半後に父は亡くなった。
日の出が早くなり始めてるが、今朝はカーテン越しの光がないなとぼんやり目を覚ましたら雪。
積もるのは今年3回目かな?
さらさらと音をさせながら、静かに降り続く。
病院の検査で年始に胃潰瘍が見つかり現在薬で治療中。元旦以降アルコールやコーヒーなどの刺激物を控えている。朝のコーヒーがないのは切ないもので、侘しいなぁと思いながら朝から黒豆茶や麦茶を飲む。このところミルクをメインにしていて、その甘さの恵みを毎日感じている。こんなに沢山牛乳を飲むのは10代の一時以来だ。ビールのない夕飯、コーヒーのない朝食にもだいぶ慣れてきてペースが掴めてきたところ。もう痛みはなく、体調も戻ってきた。立ちくらみもほぼなくなり、階段の駆け上がりもこれまでと変わらなく登れている。3月末の検査までこの生活は続く。しかし、毎朝何杯もミルクを飲んでいると少し変化が欲しくなる。ちょっとはいいかなとシナモンをトッピングする。ホットチャイのようにクローブやカルダモンは入れずシナモンを少しだけ。そして不思議だがアルコールを摂らないと美味しいお菓子を食べたくなる。だからビールを買いに行くかわりにバタークリームなどしっかりとした成分で作られた美味しいお菓子を買いに行く。これが今年の2月のスタイル。
年末に少し体調を崩しベッドの中でうつらうつらと夢をみていたら、淡路島に定期的に通ったり暮らしたりして10年が経ったことに気づいた。淡路島での生活を良いものにしようとしてきたが歳月人を待たずの感が強い。
2017年に父が亡くなったのを機に自宅とその後アトリエになる旧店舗の大掃除に費やした時間はいずれはやらなければならないことだったんだろう。膨大な時間、体力、筋肉痛、雨漏り、際限の無い不要な物、取っておくもの…。沢山の友人、先輩方の協力で段々と片付いてきたのはとても嬉しい。その間に淡路島にいる時間を利用して、洲本市や淡路市で何度か展覧会を開催してきたのだけど振り返るとこんな年譜になる。
◉2013年「ブラジルの音楽画&洲本の風景画」展
(洲本市・坂本文昌堂ギャラリー)
◉2014年 洲本市の路上で学生時代のシルクスクリーンポスター展「ヤマダレトロ 1979~1984」展
❇︎2015年「旅する絵画~遠くへ近くへ~山田収男絵画展」
(洲本市文化体育館)
❇︎2018年「花色紙・山田収男水彩画展」
(洲本市・坂本文昌堂ギャラリー)
◉2018年「淡路島海景」展
(淡路市・淡路島ハイウェイオアシス)
◉2018年「淡路島記憶景」展(淡路市・ウェスティンホテル淡路)
◉2019年「アワジ×ブラジル×アイビー」展 (淡路市・淡路夢舞台)
◉2021年「サウダージ洲本!サウダージ淡路!」展
(洲本市・トーハチAtelier)
◉2022年「お向かいの猫のための展覧会」
(洲本市・トーハチAtelier)
◉2022年「ひまわり2022」(洲本市・トーハチAtelier)
◉2023年「淡路島が見ている夢ー淡路島写真1955–2022」
(洲本市・トーハチAtelier)
(❇︎印は父の展覧会の企画・制作)
前半の5年は東京から通う、という生活だったのだけど2018年からの5年は淡路での生活時間の方が長くなった。
その理由は母の介護が始まったからだ。それに合わせるように自分の生活が変わってきた。良くも悪くも年相応の生活になったということか。
その時期の最初に作った作品は洲本の風景画がメインだった。これは同じ商店街に住む坂本くんからの依頼でその年の春に東京で開催した展覧会を洲本でも、というものを少し膨らませて企画を作ったことから始まった。3点からスタートして現在12点のシリーズになった。
その後淡路島の過去の画家や写真家たちの軌跡を辿り優れた作品の多いことを知り、個人のコレクションや施設に収蔵されている作品を撮影したり、古い写真をお借りしてスキャンすることを進めた(下渕冷泉子氏の絵、宗虎亮氏の写真など)。これはまだまだ時間が必要だ。
そうこうしてるうちにコロナ禍で動けなくなったので、アトリエの向かいの不動金物店の猫やこの場所にしかない懐かしい路地を描いた。この町には私が幼い頃から変わらない路地が沢山残っており、そこを通るたびに過去へとタイムスリップしてしまう不思議な町なのだ。
去年はウクライナ戦争が始まり、そのやるせない想いを洲本近辺で咲いていたひまわりに託して描き、その都度アトリエで展示してきた。手法はサインペン画、パソコンのタブレットで描き紙やキャンバス地に出力したものや油絵、アクリル画など色々だ。
その間、2019年秋には東京のブラジル大使館で「ブラジルの音楽画・時の続く限り」という展覧会を開催した。これは以前から描き溜めていたブラジル音楽をグラフィック化したもの20数点に、ブラジルのグラフィックを張り込んだ洲本で作った屏風を合わせて展示した。
いずれも淡路島に暮らしていなければできなかった作品かもしれない。または、淡路島で暮らしてなければ他の作品ができたかもしれない(または何も作らなかったかもしれない)。
そしてここ2年は自宅アトリエが整ってきたので展覧会の形も変わってきた。気が向いたらできる。例えば去年の猫の展覧会などは2月2日から2月22日までと、猫の鳴き声に合わせた日にちも自由の決められる。貸画廊ではこんなことはできない。つまり、とてもゆるい。または寛容。しかしこれらの事がどんな意味を持つのか今は自分でもわからない。ただ一つ言えるのは、今まで街の中で何かの役割を果たしていた店(薬局+化粧品店)がなくなることが忍びなく、何かそれを受け継ぐ場所を作りたかったという気持ちがあったということだ。
夢中でやっているとその気持ちは通じるもので、この場所に馴染みのあった市内の方や私の小中高生時代の友人たちが立ち寄り昔話が弾む事も多かった。それに加え展覧会のたび(または展覧会開催中でなくても)に島外からも友人たちがやってきた。大学時代の友人たち、会社員時代の後輩たち、東京都美術館のとびらプロジェクトの仲間たちが東京や埼玉、神奈川、大阪、神戸などからやって来てわいわいとこの場をあたためてくれた。それに加え、島外からの移住者の方たちとも沢山知り合えた。これはアトリエという店舗があることの絶対的な良さだった。
もう一つの故郷への働きかけとして2018年の12月に中学校の同窓会で行った桜の植樹があった。
その年の夏に集まった時、地元の曲田山の桜の木の荒廃を嘆いていたらみんなで何かやろうということになった。クラスで募金を募り市に場所をかけ合い、12月に植樹の運びとなる。これにとどまらずこの先がよかった。われわれクラス会は翌年も桜の植樹をしたのだが、それらが同じ問題に心を痛めていたさまざまな人の心に届いた。2021年の2月には市や観光局などが動き、お金を集め2,000本の桜を植えるプロジェクトになっていく。現在、いろんな場所に大人が手を伸ばした背丈を少し超えるくらいの小木が植えられ、その光景を見るたびに希望を感じる。また市の大量植樹のプロジェクトのプランが決まりかけた時に当時の副市長の上崎さんがわざわざアトリエまでプランを持ってやってきて、我々の植樹との連携を語ってくれたのは嬉しいことであった。とてもフェアな立ち位置で、小さいが大きな希望となる行為の最初の我々の芽を尊重してくれていたのだった。
そして洲本の生活で重要な位置を占めるのが食である。地元の食材を使った料理を日々作った。ここでしか採れないナルトオレンジで作るホームメイドのマーマレードは絶品だ。なんとイカの種類が多く季節ごとにさまざまなイカが現れる😀鶏肉専門店の鶏の挽肉で作るキーマカレーも、鶏肉の鮮度やセセリが混じってることで味や食感が違う。魚は言うまでもないか。そのモチベーションは地元で採れる食材の豊かさにある。また、母にいろんなものを差し入れしてくれる近所の女性たちへのお返しにも役立ち、自分の作ったものが交流の仲立ちをしてくれるのは嬉しい。
こんな風にして、生活は変わってきた。
そして今写真展を開催中。
数年前の混沌状態から建設業者を入れず自力でよくここまで来たと思う。すっきりした内装になり作品に集中できる様になっている。真っ白なリフォームした部屋では無いところの面白みを目指してはいるが、あまりにいらないものが多かったり、ただの古びた感じだと侘しいので古さが味になっているといい。写真の壁の鉄の枠を何日かかけて頑固な汚れを落としきれいにした。壁は重曹やメラミンスポンジで地道にクリーニングしたことを思い出す。
このアトリエが市民にとっていい場所になることを願う。そんな気持ちも今回の写真展のテーマ、「淡路島が見ている夢」ということそのものでもあるように感じている。
これらの写真は前述したように3年ほど前に写真家の方々のご自宅に伺い、借り出してスキャンしレタッチを施したものだ。その訪問にしても淡路島の人脈に疎い私を中学時代からの同級生が縁のある写真家にコンタクトを取り、家まで案内してくれて実現したものだ。だから3年越しで、借り出した写真のほぼ全てをきれいなプリントで披露できるのは本当に感慨深い。
そしてそこに現代のカラー写真が混じりミックスするような形で展示したので、単にノスタルジーだけに陥らず上下左右の作品と呼応するように古い作品も息づいているように思う。もしもこの展示を見た人がこれからの先のことに対して気持ちが動き、淡路島に対してまたこの世界全体に対してポジティブな気持ちを持ってくれると嬉しい。
頻繁にやってきた展覧会もこれで一休みになるかな。10年経ち、足元を見つめ直しリスタートの時かもしれない。
新年トップのいいニュースはブラジルの新大統領ルラ氏就任の記事だった(その後アメリカを真似て反対派が連邦議会に侵入したりしてるようだが)。ウクライナ情勢、増税議論、軍拡、コロナ、少子化、貧困や格差など沢山のネガティブなニュースが年々増えていく。そういったことはいつの時代にもあり、何が起ころうともせめて第二次世界大戦の前の時代のような極端な右派政権にだけはならないようにするしかない。世間の文句ばっかり言って、それで溜飲を下げ何も行動しない人が一番よくなくって最低なのだ。自分から行動はできない場合には、誰かを応援できればいいのだ。
そんな中で、年末にあった坂本龍一氏のライブ配信の一部を年が明けてNHKが放送したのはいいニュースだった。しかし彼の健康状態を考えるといいとも言ってられない。だからせめて自分の周りからだけでもいいニュースを発信したい。そんな思いでおとといからアトリエをオープンしている。うれしいことに、ここにやってくる人たちもまたいいニュースを運んでくる。それはこの場所を有効に使おうとしていることを理解してくれて、その気持ちに応えようとしてここにやって来てくれるからだ。
今回は小さな冊子を印刷し4人の写真をまとめた。
調剤室に眠っていた漢方薬剤の植物をすり潰す機械をきれいにして配置。
これまでデッドスペースになっていた柱の影にも写真を貼り、気を流し込んでいる。
被写体になってる人がそれとは知らず偶然に訪れてくれた。千山でお守りなどを売っていたおばさん(前の住職の奥様?)。うちの父の処方で色々助かったらしい。飼ってた犬の風邪も薬のルルを砕いたりして餌に混ぜるのを父が教えて治ったと言う。お金やハガキを置いていった。一緒に出品している中尾さんが彼女の写真を偶然展示していた。
これが2018年に撮っていた写真↓。猫の顔立ちが神々しい。この方が父を偲んできてくれた時に、この写真を展示していたことがグッドニュース。
友人の息子さんが神戸からのサイクリングの途上で立ち寄り、長話をしていってくれた。逞しくなっていた。
叔母の同級生も様子を見に来た。電動カートもバリアフリーで入れる。さまざまな機運が渦巻く場になっているように感じる。
まだ始まっったばかりなのでこれから楽しみだ。
『やりなおし世界文学』津村記久子
ことしは久しぶりに文字だけの本。とても映像が浮かぶ本であった。
世界文学が100近く取り上げてあり、それについての彼女の文がいい。これだけの数の本を読み、感想を書くというだけでも力作だが、その内容は高い所から語るという姿勢が一切無いので文章への共感性を呼び起こし、バイアスがかからず作品の持つイメージが素直に湧いて来る。この人の文章は若い人にある口語的にくだけた表現が時に混じるのだが、そのことで言葉の及ぼす幅が拡がると同時に、それを支えている文章のまじめさがよくわかる。ちょっとイケズなところも効いている。物事に対する姿勢に初々しい所があり、それが共感を生み出すのだ。後30年もすると彼女はどんな文体になるのだろうかと期待する。その初々しさを持ちながら書き続けられるのか。ときどき気になり図書館で借りて来て読む。作品をよく書いている。中でも短編集『浮遊霊ブラジル』はどの作品もとても好きで、また読みたくなるだろうと思う。
この本には著名な作品が多く出てくるので、自分がそれを読んだ当時の情景を喚起するという、物語以外の非常に個人的な現実のイメージをも脳内に映写するという二重の作用を及ぼす。
例えば「『強さ』は『弱さ』に何をやってもいいか?」テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』」という文では、私は大学時代にデザインで関わった同じ作家の『ガラスの動物園』の芝居の女優を思い出す。主人公の精神のバランスのあやうさは両作品に共通しており、そのような弱さの表現を演じることにとても強い印象を受けたのだった。まさに津村のタイトルと同じような思いだ。
「彼らに従属しないために誠実でいる」アラン・シリトー『長距離走者の孤独』も学生時代に沢山読み、シリトーに嵌っていた頃の自分を、取り巻く世界の有様を思い出す。そして、解読する津村の文によってその記憶が明確になる。つまり自分一人だと眠ったままの記憶が彼女の読み解きによって目を覚ましたのだ。
「すれ違う誰かの一分一秒」マンスフィールド『マンスフィールド短編集』に置いては、ニュージーランド映画祭(1986年?)で見た『マンスフィールドの追憶ー孤独な果実』というマンスフィールドの自伝映画を思い出す。そして、その頃の私の生活や関わってくれていた世界を。その映画は強い印象が残っているが、マイナーな映画なのでもう二度と見ることはできないかもしれない。
年を取るというのはこういった思い出がたくさん身についていくということなのだろうか。若い人がこの本を読むのとは全く違うことを感じてしまうのだ。
先日ニュースでアメリカのニューヨーク州の北部が猛烈な寒波に見舞われ、さらに低気圧と満ち潮が同時にあり、大きな波が雪におおわれた町に流れ込んだ映像を見た。これには猛烈な恐怖を感じた。真冬の洪水だ。東日本大震災よりも雪が多く、町全体が凍っている。それを思わせる記述がこの本に出て来た。
「夏は太陽が焼け付き、冬は風が吹き荒れて鉄板のように灰色になるという、『人を突き動かすような極端な気候』とされるネブラスカの大地の描写がまず印象に残る。」(大地に生きるあらゆる人々の叙事『マイ・アントニーア』ウィラ・キャザー/佐藤寛子訳)
厳しい気候を肌で感じるような描写を取り出している。それだけで小説の世界観が浮かび、言葉の力によってイメージを喚起する。
ここでは私は20代の頃聴いていたブルース・スプリングスティーンの『ネブラスカ』というL Pレコードを思い出す。聴いていた部屋を思い出す。そこで描かれる寂寥感だけを感じさせる人々の関係や殺風景な風景を。ギター一本で作られたその音楽の持つ寒々とした、でもやるせない力強さを。
また気の抜けた表現で精神をマッサージしてくれるものもある。
「渾身の力で記されるよその家のどんならん事情」ウィリアム・フォークナー『響きと怒り』
う〜む、どんならんって50年ぶりくらいに聞いたよ。文字で見たのはもちろん初めてだ。
『アッシャー家の崩壊/黄金虫』ポーについての書き出しは
「アッシャーさんち、崩れちゃったんだってね。あっしゃー。と言う書き出しに決めていたら、翻訳の小川隆義さんが〜(以下略)」
という具合にいい頃合いで肩をほぐしながら、様々な文学作品を紐解いていく。『夜と霧』についてはこういった表現とは全く違う硬派の書評になっている。自分の中に眠っているイメージ以上のものを見てみたい方はぜひ手に取ってみてください。
洲本市の商店街で1月にウィンターフェスティバルという行事があり、アトリエも参加をすることになった。
去年の1月に開催した写真展で宗虎亮さんと野水正朔氏に写真をお借りしたのだけれど、今回は私よりも世代が若い中尾真世さんと私の写真も加えて4人の写真で1955年から2022年までの長いスパンでの淡路島写真を展示することにした。A4均一のプリントを200点と少し展示する予定で準備中。
並べてみるとこれがなかなか面白い。前記のお二人の撮った写真は1955年から1970年代までで、われわれの写真はそれ以降をカヴァーする。写真には色々なものが写り込んでいるので、その時代の雰囲気だけでなく、人々の思いや生き方なども反映されていて興味深い。例えばこの2枚の写真はどうだろう。
これはほぼ同じ位置から撮った2枚の写真。宗さんの1967年の写真と私が撮った2013年の写真。およそ半世紀を経た世界だ。そこにはその時代ごとの世相が写り込んでいる(それを夢と呼んでもいいかもしれない)。宗さんの写真はあたかもインドのガンジス川の様相だ。すごく熱気に溢れている。人の数だけ海も汚れただろう。清濁併せ持つ時代のエネルギーがびしびしと伝わってくる。一方の写真には人はまばらで穏やかなリゾートの雰囲気。これは2011年の震災以降の時代の気分かもしれない。まあこれをどう解釈するかは見る人がそれぞれが考えるといい。こういった比較するような写真ばかりではないが、沢山の写真を並べることで様々な視点を持つことができるだろう。そういう意味で2面の壁面に二百数十点、正面のウィンドウにも数十点と、なるべく沢山展示できればと思っている。
以下、展示の概要など。
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淡路島が見ている夢
Awaji Island dreams a dream of Awaji Island dreaming
1955年は戦後という時代も進み、人口がどんどん増えていった時代。その時代の写真にはすごく沢山の若者、老人や子供たちが写っている。時代のざわめきの中で行き交う沢山の人たちが映り込んだ写真が多い。そこから時は現代へと流れ込んで行く。そこにはその時代ごとの空気が、そしてその背後には時代を経ても変わらない、人々を包み込む淡路島の穏やかな風土と鮮やかな光がある。それが淡路島写真と呼びたくなる理由かもしれない。
A4均一サイズのプリントを並べると、淡路島が見つめた今日までの70年がくっきりと浮かび上がってくる。
産業や街並み風俗などの記録として貴重な写真、モダニズムが流行った頃のアーティスティックな写真。屈託のない表情の人々のポートレイト、美しい花々、動物たち。様々なトーンの写真が混在する。
時代が異なる沢山の写真を同時に見ると、これから生きていくためのヒントがあるようにも感じる。
人が住む土地にはどこであれその土地ならではの物語があって、それは住む人にとっては当たり前のようで、実は当たり前ではなく、無くしてしまえば二度と作れないかけがえのないもの。写真はそんな価値を相対化し見せてくれる。
開催期間:2023年1月7日–29日(期間中の土日祝日開催/平日も時々開館)
開催時間:13:00–17:00
場所:トーハチAtelier(兵庫県洲本市本町八丁目7-1)
1月に展覧会をすると、冬の日々があっという間に過ぎていきます。ふらっと温泉に入りがてら、立ち寄ってみてください。
現在準備中↓並び順を検討中。
今回展示した作品を全て楽しめるサイト。まだテスト版。
日曜日のルーティンコース。今日はライカを携えて。
ライカと言ってもレンズのみ。ボディはデジカメのOLYMPUS Pen E-P1に装着。週1回の図書館から週2回の食材の買い出しコースを経てランチを食べ、遍照院経由でアトリエに戻るというコース。多分1キロ四方以内に全道程が収まっている。この中には海水浴場があり、大きな県立病院や飲み屋街、映画館などもある。昔から生活圏が集約されたコンパクトシティなのだ。
季節柄、干し柿を作っている家がすぐ近所に2軒ある。最近気になっている見慣れない空き地や入ったことのない路地にも迷い込む。どうやら私道らしく、路地に面した三和土のような台所で料理中のおばちゃんに声をかけられ談笑する。
路地を抜けた図書館周辺は開放的だ。元の大きな紡績工場の敷地の再利用。この図書館のデザインや家具は最高だ。ここにあるハンス・ウェグナーのオットマンは他では見たことがない。そこにみんな普通に荷物を置く。これを作ってくれたその時代の担当者や設計者に感謝する。
図書館から自転車で2、3分くらいでランチは「たねさん」という手作りチャーシューの店。この店にはなぜか父の描いた15号くらいの油絵が飾られているのを数年前に発見し、それ以来週末にはランチ時に訪れるようになった。作ったチャーシューを刻んで麻婆豆腐に使っている。だから程よい歯ごたえがある。そして山椒が効いている。チャーシューとサラダのセットだと、脂身のバラ肉と背のさっぱりした部分の2種類のチャーシューが楽しめる。今日はアウトドアの席で。その前にAEONで母の紙パンツを買ったり、写真の展示に使う紙マットのフレームも。食後に肉屋さんを2軒まわる。とり専門店と牛豚専門店が2〜3軒隣にある。
これが最近のお気に入りのお地蔵さん。新しめで小さいので2体どちらもが子供のようで可愛い。近くには大きな馬頭観音やいくつかの仏像が並ぶ。これらの仏像とも馴染みになってきた。
年明けの展示に使う素材を展示変え大掃除中のアトリエに入れて帰宅。明後日からの神社のお祭りの垂れ幕が下がった商店街。母に遅めのランチの用意をしよう。
刈り取られた後、2度目の満開のひまわり。
溢れ種からか、真夏よりも小ぶりでかわいいひまわりが咲いている。日差しは暖かく、夜は寒くなってきたので北欧の気候の中で咲くひまわりのように見える。
この辺りでは、刈り取ったイネの根元から新しい茎が伸びて、今では4~50cmくらいになっている。二毛作の東南アジアならこのままもう一度コメが穫れる。
なんとなくいつもそんな風に感じてはいたが、本当にそうだと今日はっきりとわかったのだ。
ゴルトベルク変奏曲がプールでの泳ぎそのものだったことを。
プールへ行くと私はいつも黙々と泳ぎターンを繰り返す。いつもそんなだから妻と行く日には「よく飽きないね」と言われる。彼女は学生時代に部活でかなり泳いできたので、もうそんなに泳ぎたくはないようだ。しかし私は何十年も毎週必ずプール通いをしていても全く飽きたことがない。
その原因は泳ぐたびに水の表情(混んでると波があったり、反対にガランとしたプールだと水は穏やか。若者のグループがいたり、親子や年寄りのウォーキングがあったりで.......etc)が全く違うからだ。その水を相手にしていると固定したものが何もないので飽きないのだろう。水自体を楽しんでいるのだ。
さらに左右の腕と足を交互に動かすことも大きな理由だ。これってある意味、ダンスと同じなのだ。ずっとプールに浮かび、床と並行の上空で踊っている。そして、踊りには音楽が必要なので、常に音楽が聴こえている状態で泳いでることになる。そう、泳ぎは音楽そのものなのだ。泳ぐ速さを目的としていないのでこういう感じ方になる。つまりプールに行くことは踊りに行くこと。「プールに行ってくるね」と言わず、「踊りに行ってくるね」と言ってもいい。
そしてそこで感じる音楽のことだ。時によってその曲目は変わるのだが、具体的な曲であったりなんとなく音楽を感じてる時もありそれは様々だ。でも常に音楽の中にいる感じがある。
そして今日泳ぎながら気付いた事実は次の様なことなのだ。
最近は25mプールを30往復する。30ってゴルトベルクの変奏の数と同じ!つまり一往復ごとにテーマを変奏しているのだ。もうゴルトベルグ変奏曲の中を泳いでると言ってしまおう。楽譜の中を、ピアノの中を、鍵盤の上を泳いでると言ってしまおう。あれだけのバリエーションのある曲だから泳いでいて飽きようがない。
さらにプールに入る前の軽い体操と、終わってからの入念なストレッチ。この二つが30変奏の前後にある二つのアリアなのだ。泳いでる時よりテンポも随分とゆったりとしている。ただ最後のストレッチの方が随分長いので、ここだけバランスが崩れている。
これが唯一の問題点。
オーディオルームにしている洲本の部屋のスピーカーを4チャンネルにしてみた。聴いている音源が4チャンネル用に作ってあるわけではないので、あくまで疑似であるがこれが気持ち良い音空間になっている。そしていつも思うのだが、 CDやLPをセットし音楽が流れ出し、目に見えないものによって場が新しく生まれてくることの不思議さを感じる。
YamahaのAVアンプ。これは5.1chに対応している機種。本来はそういう風に作ってあるDVDなどに対応する。そこにSonyとYamahaの2組のスピーカーを繋いでみた。
4つのスピーカーの中央あたりで少し動きながら聴いてみる。近くのスピーカーの音が動きにつれてクレッシェンドして聞こえてくるので、位置が変わるのに呼応して音も動き、4チャンネルの音の中にいるように感じる。そして音に包まれる。これまでになかった音体験。曲による音源の左右の音のレイアウトの作り方にも寄るが、心地よい浮遊感がある。体と脳の両方に入ってくる。今まではコンサートに行くことでこの感覚を充足していたのだ。
こちらはカセットも再生できるミニコンポ。スピーカーを少し大きいものに変えて2チャンネルで聴く。
生活の句読点に一曲だけ聴いて心に風を送る。精神的に助かる。古いものばかり。最近よく聴くのは
Suzanne Vega"Gypsy"
Martha Algerich"Ravel : Sonatine"
Jane Birkin"Palais Royal"
Paui Simon"American Tune"
David Bowie"Hallo Spaceboy"version of THE FILM : MOONAGE DAYDREAM
Carly Simon"Never Been Gone"
Aimer『コイワズライ』(これだけ少し新しい)
古めのアコースティックなこの時代の音楽のギターは本当に音が美しい。ギターサウンドが中心のポップスの時代だが、流石に録音もギターを大事に考えて音楽が作られている。ギター自体も今はいい木がとり尽くされてしまいこんな音の出るアコースティックギターはもう作れない。この時代はギター自体もそしてギターにとっての録音も最上なのだ。
父のアトリエを整理して出てきたカセット。ムード音楽というもの以外は私が高校大学時代にLPで買って実家(ここ)に置いてあったもの。ボブ・マーリー"Babylone by Bus"やスティーヴィー・ワンダーの"Key of Life"、三木敏悟の『北欧組曲』など綺麗にジャケットを作りコピーしている。これは知らなかった父を発見。
父の聴いていたムード音楽とは、ラテンやクラシック、アイルランドやアジアの音楽もあり、今でいうワールドミュージックのような音がよく流れていた。
こうやって古いものに手を加えたり発掘したりして、すでにあるものに新しい光を与える。これがレトロという概念かな。もしくは今はヴィンテージという言い方もあって、このようなワードで新しい価値をさまざまな事柄に付加してる。これはいいことじゃないかな?
近所に住むいとこのヒロくんが今日釣った魚を届けてくれた。鯛があると何かのお祝いのような気分になる。釣りたての命が漲っている。
その時ちょうど来てくれていた母のヘルパーさんにカワハギの捌き方などを教わりながら料理する。
尻尾の方に切れ込みを入れて、一気に皮を剥く。頭のほうまで剥くと、裏側へも自然と繋がるように剥けていく。カワハギという名前の由来がよくわかる。内臓は捨て、肝だけを取り出す。
鯛はウロコと内臓を取り塩焼きに。めでたい正月気分になる。
いつものように身をほぜって提供。毎年正月にはこうやって家族に取り分けるのが私の役割だ。残った頭と骨は、翌日潮汁に仕立てて鯛の身を乗せたご飯にかけ鯛茶漬けにした。さらに余った身は翌々日のホワイトソースに入れて潮汁を添えたスパゲッティに。
カワハギは醤油と味醂で煮つけて。肝が頭の上に飛んでいる。どうやっても美味しくできるなこれは。
彼の父(私の叔父)も生前、よく魚を送ってくれていた。自分が釣った鯛を毎年のように東京に送ってくれるのだ。歯科医の叔父は、週末になると漁師に船を出してもらい、沖に出て大物を狙っていた。歯科医は細かい手先の器用さが必要で、その細やかさが釣り針や細いテグスの扱いに役立っていたらしい。
思い出すのは猪肉を送ってくれたこともあったな。今のようにカレーに入れるようなことはせず、レシピを聞いて正統な猪鍋(牡丹鍋)に仕立てたのだった。友人たちと鍋を囲むそんな温かい時間をもらった。そして、今はその息子で歯科医院を継いだヒロくんが叔父と同じように鯛を持って来てくれる。これはありがたくてすごい遺伝子だ。そんな関係があるこの町。
台風と入れ替わるように
新しい季節が生まれた
くっきりと
色分けされた新しい世界
軽やかな姿で
これからよろしく
世話になるよと
やって来た
近所の気になるひまわりを見に行く。
畑を見守るかのように、あたかも彫刻のように佇んでいる。
今日も存在感がある。人のように見える。太陽で焼け焦げて、干からびても倒れない人だ。
周りの小さなひまわりたちもわさわさと、従者のように噂話をしているようだ。
明日の台風で倒れてしまうだろうか。
そんなことを思いながらペンを走らせた。
洲本の自宅の近所には沢山のひまわりが植えられている。
畑の脇にあったり、お寺の境内や、出荷のために栽培してる農家も多い。今は花のピークが終わり、懸命にたねを育てている時期。枯れたり、首を垂れたり、真夏のひまわりとは違う風情がある。
いろんなところでひまわりのスケッチをし、その敷地の方に挨拶をする。スケッチする人も珍しいようで色々話をしてくれて楽しい。
花の少ないこの時期でも百日草やラヴェンダーの花、コスモスは蕾をつけている。凌霄花は初夏に一度満開になり、これが2度目の盛りだ。この庭は見事だ。手入れする老夫婦の気持ちがこもっている。おばあさんが何度か水をやりにきた。遠くに住む息子さんがプレゼントしてくれたというオリーブも植えてある。立ち止まって見ると、こんな楽園がそこここにある町。
この夏のひとつのテーマ、『ひまわり』についての展覧会が終了。いつもとは違い、この花の持つ大らかさポップさなどが作用し、この場所でのこれまで2回の展覧会とは違うものになった。
地元の同級生酒井君や近所の人たちがやって来る。
風鈴と新しいライトボックスも涼しげに。
いつもと違っていたのは、こどもたち(大人も)がひまわりを自然に描いてくれたこと。置いてある画材で暑い中描いてくれた。
8月11日・山の日には近所の「米田屋食堂」の就労支援での利用者の方々も来てくれた。
職員の方がいっしょに描いてくれたのもうれしい。
参加してくれた方々の集中力は素晴らしく、力のある場ができた。
会場には大貫妙子さんのアルバム『東京日和』が流れていた。この中に『ひまわり」と言う曲がある。もう一枚はジョアン・ジルベルトの『三月の水』。どちらも夏のうだるような暑さの中、ガムランの音に聞こえる風鈴にシンクロしてこの場を天上に導いてくれた。
お向かいのクロもしばしば姿を現し、愛嬌を振りまいていく。
そして終了の翌日は、寺町の送り火。
いつもとは違う新しい夏が去って行く。
先日、東京からの帰り道で上京時にさしてきた傘を持ち帰っていた。しかしその日は快晴で、真夏の強い日差しが駅までの10数分、惜しみなくその光のエネルギーをふりかけて来た。
持っていた傘はコットンの雨用の薄ピンクの上品なもの。あまりに暑いのでさしてみた。これがよかった。歩くのに合わせて移動してくれる日陰。しばしその静寂の涼を味わった。そして、手島葵のオンブラ・マイ・フが頭の中に流れて来た。
wikiによれば曲はヘンデルが作曲したオペラ。歌詞の内容はプラタナスの木陰への愛を歌ったものらしい。
原詩(イタリア語)
Ombra mai fu
di vegetabile,
cara ed amabile,
soave più
(日本語訳)
かつて、これほどまでに
愛しく、優しく、
心地の良い木々の陰はなかった
こんなことを歌詞にするのんびりとした時代があったんだと以前は思っていたが、自分が今そんな気持ちになった。
この歌の歌詞を体感した朝であった。
それにしても、この日すれ違う人々の中で日傘を使う女性は何人もいたが、男性はいないのだ。これはこれから広がる男性の新しい体験ゾーンになるだろう。なかなかいいものなのだ。
そのとき、もうひとつ思い浮かんだのがピーター・ドイグの絵だ。
この絵には、日傘をさす男性の姿が描かれている。青空と強い光のコントラスト。なぜか気になる絵だったのだが、男性が日傘をさしている、ということもこの絵の大きな魅力なのだと認識した朝だった。
Peter Doig/Lapeyrouse Wall 2004
oil on cambus 200×250.5cm
先週の東京で、アゲハがベランダの木に卵を産みつけに来た。
毎年のように、この光景を見て来たが今回あらためて小一時間くらい見つめてしまった。
アゲハは柑橘の葉にしか卵を産みつけない。だからベランダ中の葉に足で触れてその種類をチェックしている(ように見える)。これがなかなかうまくいかずに、間違って紫蘇の葉に産みつけようとしたり、月桂樹の所で長時間チェックしていたりすぐには巧く産みつけられない。それが素人ぽくってういういしい。とても繊細で魅了的な動きをするのだ。
そうして苦労してやっと産みつけられたら、すぐにアリがやって来て食べられたりもする。もちろん人間からも攻撃され、せっかくの柑橘系の樹木がアゲハの幼虫にその葉を食べつくされないように卵の段階で地面に落とされたりもする。
しかしアゲハは次の日にもやってきて、ひたすら卵を産みつける。自然の摂理に胸をつかれるべランダである。
6頭立てのレモン
学生時代に『ひまわり』という映画と出会った。
ヴィットリオ・デ・シーカが作ったイタリア映画。
何がその印象を強烈なものにしているかと言えば、戦争がもたらす個人への圧倒的な悲惨さの強要だった。戦争は沢山のものを損なうが、ここにあるのは精神性の喪失。それでも人はそれを越えて生きようとするが、その悲惨さは拭いようがなく過去が今の生活に顔を覗かせてしまう。戦争とは本当に恐ろしいものだとこの時に悟った。何が正しくて、誰が悪かなどということでは全く無くて、戦争が究極に悲惨だということだった。この映画はそれを教えてくれた。
映画の中に現れるキエフ(旧ソ連)郊外の広大なひまわり畑。夫を捜す妻がウクライナの地を訪れたとき、その満開のひまわりの下には夥しい数の戦争の死者が埋められている、ということを付き添いのソ連の軍人が物語るシーンが映画の中にあった。その場面の衝撃。目に見えないものが目の前に浮かび上がる。戦争の爆撃や倒れて行く兵士たち。爆破された戦車や足を失った男たち。叫び、嘆き。そこにある風景は、一見美しいひまわり畑に見えるが、それは悲惨な戦争画であった。そんな映画のイメージが、今年の春からのウクライナ戦争のニュースを聞きながら眼前に浮かんで来る。
映画『ひまわり』予告編
戦争のニュースを聞きながら描いたひまわりの絵。
そのニュースのあまりのむごたらしさ。
何も考えられずに、手が動くがままにひまわりを描く。
目の前にあるひまわりの花々。
描き直しは一切せず、マジックペンによる一発書きだ。
それに色を付ける時も何も考えずに、手の動くがままに色をつける。
だから出来上がった絵は、自分が描いたと思えないようなものが沢山出来上がる。
そんな絵画体験。
[ひまわり2022]告知
美しいだけのひまわりではなく、枯れていき、またそこから再生するようなひまわりを描きたかった。自然界ではそれが毎夏繰り返される。枯れながらも種を育み、未来をうかがっているようなひまわり。それがいま見たくて描いた。戦争のニュースがあまりにもひどいので、どこかに希望があればいい。そんな思いをこの絵に込めて。
映画の中の本当に魅力的な主人公役のふたり、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニももうこの世にはいない。
素晴らしい役者として生きた彼らもまた、咲いては枯れるひまわりのように思える。
[ひまわり2022]終了後のブログ
母の介護が佳境に入っているけれど、まだまだ見所は多く(見所など言ってる暇もなく便の処理をしたりおしめ交換のバトルもやっているが)忙中閑ありでいい時間が訪れる。ヘルパーさんたちのやり方や心根、そんなものに日常で触れられる喜び。なかなかいいんだなぁ。
今年は従兄弟が植えてくれたペロペロネが満開。ここまで3週間くらい、沢山の花がずっと咲いている。和名:コエビソウ。3年前に亡くなった年下の彼を思い出す。
こうやってベッドのシーツなどを夜中に整える癖があり、結局変なことになる😝
ヘルパーさんがみんなそれぞれに庭の花を持って来てくれる。
釜谷さんが持って来たおっきなキュウリをトマトソースに。夏。
西田さんはこの前日に咲き終わった月下美人を持って来た。ピンク色とその肌理が桃のよう。
水分補給で朝から大好きなノンアルコールビールを提供。
タコの季節到来。今年もこんな季節になった。この大人びた色合い!
友達がスピーカーを譲ってくれたので淡路島の自宅のカーペット敷きの部屋に設置した。SONY SS-2250Mという機種で1975年頃に作られたもの。幅345×高さ650×奥行き290mm、低音用のコーン部が250mm。重さ12.5kg。結構重い。スピーカの重量はメカ部分ではなくほぼ箱の重さだ(東京のアパートで使ってるJBLのL40というこれも古いブックシェルフ型のスピーカーは一回り小さいが重さは20kgと記されている)。写真のようにコーンは変色しているが、コンディションはまだいけそうでゆったりとした音で鳴ってくれる。
大きなスピーカーだとやはり音に包まれたようになるのだ。小学校、中学校とコーラス部やブラスバンド部で毎日生音に包まれた生活をしていたので、私にはこのような包み込むような音場がしっくり来る。これはもう幼い頃にできた感覚だ。生音に近づくには小さなスピーカーだとどうしてもシャープになってしまい無理がある。ヘッドフォンだと音の分離が聞こえすぎる。このくらいのサイズがあるとナチュラルな音でそこに官能性と深みが生まれ違う場所へ導いてくれる。
生活の中で、何かの折りに1曲だけ聞いてみたりする。音に臨んで聴く、というコンサートの時のような感覚にもなるのだ。1曲聴くつもりが音楽が脳や心を虜にしてしまうので、絡み付く音の中で何曲も聴いてしまう。このスピーカーに替えてから、脳が痺れたような快感に包まれる時がある。こんな古いスピーカーで、これだけいいのだから、もっと大きなスピーカーでも聴いてみたくなる。
コロナ社会になり、コンサートで音楽を聴く機会が減ってしまったからこそ、自分の生活空間でこういったスピーカーを使い全身に伝わる音を聴く意味もまた出て来たのかもしれない。
足元には象の置物を置いて一緒に聴いてるような風情で。いま一緒に日常の中で音楽を語り合える人がいないから。
これは昔、私がインドを旅した時に父へのおみやげとしてアーグラからはるばる持ち帰ったものだ(父は象の置物を集めていた)。大理石でできていて、ものすごく重い😫スピーカー並みだ。旅行中苦労したのを思い出す。
父の死後、なぜだか姉が自分の家に持ち帰ってしまい、ある日気づいた私が返してもらったのだ。父にあげたものだから、父の家に置いておく。この方がいい。それをむやみに動かすと色々とよくないのだ。
石や貝が様々に埋め込まれ、とても美しい。タージ・マハールのある町には、こういった細かく精緻な象眼細工のできる大理石職人がたくさんいた。いまでもこういったものを売っているだろうか。
インドからやって来て、いまは音楽を聴く時の相棒として、こんなところにいる。さぞかし耳の肥えた象になるだろう😃😊😝
母の状態は日に日に変わり、毎日が死を想え(memento mori)という状態になって来た。
自宅のリビングルームにベッドを置いて自由に暮らしているので、日によって元気に歩き回り憎まれ口をたたいたりするけれど、それも花火の様で実体は枯れ木の度合いを増している。
先日、姉の方から母をそろそろ施設に入れる事を考えなきゃね、という話があり、それは私も思って入る事だけれどそういう話をするとそれを察して当事者が身を引くという事も考えないといけないのだ。これは父の時にもあって、入院から戻って来た時の介護施設を探していた時に亡くなっている。人の死とはそういうものでもある事をその時に学んだが、そんなことをみんな忘れてしまうんだな。目の前の自分の事でせいいっぱいで。
そんな日にもイワシを捌き、フライにして、トマトソースパスタに。
トマトソースは前日に作ったデミグラスソースをアレンジし、ニンニク、タマネギ&トマトを追加して仕上げた。
お迎えの「ソレイユ美容室」のメグちゃんがおいしい人参ドレッシングを作って来てくれた。これはうまい!オイルを使ってない感じがするが、タマネギと人参と酢?でこんなに旨味がが出るの??!!。
母は突然起きて食べたり、昼は寝ていて夜、仏壇のお菓子を食べたりする。その時に食べるのを期待して最近はテーブルに食事を出しておく。夜になるとカブト虫の餌を仕掛けた昔を思い出す。
駅のホームはコロナ禍からやっと抜け出した修学旅行の学生たちでいっぱいだ。私が荷物を置いた荷物置きの隣りの席で、気分を悪くした女生徒を先生が介抱している。暑くなって来たので大変ですね、と声をかける。新幹線に慣れてなくて、と先生が言う。これからまだバスで移動なんですが、と。生徒の顔色は落ち着き始めた。やっと再開した修学旅行だもの、東京を楽しんでね。こんな会話をしていると、私の旅も修学旅行のように感じ始めた。
東京駅をもうすぐ出発する新幹線の席で、数日前に近所の書店のバーゲンブックで売りに出ていて購入した(500円😄)村上春樹の『女のいない男たち』の英語版ペーパーバックを取り出し目次を見ていたら日本版には無い変わったタイトルを見つけた。
'SAMSA IN LOVE'
ザムザと言えばカフカの『変身』の主人公のグレゴール・ザムザだ。村上春樹はカフカが好きで小説のタイトルにもしているのでこのタイトルを付けたわけは容易に理解できる。私も『変身』は好きだ。マグリットの絵にも似て、気持ちを解放する。しかしこんな短篇は読んだ事が無い。短編集にも入っていないのでは?
というわけで、程よい謎と好奇心に促され、初夏の光が溢れる新幹線車中の読書に臨んだ。
いつものように変わった話で面白い。そもそも『変身』自体が一番変わった話なのでそれをモチーフに変わった話を書いてもそれほどの驚きは無い。驚きよりも、彼がこのモチーフをどのように広げて行くかが楽しみで読み進める。もちろん分からない英単語は沢山あるが話の展開が知りたくてどんどん読み進める。時にコーヒーで一休み。
景色も楽しむ。
初夏の田んぼには水が張られ、無数の苗が植えられ、輝く光に満ちている。こんな景色の中を椅子に腰を下ろしたままで水平に高速で、すーーっと移動し続けるのもとっても変な話だ。透明の新幹線を思い浮かべてみる。
韓国風の弁当を食べる。
思ってたより少し辛い。
眠る。
いつものように主人公と女性との会話がいい。しっかりした芯のある女性の澄み透った目と背筋の伸びた態度が清々しい(彼女はどうやら小柄なせむしの女性のようだが)。
A boy meets a girl. (またはA girl meets a boy.)という彼の小説にいつもある出会いの瞬間を描いている。人生はそんな出会いに集約される。この小説の中でそれは街中の兵士や家族の不在と言う不穏な空気の中で描かれる。英語版なので正確に理解した確信はない。
あっという間に明石大橋をバスは渡り、小さな旅も終わりだ。
一編の短篇小説が楽しい時間を過ごさせてくれた。
旅の時間に小説の時間が絡み合って。
PS:この短篇は『恋しくて―Ten Selected Love Stories』
(中央公論新社、2013年9月、村上春樹編・訳)
という彼が選んだ英語圏の作家のアンソロジーに収録するために彼が書き下ろしたものらしい。日本語の短編集には収まらず、それを外国語版の『女のいない男たち』の出版に際して(2014年)英訳して収録したということなのかな。外国版と日本版でこんな編集の遊びができるのも作者として楽しいだろうね。
昨日の投稿で光の事ばかり書いていたが、この日出会ったシダの新芽が美しかった。
なかなか見る機会が無い。おそらくシダの生長は速い上に、注意して山道を歩いてないと気づかないのかもしれない。
これもまた人智の及ばないSecret Life of Plantsだ。
あまり光を好まない植物のイメージがあるが、適量の光を求めて太陽に向かって伸びているように見える。
くるくると、葉がほどけながら生まれている感じがする。
ワラビにも構造が似てる。
昔の人はこの状態のものを食べてみたかも。
昨日撮った写真を見ていて昔の事を思いだした。光の事だ。
会社勤めで深夜残業が多かった頃、終電が終ってしまうとタクシーで帰るのが普通だった。
恵比寿からタクシーに乗り、「湾岸線でレインボーブリッジを使って葛西インターへ」と言い、いつもタクシーに乗り込んでいた。このルートが一番早いのだ。料金はだいたい6,000円くらいだっただろうか。疲れた体を後部座席に沈め、高速道路に入るといつも眼鏡を外した。そうすると高速道路のオレンジや白の照明が乱視の目で見るときれいな事を発見したからだ。
乱視の目で見ると、ひとつのライトのまわりを取り巻くように10個くらいの同じライトが現れる。見る対象物が少しずれて2つに見えるのと違って例えば時計の中心にひとつのライトがあり、それぞれの時刻の部分に同じライトが現れてくるように見える。さらに道路に沿って沢山の同じライトが着いているので、11個のライトがひとつのセットになりそれが列になり無数に重なり合い、道路に沿ってカーブを描きながらその折り重なった光のかたまりの列が動いていく。先行する何台もの車のテールランプの赤も幾重にも重なり光の道を作っている。
それは車の動きに合わせて右に揺れ左に揺れ、まさに光の洪水のようだ。幻想に捕われているうちに、やがて自分だけの10数分のショーが終わり、高速を出ると自宅はすぐそこだ。そんな光を昨日見た。写真に撮るとそのような光が現れて来た。全く同じではないが、光学的に似たニュアンスがある。目とカメラのレンズは似ているのだろう。
私は若い時から強い近視と乱視があり、くっきりとした情景を見た事が無い。いつもぼんやりとした風景を見ており、きちんと凝視してもシャープには見えないので困る時もある。一方で世界の有り様がふんわりしていて、そういった視野は柔らかいニュアンスのレンズで写真を撮った時に似ているなと思う時がよくある。
昨日の写真はカメラのレンズの特性と、風景の光の位地や強さ、角度が生み出したものだろう。
シダの新芽がきれいなので夢中で撮影していた。後ろの光に後で気づきこの背景の光を拡大してみると
少しニュアンスは違うが、タクシーの窓から深夜の高速の街灯の群れを眺めていた慌ただしい日々を思い出した。忙中にも美ありという事か。
山笑う、とはよく言ったもので4月の緑はずっと笑いかけてくる。
すぐ上の写真は南向きの先山。このパラグラフの下が北向きの三熊山から曲田山。山の向きで新緑の進展が違う。(どちらも今日撮影)
東京の先週末のベランダではナルトオレンジの幼木やキウイやクスノキやアベリアなど、身の回りにある全ての葉が笑いかけてきた。遠くから近くから手を振りながら。幸福な季節。
これから夏至に向けて緑の成長は続く。季節が春から夏に向かい、めくるめくような日差しと空気に重さが混じり始める。水辺からは波のざわめき、山からは蝉の歌が始まる。
毎週通う市営プールの隣りの野球場にあるメタセコイアの並木の新緑が見事になった。見ている間にも新しい葉が生まれてくるような生命力を感じる。淡路島は木の種類が多く、無限の緑のバリエーションが毎日微妙に、時には急激に変化していくように感じる。この時期が1年で一番美しいと思う。
メタセコイアの並木は球場のスコアボードのちょうど後ろ側に左右対称に20本くらい植えられている。
冬には完全に葉を落としてしまうので、この季節の芽吹きは始まった野球シーズンと同じように、春の新しい季節を告げていて心が躍る。
この球場は誰でも入って観戦ができる。内部にツバメの巣があるようなとても開放的でのんびりしたいい球場だ。
巣作りを始めたツバメのカップルは沢山話があるようでとても賑やかに止めどなく休みなく語り合い求愛している😊まさに今が春真っ盛りであると告げているかのようだ。
新緑があまりに美しいので、アトリエの展示替えをした。ここに置いてある大学時代のシルクスクリーンのポスターを並べてみた。
色彩が溢れる季節に促され、そういったものを街に飾ろうと思う気持ちが自分にある事に気づく。木々の緑が芽吹くように自分も芽吹いていく。一本の木なんだ自分が。そんな風に季節を感じるのだ。
制作費だけもらってこういう作品をいくつも作っていた事を思い出す。ギャラはいらない。とにかく作っていたいという気持ち。その熱をここに展示する。
タイトルはOn the University Street/Silkscreen Postersとし、左下の段ボールに書いた。
2年位前に転勤で他県から洲本に来た友人の車で新緑を見に行く。その友人たちももう少しすれば自分たちの場所に戻って行くらしい。
話し合う中で印象的だったのは、友人の奥さんが親の介護をする兄姉との介護に対する温度差ができてしまいそれを埋めるために地元に戻り自分たちが使える時間を介護に振り向けたいという話。
いつも介護をやってくれている兄姉に申し訳なく思い、このままにしておけば兄姉との関係が壊れてしまうかもという恐れだった。
これは立場はちょうど逆だが、今私が姉妹との関係の中で考えていることと全く同じように感じたのだ。母の介護の時間を私が取れば取るほどそういうことに自分から進んでは時間を取ろうとはしない姉妹との落差が生まれる。そこに関われなくともその時間を思い、なんとか思いを共有しようとする気持ちが無ければどんどん話はできなくなってしまう。そんなことを私は今体験しているんだなと、この会話を通じて感じた。彼女が感じている危機感を私も持っている。2月にアトリエに来てくれた初めて会う同世代の男性の話の中にもそういう事があった。両親が亡くなると、兄妹で会う意味がなくなったというのだ。今までそんな風に考えた事は無かったのだけれど、母の介護にまつわるここ2年くらいのことを考えるとそれも理解できてしまったのだ。久しぶりで親戚として集まり、正月を一緒に過ごす意味も無いなと。これも、新しい季節の中にいるということか。
新緑を味わい、ランチの時間を共有しその店で作っているチーズ入りのソーセージと友人にもらったおすそ分けのそのまたおすそ分けのねぎで夕飯を作る。その横では幼なじみの作った米を炊き、翌日用の淡路牛のすじ肉も湯がく(フォンドヴォーのカレーを作ろうか)。平和で豊かで何も心配する事は無いかのようだ。
そういえば、そのとき会った友人のそのまた友人のダリのTシャツを着ていた娘は元気かな。麦茶をあげたんだけどなかなか素敵な小学生だった。彼女のことを思い出しながらまた麦茶を湧かしている。
洲本の春も桜に包まれる。中でも気になるのは遠くに見えているが、そこまではなかなか行けない山の桜だ。
去年もやっぱり気になって、山中の鮎屋川ダムの辺りまで自転車を飛ばし(1時間以上かかったか)初めて見る山桜の光景を見た。
今年もまた気になる遠景の桜が山中で咲き乱れる。日本の春の美しさと、新しい芽吹きへの序奏となる煌めくような空気を味わっている。
先週末、神戸から来てくれた友人と見た山裾で人知れずに咲く桜の群生も見事で、思いがけない春の祝祭のただ中に放り込まれたようだった。
あの年の3月もこの時期に同じような気持ちで桜の写真を撮っていたことを思い出した。
小雨の中、あまりに美しくせつない桜。
故郷を追われ、故郷で闘うウクライナの人々を思いながら。
雨に濡れ、冬を背負ったままの木々は黒々と空を区切っている。
新しい季節の準備をする薔薇も雨の中で泣き疲れ、まどろんでいるかのようだ。
洲本では冬の家が寒い。だから体と心が知らないうちに縮こまり、緊張してるのかもしれない。母との生活では会話もさほど弾むでもなく、そのせいか生活全体の温度が低く感じる。そんな切ない冬の出口でこの色彩に出会うと、様々なものが解けていくように春を感じる。この淡い色彩の中に冬を越えて来た喜びを感じてしまう。
自然に近い所で暮らすと、そういった感性がどんどん強くなっていくように思う。季節やさまざまな自然の変化が体や心全体で感じるようになる。それは自分の能力の再発見であり、再開発でもある。
これで3回目の冬を過ごした事になるのかな?
淡路島のこの冬は沢山のミサゴ(魚を主食とするトビ)がうちのベランダの前を毎日のように飛び交っていた。窓をかすめて2羽が遊ぶように飛んだり、家の上空から10数羽の群れが上昇気流に乗り旋回しながら前方の山の方へ移動していったりする。そんな冬だった。
そして母の睡眠時間はどんどん伸びて行く。デイサービスは去年の夏の終わりに止めてしまったので、ずっとうちにいて寝る(60%)、食べる(20%)、排泄する(5%)、マッサージをしてもらう(5%)、看護師や医師の診断を受ける(5%)、親戚や娘と話す(5%)・・。そんなことに命の炎を燃やした冬であった。
今回の「お向かいの猫のための展覧会」のクロにまつわる絵で「洲本の風景画」シリーズが12枚になった。目出たい😊
クロが登場する新しい「洲本の風景画」は「路地ー物部から上物部」というタイトルにした。この辺に多く残っている路地を洲本の風景として描いたのだ。
7年くらい前にこの辺りの路地は私が小学生の頃とあまり変わっていないことに気づき、写真を撮り始めた。垂直に交わっている道はなく、様々な角度で交差したり、湾曲したりする道。突然用水路の上に出たりもする。だから通るたびの五感が幻惑される。その迷宮感を伝えようとして12カ所の路地を組み合わせて一枚の絵にした。万華鏡のように構成することで、様々な路地の面白さが伝わるだろうか。
ここ以外にも淡路市の仮屋港の近辺や、洲本の南の由良の漁港の裏や南あわじ市の福良港にもまだこんな風景がある。これは同じ物を作ろうと思っても二度と作れない風景。住む人個人個人の欲望に寄り添ってできていった風景のように思われる。だから愛しい。
このシリーズを描き始めたのは2013年の坂本文昌堂での個展の時だ。その時の3枚からからゆっくりと増えてきた。アントニオ・カルロス・ジョビンが「ジェット機のサンバ」で自分の生まれたリオ・デ・ジャネイロの町を素直に歌っているのがいいなと思い、それに触発されて描き始めた。
ブラジルの音楽画「ジェット機のサンバ」
風景画といってもこのシリーズは私にとっての洲本の風景なので、観光地のようなところはでてこない。また、とりたててその景色の美しさを強調したりもしていない。あくまでも自分の内面にある心の風景として描いたきわめて個人的なものだ。しかし、そういった何でもない風景、つまり圧倒するようなものではなく、壮大でもなくどこにでもある、またはかつてはどこにでもあった風景がこの町の価値だとも言える。昔から無くさずに町なかに静かに残っているもの。それが住む人たちも気づかないような生活の喜びになっていること。そしてもっと大きな海や山になると過去何世紀も経ていま目の前に広がっているということ。その価値は計り知れない。だからそんなものに共感してくれたり、その風景にまつわる同じような自分の思い出を語ってくれるのはとてもうれしい。
しかし、風景画シリーズといえば広重の「東海道五十三次」の55枚、「中山道六十九次」の70枚があるように、まだまだ先は長い。描きたいという熱をいつまで持ち続けられるだろうか。
「洲本の風景画」
満を持してという感じではなく、作品もできてはないのにとにかく締め切りを先に決めてしまい展示に臨むという形で始まった展覧会。そして展示する会場がもとの自分の住んでいた家というのも特別な風情があった。
コロナ禍で自由に動く事が憚られ、精神的にも落ち込みがちになる時に、自分が使える最小限の環境と最も小さな幸せにフォーカスを置いた作品作りをした。3か月の創作のささやかな成果を展示してみる。それで寒い2月も少しは暖かくなるかもしれないという思いで。
テーマやそのスケールとして考えると、史上最も小さな展覧会とも言えようか。
それでも絵や猫に興味のある全く知らない人たちと出会う。プチ同窓会のように友人たちがやって来る。いつも気にしてくれてる近所の方々が覗いていく。夜8時頃、消灯しようとアトリエに行くとウィンドウ越しに絵を見ていた高校生がいた。入り口を開けて中で作品の話をした。またおいで、受験の事など何かの力になれるかも。いずれの出会いも立ったまま会話が進み、腰を落ち着けることが憚られるコロナ禍のこの状況は考えようによってはすごくスポーティだ。
去年末から始まり、展覧会の会期中ずっとアトリエ前の歩道の工事があった。3〜40年に一度という大工事。会期末にはほぼ出来上がり、街が明るくなった。
父の遺したキャンバスを使うということがもうひとつのテーマであるこのプロジェクト。目の前にある様々なサイズのキャンバスを使い、そのサイズに導かれるようにして絵を描いていった。父はなんて思っただろうか。今日の父の墓には水仙が咲き、新しい株には小さな芽が生まれていた。
下から3つ目の写真は、絵の中に描かれた自分を発見して最初はよくわかってないみたいだったけど、毎日絵を見てるうちに(アトリエの前が通学路なのだ)理解して記念に写真を撮らせてくれたともちゃん。はにかんでいて可愛い。こんなことができるのも地元のアトリエならではだ。その下は、クロを抱いて来てくれた飼い主の不動さん。寒い時期なので天気のいい日以外クロはなかなか出て来なかった。
いま展示している絵を小さな冊子にまとめている。
いつもプリントをしてもらっている方が扱っているジャーマンエッチングという紙を使ってみた。この紙がとんでもなく厚く、腰があって素晴らしい。
私は名刺を自家製プリントで刷っていて、いろいろ紙を探し辿り着いたのがMonval Canson 300gというフランスの水彩画用の紙だった。厚くしっかりしていて手に取ると質感がすごくいい。
今回使ったジャーマンエッチングという紙はなんとこれよりも厚いのだ。
ヨーロッパの版画紙の伝統。日本では薄い紙に描き屏風や掛け軸などに仕立てていた。コンピュータを通した現代のプリントで一枚物のしっかりした紙を求めると、こんなヨーロッパの伝統に出会う。
今回の紙はA1のロール紙に3面付けでプリントしてもらったものをたてに3つに切り、折りをページごとに裏と表から入れる。裏面に霧吹きをして反りを抑え、重しを乗せてフラットにする手作り冊子だ。色出しもよく質的にも素晴らしい(厚いのでプリンターの調整も大変だろう)。プリント代が高いので販売するとなると高価なものになりそうだなぁ。
198mm×841mm 6ページ経本折り
表:ジークレープリント
裏:アクリル絵の具によるドローイング
絵を描くのを一休みして考え方の整理をする。
写真の上がM4サイズのキャンバスに描いた油絵。下がパソコンでフォトショップというソフトを使って描いたもの。
伝わるニュアンスが全く違うのがわかるだろうか。
油絵の方は、油絵の使い方の中でも古典的な手法を使って描いている。とつとつとしたゆったりとした時間の中に絵があるのが伝わるだろうか。絵の具をひとつずつゆっくりとキャンバスに置いていく。絵の具と絵の具の境目が混じり合って微妙なニュアンスになる。これは自然とそうなってしまうのだ。油絵ならではの表現。その上、初めての油絵なので思うように筆が使えない。水彩やアクリル絵の具と使い勝手が全く違うのだ。巧く書けない不自由さが面白い。
下はデジタルで描いた絵を紙に出力したもの。くっきりした輪郭が潔い。画面上でざらっとしたニュアンスのブラシを選び中央の道のスパター模様をつけてみた。描く速度も速い。時々コンピュータの計算速度より手が早くてしばらく待たされたりする。また、画面の中で部分的に実物よりも拡大して細かく描いたりもする。だからシャープな印象になる。この省略されたすっきりした世界観がデジタルの良さだとわかる。表現されたものを見ると気持ちが晴れやかになる。これは油絵ではできない表現だ。
どちらも展示した時に自分がそれを見てどんな気持ちが沸き起こるのかが楽しみである。
20年使えていなかった自宅の古いLPプレーヤが動き出した。
1月のなにかと忙しい最中にあって旧友がうれしいことをしてくれた。自分の日頃の行いがそんなにいいようには思えないがこんなことが起こるのだ。
1月2日、初詣の帰りに曲田山を妻と歩いていたらサバちゃん(中学高校の同級生、鯖谷周吾くん)とばったり会ったのだ。この事自体が珍しい。そこでLPプレーヤーのことを話すと数日後に家まで来てくれて、しかも切れていたモーターのベルトをどこからか調達しあれよあれよという間に修理してくれたのだ。
感謝しか無い。
このパイオニアのプレーヤーはスイッチを押すとオートでアームが動き、プレイする。メカが面白い機種。多分、父が1970~72年くらいに選んで買ってくれた。私は中学、高校とそれでレコードを聴いていて大学からは洲本を離れてしまったのでこのプレーヤー自体それほど使い込んではいない。経年劣化のゴムのベルトを取り替え、ギヤの固まった所をほぐし、全体のチューニングをしてくれて復活したようだ。回転ムラもない。しばらく様子を見ないと何とも言えないが新しい命の誕生のようにうれしい。
プレーヤー下の同じ時代のアンプは調整中で、今は左の新しいヤマハのAVアンプを使っている。古いアンプでも先日少しプレイできたのだが、音が違う。裸の音というのか、日本のオーディオ全盛時代のアンプの原音にあまり手を加えない生々しい音がした。
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システムイン洲本(鯖谷周吾)洲本市五色町鮎原神陽600-190
Tel:0799-32-1454 Macなどのパソコンの修理にも対応できるようなので今後もいろいろと頼もしい。
「洲本のアトリエに時々遊びに来るお向かいのクロ。
彼のために描いた絵/デジタルと油絵の間にあるもの」
母の介護の日常に疲れ、緊張が続く日々にクロが現れた。何度も会ううちに警戒も解け、撫でたり抱いたりが普通にできるようになった近所の友人(友猫)。アトリエの前だけではなく、3軒隣の自宅の方の3階の制作室の正面のアーケードの上に現れた時には驚いた。これは空間を自由に行き来できる守護天使だと(その絵も描いた)。アトリエに行く時に会うのが楽しみになった。小学生の時にピアノの上手な大好きな上級生に会えるかなと毎日胸をときめかせながらこの商店街を駆け抜けていた事を思い出す(クロはオスだが)。
クロは全てがわかった顔をして近づいて来る。そしてしばしのスキンシップでこちらの寂しい気持ちを解きほぐしてくれる。東京の家族と離れて暮らしている侘しさを全てわかっている。
そんな大切な友人のポートレート。
制作中。
もうひとつのテーマは父が遺したキャンバスを使いたいということなのだ。まっさらの様々なサイズのキャンバスが父のアトリエにはあってそのことが気になっていた。下塗りをした物もある。パレットや絵筆や筆洗、ポピーオイルやテレピンオイル…….。使われていない行き場の無かったこれら絵を描く道具を使いたい。使われていなかった物のアップサイクルになるか、ごみ同然になってしまうか。これから1か月足らず、新しい旅を続ける。
キャンバスのしっかりした麻の生地に絵の具を塗り込むように描いていくのは楽しい。どんなに無理に塗りつぶしたり重ね塗りをしていってもこの麻布はびくともしない。紙やイラストボードのように剥がれたり破れたりしない。この事自体私にとっては新しい体験だ。
アトリエの正面のウィンドウに展示する事を目指しているのは20作品。日にちをこんな風に語呂合わせのように適当に設定できるのも自分のアトリエだから。そのゆるさを大切に。どんどん進めて行く。完璧を目指さず、日常の会話を始めるように気負わずに、思いついた話を次々に語り出そうと思う。
これはデジタルペイントで絵を描く事に飽きてしまい、もっとアナログな方向を探った方がいいように感じ始めたからだ。デジタルだとどんどん細かく描けてしまう。もっと曖昧で細かく突き詰めない大らかな表現が欲しくなった。それで油絵を始めた。デジタルの良さと合わせてそれぞれの持ち味が表現できると嬉しい。
世界はどんどんデジタルに直進している。わたしはそれではあまり楽しくないんだな😊だから古い技法に帰る。この古い技法がなぜ古来から今まで受け継がれてきたのかその秘密も知りたいのだ。古い家具を直したり、欠けた陶器を金継ぎしたり。LPレコードを聴いたり。飛行機ではなく古いローカル線で旅をしたり。数値にきちんとは置き換えられない、そんな時間の中で過ごす事が愛おしいのだ。
20代で始めるのとは違い、これまでの人生の中で見て来た膨大な数の油絵が頭の中にある。料理をするのと同じで、沢山の美味しいものを食べていると自然と自作の料理が美しくおいしくなる。それと似た感覚だ。だから自然と新しい画材に取り組めるように思う。
アートは本来すごく身近で誰もが楽しめる物であるはずだ。何も特別な事ではなく、商店街を大根がはみ出た買い物かごを持って歩きながら、ウィンドウ越しに絵を眺める事で日常から少しだけ体が宙に浮いたような感じになってもらえればうれしい。
もうひとつ言える事は、自分にとって生活の中に愛する物を常に求めているという事だろうか。愛するもの、心から好きなもの、一緒に暮らして心が躍るもの。生活の一瞬一瞬に宿る心弾ませる事柄。花や木々、風景、香り、音、味わい、色彩、形態、重さ。友人や愛する人たち。そんなものとの出会いをいつも求めている。そういった事との出会いを記念した作品作りでもあるように思う。
展覧会開催概要
今年は横尾忠則さんの過去最大(のように感じた)の回顧展があった。その時に出版されたのがこの460ページもある本だ。
今を生きているアーティストの人生の歴史が詰まっている。もう死んでしまったアーティストとは違うリアリティの臭みぷんぷんだ。
彼の絵に対する立ち位置が好きだ。最先端ではなく古い技法を使い、上手なだけの振る舞いをしない。古典絵画に現代のグラフィック感が混じり合う。常識を脱臼させる。デザインでも絵画でも彼はいつもそんな世界を構築できる。作品を見ると、なぜか笑顔になってしまう。だから絵を見た後、大きな精神の自由を得る。そんな作品で一杯の本。これは現代日本人のふやけた同調圧力だらけの常識に揺さぶりをかける稀な表現の本だ。
↑昔から描いているアンリ・ルソーのパロディシリーズ。↓
朦朧体?と呼ぶ新しいタッチ。
大谷選手も元祖二刀流である宮本武蔵といっしょに描く。
岸壁に描かれた絵を見に、海へ向かった。
砂浜に入り、松林を抜け水平線の方に目を向ける一瞬前、
海面のすぐ上に虹がかかって見えた。
その後、遠景に目のピントが合うと、その虹は淡くぼやけた。
しかし写真を撮るとき、絞りを少しアンダー目に設定すると
一瞬見えた虹がファインダーに蘇った。
以下洲本市広報より
洲本の家から徒歩3分のところに映画館・オリオンはある。
物心ついたときから親や祖父に連れられよく通った。怪獣映画を見に行く邦画系の館が他にも1〜2館あった。『サンダ対ガイラ』(怖かった。サンダとガイラが夢にまで出て来た。)はどの映画館で見たのか。中学時代に『小さな恋のメロディ・Melody 』とブルース・リーの何作目かの映画はオリオンで友人と見た。ウィンドウの使い終わったスチール写真をもらったりした。『バリー・リンドン』、『リップスティック』も見たのか?定かではないが、とにかくオリオンは洋画中心の上映だったと思う。
時代が過ぎていまオリオンだけが健在。しかし少し前までは上映が不定期で、上映作の選択もいまいちでつぶれそうになっていた。その映画館がいま息を吹き返しつつある。
南あわじ市に農家として家族で移住して来た大田志穂さんが中心となり、シネマキャロットを結成。作品の選択をしそれをオリオンが買い付けてきて毎月のように新作を上映している。
シネマキャロット/淡路島で映画の魅力を伝えるために、ニンジン農家ら有志が奮闘
ここ一か月のプログラムはこのようなもの。
セレクションがいい上に、東京ならヒューマントラストシネマ・TOHOシネマズ・イメージフォーラム・ユーロスペースが集結したようなラインナップだ。他には無いユニークな映画館になっている。一人の想いから始まり、様々な人が協力し徐々にいい環境ができてくる。これもまた”ハチドリのひとしずく”のような話である。
だれもがひとつずつ自分にできることをやっていけば、町はどんどん良くなる。
この週末は何十年かぶりでオリオンで洋画が見られそうで、わくわくしている。こんな気分も久しぶりだ。
洲本オリオン
音楽の聴き方が世間ではストリーミングやネットからのダウンロードになって来ている。私の聴取形態は昔と変わらずはCDやLPやラジオが多い。音楽は繰り返し聴く物だから、ジャケット付きで手元に保存していないと聴きたい時に困るからである。そしてこういうメディア付きの音楽データをフィジカルと呼ぶようにすらなってしまった。
今日届いた新譜には驚いた。CDという物としての形に、作り手(作家、ミュージシャン、デザイナー、制作者から日本側の詩の翻訳、5ページに渡るライナーノーツ、帯のコピーラインまで)の想いがこれでもかというくらい詰め込まれていたから。
マリーザ・モンチがSony Musicに移籍し、その第一作目。だから気合いが入りまくり、これまでの彼女の音楽の総集編の趣がある。コロナ禍で対面で録音ができないケースが多発し、リオデジャネイロ、ロサンゼルス、リスボン、バルセローナなどでリモート録音をしたらしい。全て新作で沢山のアーティストと共作をしているがしっかりと彼女の作品になっている。15年位前までの彼女の作り出す作品のもたらす驚きのような物はあまりないが、それを越えるような質の高さや音楽的な魅力には目を見張る。
ジャケットが3面開きで、デザインまでトータルにつくられている。LPやCDなどがつくってきた音楽文化はビジュアルや文字や紙をも含んだ色彩豊かで五感にも訴える世界だった事を思い出させてくれた。
ストリーミングでも曲の良さやその伝えたいメッセージはその音楽の中にきちんと含まれては来るが、この想いの深さが伝わるだろうか?
PRA MELHORAR(プラ・メニョラール)より良く生きるために
Marisa Monte/Seu Jorge/Flor
Quando você pensa
Que está tudo errado e negativo
E que ainda vai piorar, piorar
Pra todo mundo a vida é difícil
Todos fazem seu sacrifício
Pra melhorar, melhorar
Lá vem o sol
Para derreter as nuvens negras
Para iluminar o fim do túnel
E a luz do céu
Para inspirar o seus desejos
Pra fazer você encher o peito e cantar
何もかも間違ってるし、マイナスだし
これからも一層悪くなるばかりだと思う時
誰にとっても人生は苦しくて、誰もがそれを
良くしようと犠牲を払ってると思う時
太陽が昇る
黒い雲を溶かし
トンネルの出口を照らし出す
そして空からの光は
あなたの望みを掻き立て
その胸を一杯にして、歌いたいと思わせる
<対訳:國安真奈>
旧トーハチ薬局、現トーハチAtelierの二階部分の荷物をあらかた運び出し終えた。古い荷物で溢れ帰ってるのを見た誰かが木造は二階部分が重いと地震の時やばいよと、以前に忠告してくれたのだった。それから少しづつ片付け始めた。後は一人では動かせないタンスと分解できるスチール棚くらいになった。
様々なもの、凄い種類のアイテムを仕分けして処分する物と残す物に分けた上で倉庫へ移動するのは本当に骨が折れる作業だった。
約100㎡。がらんとしてきた部屋は壊れたところから骨組みが見えてきた。後は耐震を強化し、壁を作り直せば気持ちよく使える。
暑い夏が終った感じがする。片付け始めた数年前は、荷物が溢れ、どこから手を付ければいいかわからないくらい荒れていたのだ。ここからどう進めるか。知恵のテスト。
この二階の部屋はもともと私が小学生低学年くらいまで住んでいて家族の寝室があった場所。三軒隣に父が家を建て引っ越してからは薬局の在庫を入れる倉庫になった。暮らしていた時からの神棚とおそらくカトリック幼稚園でもらった絵が当時のまま飾ってある。これも片付け始めた数年前に埃を払いお酒を供えた。
この場所は私の少年時代から変わらず、淀みなく続いて行く日々を見守るかのようにここにある。
東京へ帰る、と言わず行くという感じになって来た。
淡路島での母と実家に関わる時間が長くなってきたからだ。今回は野水正朔さんの写真展もあり、それに合わせる形で東京へ向かった。
野水さんの写真はニュープリントで美しく展示されていた。焼きは浅く上品だが、力強さは思っていたほどは出ていない。ネガは相模原のアーカイブで国家事業として温度管理され収蔵しているらしい。このタイミングでなぜ展示をしているのかと係の人に聞いてみたが、明確な答えは無かった。東京でこれを見せるのも難しい。淡路島のアーカイブにこそこのような品質の野水作品がほしい。なんとか借りる方法はないものか。
野水さんの写真を見ると、ついこの前まで日本にも自然や神に向き合い生活していた事がわかる。今のアジアの都市部ではない所にしかもうないような神々と一緒に生きていた人々が写っている。そんなものが自分の故郷にあったことが心を打つ。野水さんはそんな世界を温かなまなざしで見つめ、時代を超えても伝わるような美しい写真でこの世に残してくれた一人の天使である。
東京に着くなり、すぐに住んでいる集合住宅の低木と草花の剪定をした。Green Day開催といって年に数回貼り紙をして呼びかけるんだけど急な呼びかけにも関わらずいつものメンバーが集まり今回は7人でとりかかった。きれいになった敷地の緑は気持ちがいい。
今回写真を撮り損ねたので2019年9月に開催したときの写真。
友人が2度夕飯に来てくれて、その他は展覧会ラッシュ。
藤戸竹喜、『Walls & Bridges』、『アナザーエナジー』、横尾忠則展が2つ(『GENKYO 横尾忠則/原郷から幻境へ、そして現況は?』『横尾忠則:The Artists』)。
展覧会のレベルはいずれも高く、東京の町も、人も、家族も元気だ。
横尾さんの展覧会はもう何度目だろう。何十回目だろう。何度見ても飽きない。前に何度も見てる作品も多い。それでも見るたびに笑顔になる。そんなアーティストは他にはいない。
その他にも始まったばかりの映画『アイダよ、何処へ?Quo vadis Aida?』で知りたかったユーゴスラビア内戦の現代史を見た。さすがにインプットが多すぎて帰る前に一日ダウン。オーバーヒート。しかし予定通り無事淡路島に帰って来た。
それにしても、家族で美術館に出かけたり、一緒に映画を見て話ができることはなんと温かい事かと思う。朝食時の何気ない会話。新聞を見ながらスポーツや世界について気ままに話す事。普通に起こる日常のワンシーンの様であるが、実は奇跡的なものかもしれない。日常とは奇跡の連続のこと。家族で昼食をとった美術館のレストランでは美しい雨だれが舞っていた。
今年はなぜか私の行く先々で、こんな雨だれが落ちて来る。
たぶんこの場所にはいろいろなもの・事との出会いが沢山あって、それが地方で暮らすよりも分かりやすく密に点在している(東京は様々な場所の歴史が見えにくく新しく塗り込められているせいだからだろうか)。充足されたものは即物的な物や食や単なる消費などではない。それらはいまではネットの中にある。それ以外の生きていくための支えとなるような人や事柄との出会いだ。そして思いがけず美しい雨だれにも出会う。
鉱物質の街と有機質の街
空の大きさの違う2つの街
新しい服を着ている街 そういう事の無い街
空気の香りの異なる街
多くの事がお金と交換できてしまう街
お金以外の物とも交換できる街
いくつかの思いを感じながら
普段は今回のようには東京で動かない。
おそらく、母の介護で疲れていることの反動だろう。
その揺り戻しだ。
また、新しい歌を歌えるように
毎週のプールに行く度に大きな鏡で自分の姿を見る。Tシャツの部分以外がすごく黒い。自転車で買い物に行くだけでもメラニン色素は敏感に反応している。ずっとこういう機能を持っていたい。
Tシャツ部分を黒くしたくて川沿いの道を一時間くらいかけて自転車で走る。上半身裸になって走る事の心地よさ。秋に向かう季節の風が西から吹いてくる。じりじりと肌を焼く日差しも多少は手加減をしてくれている。これもひとつの音楽。
田んぼの稲は大きく膨らみ間もなく頭を垂れるだろう。
それにしても一週間に渡る大雨にも負けない風景の力強さに自然の豊かさを感じる。
といっても、私は釣らなかったのだが。
松林君の釣行に同行させてもらった。もっとも近場の志筑の埠頭。今でも週に何度かは必ず行くという。雨の日も。先日の台風の直後も行き、流れて来た沢山の枯れ枝や樹木をよけながらも釣果は上々だったらしい。
さまざまな修羅場をくぐっている彼にしてみれば馴染みの近所のテリトリー。いつもは早朝3時くらいから釣り始める。私は6時過ぎに参加。里帰り中の娘婿の森下さんも同行している。
海サギも一緒に釣りをするように用心深く何度も近づいては止め、最後にオセン(スズメダイ)を見事にキャッチ。
松林君を見ていると釣りの仕組みがよくわかる。すごく論理的だ。今の私にはそれほど釣り意地が無いから見て楽しむ。大きな網や道具もいろいろと用意してある。そんなことも含めて、大好きなことについての話を聞く時間はすごく楽しい。
彼らは大きなアジ、サバ、サゴシなど30匹位釣っただろうか。釣るとすぐにエラを切って生き締めにする。アイスボックスの中はギュウギュウだ。9時前には家まで送ってくれて、3種類6〜7匹のお裾分け。彼はこれから残りを捌き、一部を冷凍にし、シャワーを浴びて一杯やって昼寝をするという。
うちも今夜は魚盛り😙
3時間でも海辺にいると精神が別世界に抜ける。この効能。彼が嵌るわけがよくわかる。
お盆前から居座っている低気圧の強烈な雨と風で、アトリエの2Fが久しぶりに雨漏り。近所の人に手伝ってもらいながら屋根の修理をやって来たが、やはり抜本的な対応が必要か。
濡れたものを取り出していると、小学生時代の絵が出て来た。思わぬ所で幼い自分に出会い作業の手が止まる。
小学校1年か。普段は木枠に張ったりしないのでその当時通ってた山中お絵かき教室で描いたものだと思われる。木枠を使い回してるのか、前に使った生徒の名前が薄く残っている。ここでやってたことはほとんど覚えていない。南向きの大きな磨りガラスの窓がありその向こうが当時通ってた第三小学校だった。一緒に通ってた西村君に今度聞いてみよう。彼の記憶力は凄いから。何をやってたの?
わんぱくで脚のかさぶたを毎日剥がしながら遊んでいた自分を思い出す。膝の傷が治らないうちに毎日同じ所を傷つけるのでなかなか治らない。それでも遊び続けてたな。絵からあのころのエネルギーを浴び、過去の自分の元気さ、屈託のなさを思い出した。
この先生の赤文字は1年の森本先生か2年の時の池上先生だろう。お二人とも女性の先生。そんな雰囲気のある文字だ。それを今見られるのもなかなかです😃左から書いてるのでまだ左手で書いてたのか。そのうち右手で書くようにに直された。
黒い線の輪郭を描く。これは来る日も来る日も読んでいたマンガの影響だ。いまだにこれは直らない。日本人の感性だ。
このタンスと壁の間の右の隙間にこれらの絵を押し込んだのは父だろう。ここは埃だらけで手を付けてなかったが雨もしみ込んで来てしまい、もう整理するタイミングだ。
埃だらけの額を雨で洗う。
額のベージュのレリーフは石膏で作ってあったようで、雨で柔らかくなって溶けてしまった。
近所の川は大水で氾濫少し手前で止まった。
それにしても、大量の荷物の仕分けはまだまだ続きそうだ。
捨てるもの、残すもの、誰か使う人を捜すものの3つに仕分けするのは本当に疲れる。肉体的、精神的に。
そんな作業の合間にこれらの絵を眺めると、疲れが引いていくのがわかるから不思議だ。スーっとリフレッシュして気分が良くなる。ビジュアルから入って来る美的なパワーは疲れを癒す事が自分の体を通してよくわかる。身の回りをきれいにすると、いいことがあるな。
会社勤めをはじめて2年くらい経った頃、私の教育担当をしてくれたデザイナーが亡くなった。
その人の短いデザイナー人生の作品集をまとめなきゃね、とずいぶん前に先輩たちと話していてついぞ作れなかったものが先日手元に届いた(直樹さんありがとうございます)。
34歳で亡くなった方なので作品もそれほど多くはなく、それだけに若さが凝縮していてせつない。
30年以上前の職場には多種多様、才能豊かで魅力的な人が溢れていた。所属した業界自体が魅力を発していた時代。そんな中でこれからを最も期待されていた先輩だった。そんな人に私がアシスタントについて1年足らずで亡くなってしまった。
ウールマーク(国際羊毛事務局)という組織の広告を多く作り、みんながあこがれるような質の高い仕事をしていた。仕事量は多く、新米のわたしがちょろちょろと手伝ってもどんどん仕事は増えていくという日々の中でおそらくB型肝炎を患い、あっという間に亡くなってしまった。
作品集を見ると作品以上にその人のことが思い出される。作品の内容以上のものがその中には含まれている。沢山の時間や関わった多くのひとびと。そんなものが次から次にあらわれてきて、このちっぽけな冊子の持つ力に驚く。
その先輩が亡くなる少し前だったろうか、私が初めて一人でデザインしたショッピングバッグを持って白金の北里病院にお見舞いに行った。彼はベッドの上で手持ち無沙汰な様子で私を迎えてくれた。あれだけ忙しく毎日を駆け抜けていた人だから、手持ち無沙汰に見えるのも当然だ。彼は自分から休む事をなかなかしなかったように思う。そしてやっととれた休暇がベッドの上だった。
彼は私が持ってきたショッピングバッグを見て一呼吸置き、わたしの顔を見て
「まあまあか!!」と言ってくれた。
少しぼんやりした表情で、でも後輩の仕事を客観的に批評しようとして、声に力を込めて。
その言葉にはやさしい思いやりと、病の疲れからくる押しつぶされそうな哀しみがあふれていた。
今年の春先の大掃除でその紙袋が出てきて整理してあった。
与えられたキャンペーンロゴ以外の文字は手書きで、繊細でとてもおとなしい。
先輩の作品集を見ながら当時の自分の気持ちが思い起こされる。
今や誰でもがその活躍を讃え、共感し、一喜一憂し、その知らせに接した時に気持ちが明るくなるようなニュースは大谷翔平選手の話題だけだ。
他のニュース(東京オリンピック、コロナ対応政策、地方選挙、プロ野球、サッカーリーグetc.)は見事にわれわれの生活の糧とはなってくれていない。見る人それぞれの立場やイデオロギーがぶつかり合うだけで建設的ではなく楽しくない。
彼を見つめる人々のこの目線はどうだ。これは今メディアを通して彼を見つめる人々の縮図のような写真だ。
圧倒的なその賞賛と驚きの眼差し。奇蹟を目撃する人々の視線だ。(写真はスポーツニッポン・東京版)
彼が高校時代に作っていた目標達成シートには「運」の項目があり、その力を手にするための日々の行いの指針が設定されている。
このようなテーマの設定は監督(佐々木洋氏)の指導力の賜物でもあろう。そして実行は大谷君自身。
われわれも襟を正し、生活を見直す必要がありそうだ。
どこまで利他的に人はなれるものか?
利他的である姿は美しい。しかし、それをいつもみんなができるわけではないが、今は、そうありたいと思う。
そんな感慨が沸き起こった原因は、夕飯の準備をしながら流れてきたこの曲。
Sade/By Your Side 2000
サビのフレーズが心を打つ
Oh when you're cold
I'll be there
Hold you tight to me
Oh when you're low
I'll be there
By your side baby
ここに登場するSadeはかっこよくはない。しかし素敵だ。
デビューして間もない頃はだれが見てもかっこいいこんなSadeだった。
Sade/Never As Good As The First Time 1986
しかし、変わって行く姿は美しい。
メジャーな歌手の世界で、こういった表現ができる人も珍しい。
これからの時代、利他的なものの考え方はだれにとっても持つべき大事な感性になっていくだろう。
小さな子供を育てていた時には、そういった気持ちになっていたのだろうか。ある程度はそうかもしれないが、親のエゴもそこには混じり、本質的な利他的行為とは違うかもしれない。どんな風に育っていくのかという喜びとともに、子育ての不安からある種の恐れもそこには混じる。そういう事から離れた純粋な利他的行為が望ましい。
そんなこだわりのない大きな心持ちになっていきたい。
そんなことを考えながら夕飯作りは続く。
雨の雫を写真に撮ろうとしてもなかなか難しい。
マニュアルではピントも合わせにくいし、オートフォーカスはさらに無理だろう?
ところが先日いい雨だれが撮影できた。
この屋根の下にいると、他の軒先ではないような列になった雨だれが次々とやって来た。しかもその列が変化に飛んでいてとても美しい。次々来るのでフォーカスも合わせられる。
不思議に思い屋根をよく見ると樋が無いのだ。
だから雨水がそのまま滑り台を滑る波のような列になってその斜面を下り空中に飛び出すのだ。そのエネルギーに満ちた水滴は、浮遊する不思議な光の粒となり舞い降りる。
家を建てるなら、樋のない家がおすすめだ😀
アトリエの入り口のロゴの上にツバメが巣を作った。
以前に両親が店をやっていた時からの縁のあるツバメだと思う。2年くらい前に向かいの店が取り壊され、普通の住居になったのでアーケードとの空間が大きく開いてしまった。このアーケード街には毎年沢山のツバメがやってきて初夏は早朝から賑やかで楽しいのだけど、カラスが入るようになったために壊される巣が出てきた。そのためカラス除けのようなものを手作りして防御している。しかし防御できるか、保障はまだ無い。
カラスの侵入は防ぎながら、ツバメの進路はキープする。今までの所、そのもくろみはうまくいっている。
しかし今朝はそこにもう一匹の天敵が現れた。
左右の2羽のツバメが低空を頻繁に飛び交い巣に入ったり出たりするので、向かいの猫が興味津々で注目しているのだ。巣が壊れたり、子供が落っこちたりしたら猫の餌食になる。空と地上に天敵がいる。われわれも同じ状況だが気づいていないだけかもしれない 。まだこのカップルに子供は生まれてないようだがこの状況でツバメたちはやっていけるのか。今年ははらはらの6月。
アトリエの二階にあった古い衣装箱をレストア。
多分これは私の幼年期からここにあって、ここが倉庫になってしまったのでそのままになっていたものだと思われる。
シミのついた内張りを太陽にさらし、紙を貼って仕上げた。
紙と言ってもその箱のそばで眠っていた資生堂の包装紙だ。こちらは多分2000年前後の新しいめの地層のものだろう。こういった素材が色々ある。これは安西水丸氏のイラストだ。
柿渋(?)の外装とのギャップがあり、好ましい仕上がりになった。
新しい衣替え用の箱。
物置&洗濯物を部屋干しする部屋として忙しく使われていた実家の部屋を整えた。姉の中学生の時の部屋だ。
別棟のアトリエの2階にあった昔の無垢の木で作られた本棚を持ってきたらこの部屋にぴったり納まった。たぶん私が生まれる前からあった手作りの本棚が息を吹き返す。両親の若い頃の大学の教科書や辞書などが詰め込まれていた。それらの本を慎重に選り分け、私の日常空間にこの重い本棚を持ち込んだ。隙間のある本棚はこれからの未来を暗示する。この部屋には父の乱読した本が沢山残っていて、3つ並んだ本棚は小さなライブラリーになる。
工具置きになっていた小さな机も引き出しの中を総ざらいして整理し、天板のガラスも組み合わせてがらんとした机が出来上がった。この状態だと新しいことをここでやりたくなる。ひとつホームオフィスが増えた感じだ。ベランダ越しの風景を眺めながらお茶を飲むのも楽しい。
東京の部屋をリフォームした時にも感じたが、このような空きの多い家具の状態は嬉しい。古いものを使っていても希望を感じる。
沢山の古いぬいぐるみや、とても読みにくい昔の小さの文字で組まれた本などもあるがこれらはまたおいおい片付ければいい。力を使わないとできない事をとりあえずやって行く。なかなか計画通りにはいかない。
20年くらい鳴らなかったアンプを常時通電していたらなんとか復活しそうになってきた。人間の血管と同じように、工業製品にも血は流れているということか。
おかげでオーディオルームがひとつ増え、今私がいる環境で合計4つのアンプが音楽を聴かせてくれる。
アンプを通して流れて来る音楽は、音にためがあり、その音に含まれている時の流れが見えるようだ。
高級な機材はこれといって無く、ごく普通のセットだが、聴く場所が4つあると同じCDを聴いても全く違って聴こえてくる。そして、聴くたびに新しい何かを教えてくれる。
①食卓のある生活空間、②普段は使ってない絨毯敷きの部屋、③いつものデザイン作業に使っている小さな部屋、④今年から徐々に稼働し始めたアトリエ。
その部屋の広さ、生活の中でのその部屋の役割、置いてあるものの量、ものの種類など環境それぞれで音楽がずいぶん違って聴こえる。
その部屋に行く度に音楽をかけてみる。そして耳を傾ける。
今は母の介護のために家族とも離れてしまい、コロナの影響もあり人と話す事が格段に減った環境になってしまっている。本当は家族と会って対話をしたい。何かにじっくりと耳を傾けたい。それが叶わないから、目の前に広がる自然や音楽と対話をする。そんな本能的な欲求にこれら4つのアンプ=心臓が見えない血液を流しながら静かに応えてくれている。
3月の末にソウル・ライターの写真展を見がてら京都へ行き三十三間堂にも立ち寄った。しだれ桜がちょうど咲き初める頃。
京都はいつも大混雑で行くのに気が重くなるのだけれど、この日はCOVID19で2回目の非常事態宣言中だったのでとてもゆったり見る事ができた。
京都では歴史が目に見える形で沢山残っている。そこには建物があり、絵や彫刻があり古い樹木がありお寺では死者の気配がする。だからこの町で寺院に赴けば死者との時間が持てる。三十三間堂で1,000体の仏像が衆生救済を祈る姿と静かに対峙すると、京都って祈りの場所だなっていう思いが自然と湧いて来る。
いつもならこの庭や回廊も人でいっぱいなんだろう。
去年の春に出た本『オーバーツーリズム: 観光に消費されないまちのつくり方/高坂 晶子著』ではこの京都を始め、大混雑する世界の観光地の事がレポートされていた。
つまり、この写真のような近年の異常な混雑が今は無いという事だ。
私が訪れた時のバルセロナのランブランス通りは(30年前)当時からガウディ人気で来る人はいたけれどそれでも上の写真の3分の1くらいの人ごみで、どの都市にもあるにぎやかな目抜き通りという雰囲気であった。
下のクルーズ船の写真は合成写真かと思ったくらいナンセンスで狂った観光である。この場所にこれだけの人が同時に訪れればどうなるかはわかっていること。それを実行してしまう人間の悲しさ。しかしサンマルコ広場の目の前までこんなに大きな船が入れるのもなのか?ここは陸の直前までかなり深いのか。この本の真面目さから考えてこの写真は合成ではないと信じてはいるが。
バルセロナではあまりの観光客の多さに市民による外国人観光客を標的にした排斥運動が広がっている。京都にずっと住む市民にとっても気持ちは同じだろう。エアビーアンドビーと格安航空券を使った旅行による観光客の質の劣化。いわゆる観光公害だ。
このコロナウィルス後のわれわれの生き方が問われる。旅のよさっていうのは、どこに行ってどんな楽しい事をして来たかということを旅の後で自分のまわりの人に話すだけではなく、その旅によって変わった自分を見せられなければその旅の意味はないように思う。
変わるのに時間がかかるようならその間は、旅の中で食べた料理を再現してまわりの人にふるまったり、見つけて来た音楽を聴かせてあげたりできればいい。
古いLPレコードは沢山残してあるが、たぶん1980年代後半以来になろうか、新しいLPを久しぶりに買っている。
中古レコード屋へは最近行ってないので新譜で3,000円前後で好きなアーティストの作品をネットで探すと気になるものが時々出て来る。
LPが届くとそのサイズ、重さ(かつてのものより重い)などが胸をときめかせる。
封を切り、ターンテーブルにLPを乗せ、針を落とし、しかるべき場所に座り、聴く態勢になって聴く。
スピーカーから流れ出る音が体を包み込むように、全身で音楽に浸る。音の粒がCDとは違っている。
何かを食べるような、お酒を飲むような、細胞が自由に動き始めるような、皮膚全体から音がしみ込んでくるようなそんな感覚に体が覚醒する。
使っていなかった新しい器官が動き出す感じがするのだ。
LPの持つ意味合いがここのところ変わってきていて、そんな時代の気分もあり昔は普通にやっていた行為が新しい音楽体験として感じられるようになったのだ。アトリエに設置した古いオーディオセットががんばってる。
コロナ禍の今、このような聴覚への働きかけは心への大きな救いになっている。
そしてこれからの時代、昔より環境負荷の少ないLPレコード用素材を開発することは可能だろうか?
日曜日のルーティン。
昼前の図書館、予約してあった本を受け取る。『日本美術史 歴史編』(美術出版社)、『ビジネスの未来』山口周。日々の勉強道具。
肉の小畑で豚のヒレ肉と淡路牛のサイコロステーキを200gづつくらい。となりの鳥文で鶏のモモ肉400g、焼き鳥(タマネギ間)4本。一週間の肉の部の仕込み。近くの商工会議所1FのレストランEPiSPaでグリーンカレー。うまい。これは青唐辛子があれば作れるものなのか?!この日曜日のいつものコースで仕入れる様々な新鮮な情報や素材感、触感、色感など五感やそれ以外のものにも響いてくる何かとの出会いは大事だ。
雨は変わらず強く風も止まない。4時くらいには看護師の内藤美保さんが母の入浴と足の傷の手当にやって来る。入浴後の傷の手当の時にわいわいと世間話。この時間も楽しい。
5時過ぎ、雨が上がったようなので裏山に桜の様子を見に行く。
昔の小学校の校舎のような山寺の建物が懐かしい。
夕刻の町に戻り、夕飯の準備。
読み進めるにつれ、その暗い闇がどんどん濃くなった。今の日本を覆っている気分の縮図が描かれている。
新聞などではなかなか知らされない原発作業員たちの肉声。10年近くに渡る取材の粘り強さに驚かされる。
ここにある作業員の声。
地元民で原発で働いてきたという非常な使命感
ずっとイチエフで働いていたから自分がなんとかしなければ
自分には責任がある
家族は避難したが自分だけはここで働き続ける
事故当時の中高生がイチエフで働き始めた
福島や日本のためにという気持ち
ここを最後まで見届けたい
自殺した東電社員
日本中の原発で働いている原発ジプシー
特攻隊のような精神
そんな気持ちとは逆に、勝手な政策の裏側で混乱する作業員たち。
タンク解体工事の作業員が鉄板を切断中に電動ノコギリで指を2本切って救急搬送
放射線防護用のタングステンベストが足りなくて着用しないで作業
白血病を発症し初の労災認定
土砂下敷きで作業員死亡
資格を持たない溶接工多数
ブラジル人やフィリピン人の溶接工が入ってきている
高濃度に汚染したタンクの中での除染作業
危険手当が減らされた
東京オリンピックの現場の方が日当が上がってきた
被爆していく作業員の健康調査ができていない
それでも震災後10年を特集する今朝の読売新聞には「研究班によると、作業員にがんや高血圧、肝臓病などが明確に増えたと言うデータはなかった」とだけ簡潔に書かれていた。大手メディアはもう細やかに現場を捉えようとしなくなくなっているのだろうか。われわれは工夫していろんなところから情報を仕入れなければ世界を掴めない。
片山夏子著『ふくしま原発作業員日誌 イチエフの真実、9年間の記録』(2020年2月28日初版)
同級生のN君の車で、彼の設営中のキャンプサイトへ。
梅の満開
昨日の強風で八朔は落ちてしまった
山中には蕾をつけた桜の枝々が
その輪郭を柔らかくして春を待っている
シキビの新芽が歌う
春の光の桃源郷
5年来の宿題を提出。
テーマは父が元気な時代にアトリエで絵を描く時に使っていたディレクターズチェアの修復。
道具は壊れたままだと痛々しく、部屋の隅に静かに置いていても心のどこかにいつもひっかかる。
先日やっと治す事ができた。
こんな風に裂けていた布。父が毎日立ったり座ったりしていたからね。これも父が描いたひとつの絵だ。木部もすごく手持ち無沙汰。
木部と布の接続の仕方が気になる。木部に溝を掘り、布に細いロープを巻き込んで縫い合わせ、その溝にとおし肘掛けを起こすとその部分にふたができ、その左右の木部は背もたれの布で結びつけられる。それぞれの部分に複数の役割がある。
仕上がりが揃わない。布の強度が違うようで、モスグリーンの方は座ると窪みができ、どうしても垂れ下がってしまうようだ。一度洗いをかけると縮むかな?やり方はマスターしたので、またそのうちトライしよう。
沢山の桜が植えられた。
壮観である。裏の公園なども合わせるとその桜の数は100本にのぼるらしい。様々な木が入り乱れ、これからいろいろな季節に楽しめる場所になる第一歩。
こちらは手前の3本の古木が切られた。
例の木も切られ、その右に幼木が。
亡くなってしまった老木の隣りで、町を眺める幼木という絵もいい。
この展覧会は1月16日から2月7日までの間の金曜、土曜、日曜に開催された。11日間の展覧会。洲本市の商店街のお祭りの中のひとつの企画なのだが、1月7日からのコロナ禍による緊急事態宣言でお祭りは延期されてしまった。しかしこの展覧会のみ予定通り開催させてもらった。理由は都市部ではないこの辺りではコロナウィルスは蔓延しておらず、普通の生活を続ける方が精神的にもいいだろうと言う考えからである。
旧薬局の店舗で、そしてこのテーマを地元で開催するのも独特のものがある。
この辺りの人にとってみれば懐かしいだけの写真。それを見せてその普遍性に触れていく。ただの懐かしさだけではなくて、時を越えた普遍的な美がその中にあること。そして、実際のこの島の魅力について。普段はそんな魅力など口にしない人にそこを意識しながら暮らしてくれたら嬉しい、という意図だ。
この展覧会だけでは達成できないであろうこの試みはこれからまだ時間をかけてやっていこう。
そして地元ならではのことが起こる。写真の中で子供だった人が年を経て現れてくれた😄その人は写真を撮った野水さんの少し離れた親戚で、野水さんにとっても近しい子供を撮ったわけで、子供たちも無防備にその姿をさらす。
右端の女の子が年を経て現れた(奥井さん、ありがとう)。左端にいるのが妹さんらしい。
別の人は写真の中では老夫婦のように見えるカップルが実は兄妹だと教えてくれた。写真を見る事は正しい歴史を見る事ではなく、そこに写っているものを自分にとって有効なように転換して見ていることなのだということがわかる。楽しい写真のマジックを体験した。
宗虎亮さんのご子息の方々も神戸や淡路市、南あわじ市からお越し下さり写真家としての父親の姿をいくつかのエピソードで話してくれた。これも貴重な出会いと体験だ。
ここで開催する事で、普段この辺りでは出会わない人たちと出会う。準備中のこの店を外から見ていて作品に興味を持ってくれていた絵を描く女性や写真を撮る方。チラシを受け取り訪れてくれた由良の女性たちはかつて賑わったねりこ祭りについて口々に説いてくれた。あたかもこの町の別レイヤーにいる感じだ。これまで知らなかった世界が同じ場所で見つかる。
また別の見方をすればこれはひとつの旅のようだ。
日常からは離れた時間と空間、そして出会う新しい人たち。いつもと同じ場所にいながら旅をしているような感覚。遠くへ行かなくとも、旅はすぐそこにあった。
そして日常空間だった店でアートを展示するという非日常空間になることで起こる来場者のとまどいや期待を感じた。同じ場所でも感情が変わって見えることがとても面白い。定着するまでまだまだ時間がかかっても、ここでこういったことをやる意味はあると感じる。
懐かしさと記憶の中の風景。
その温かい気持ちと悲しみ。
感情と風景が入り交じって
遠い時間に解けていく。
不思議な感慨がある。人が生まれて生きている今までの生涯を、作者である他人が辿っていく。
自伝の方がすんなり来るかもしれない。
この本はインタビューをベースに、沢山の資料を集めてその人物を造形する。それでも全く完全という事ではなくて、様々な事実が集められた造形物。
沢山の情報とともに、沢山のこの世の不思議が詰まっている。
登場する日本と世界の音楽家たち。同時代の人もいれば、遠い過去の人もいる。さながらポップスの歴史(1920–2020)を読んでいるようだ。
細野晴臣は言葉ではなく、いつも音楽で話している。それでも彼の哲学の様なことを言葉にした箇所がいくつかあった。
「ロックの場合は、伝統的な引用ができるというのが楽しみのひとつだから。アンビエントはそういう引用ができないから、そういう意味では辛い作業だし、楽しいのとは少し違う。全然違う脳味噌でやるからね。でも、スウィング・スローもそうだったけど、ロックの場合は20世紀の引用をすれば、その魂が受け継がれて行くんだよね。その魂の原型がチャック・ベリーでもモータウンでも、聴けばすぐそこに辿り着けるわけで」
「スタイルがあって、伝統があって、ある枠の中で切磋琢磨していく。特に音楽なんかはそうですね。基本は伝統を受け継いでいくことが大事です。でもそれだけではなんの意味もない。そこに自分の筆跡を少し残す。まあ、サインをするみたいなね、自分の。それが大事だとだんだんわかってきたんです。自分なりに昔の音楽を消化して、変えていって、残していく。そうやって残していくことが大事なんだと」
彼はその生き方によってこちらの背中をたたく、などということを感じさせない人。しかし彼が作った、または語るその音楽に関する情報は膨大だ。そしてあらゆる音楽への興味も。
作者の描いた彼らの人間関係が興味深い。そして様々にからみあった彼らの関係の描き方がスリリングだ。ある時出会った人が、時期を隔ててポイントポイントで登場する。そんな人が沢山いる。そこに人が生きる中での縁を見る。そのように細やかな配慮を持って描いた作者のその気持ちが快い。
「細野晴臣と彼らの時代」門間雄介(文藝春秋)
この本を送ってくれた友人に感謝。
洲本市の市街からすぐの山=曲田山の桜の植樹が急ピッチで展開して来た。
先週副市長の上崎さんと造園の方がアトリエに来てくれて、そのプランを見せていただいた。2年前の私たちの同窓会の植樹を契機として曲田山再生が新たな広がりを見せている。
今年度100本を植樹するという。寄付金や補助金などが新たに獲得できて大きく進展している。今日から作業が始まるというので気になる事もあり現地で立ち会いをさせてもらった。
赤い印の着けてあるのが伐採する木。
見るたびに痛々しく、それでも春になると花をつけているこれらの木々。折れる危険性もあるのに、よくここまで放置してあったものだ。
上写真の大きな木の内側にある2本の木がわれわれが2年前に最初に植えたもの。枯れ始めている木と入れ替わるようにとこの場所に植えた。しかし今日古木が切られるかと思うと複雑な気持ちになる。
中でも特に気になるのがこの木だ。
いつ折れてもおかしくないような状態だが春には花が咲く。木の中がうろになっていて、樹皮の繊維だけで生きているようだ。その樹皮も病気に冒されている。
私がこの木を知って以来2回の春にはちゃんと花を咲かせていた。身を捩る様な樹形で花を咲かせる姿は壮絶なものであった。
幹は既に無く、腕だけが横に伸びているように見える。
凄まじい木だ。でもそれももういいだろう。倒壊の危険性も含めて切るタイミングだろう。
下のこの木などを見ると傷ついた大きな動物が立ちすくんでいるかのように思う。
これらの木々は今日切られて、そのまわりに新しい若い桜が植えられる。更新され新しい命として蘇る事で希望のようなものがこの場所に宿っていけば嬉しい。
それにしてもわれわれが落としたひとしずくはとても大きな波紋を及ぼした。この場所がいい形になっていく事を今日新たにまた祈って。
2020年3月5日(木)ハチドリのひとしずく
この展覧会は私の両親が長年働いていた店(私の実家)での初めての展示になる。だからいつもと全く違った心持ちだ。
2018年7月から「よりあいそとまちSUMOTO」という洲本市の町再生事業の月一回の会合に参加し、この場所をどのように活用できるかについて多くの人の意見を聴いて来た。私はちょうどこの頃何年か東京と洲本を頻繁に行き来していた時期だからかなり混乱した脳みそ状態だったろう。しかしなかなかまとまらなくてもこのような場所で問題を人前に晒していくと何かが動いて行った。
半年後の12月には最初の大きな動き=多くの仲間が参加してくれて店の大掃除をした。
店中央に並んでいた大きなガラスのショーケースを倉庫に移動し、残った商品やグッズの仕分けを始めた。
その後仕分けが終わり2019年の夏頃には売れるものを販売。
小物関係が一段落し内装面のチェック&雨漏り修理。
雨漏り修理の様子
2019年の11月には東京の友人がLPプレーヤーとアンプを送ってくれた。もう一人の友人は毎月のように気の利いたCDを送ってくれる。音楽があると作業効率が格段と上がり、気分も前向きで開かれたものになるのだ。音楽は物事を進める大きな原動力だ。
このようにして徐々に大勢が固まって来た。
ここにすでにあるものを最大に使う。不用意に捨てない。何かに転用する。誰かにあげる。リサイクルに出す。このような考えのもとでき上がったものは新築できれいなものよりも価値があるかもしれない。そしてこれからの社会のありかたに希望を見いだすきっかけにもなるかもしれない。
そんな想いもこの場所には込められている。
before
after
傘立て。
この展覧会をやろうとしたきっかけは、地元のアーティストの作品を収蔵する美術館がこの町にはないので、ウェブ上でアーカイブを作ろうとしていた事がその発端だ。仮サイトは去年できていて、これからどんどん作品を増やして行こうとしているところだ。そこにコロナ騒動が起き、活動がストップしてしまった。作家に会って作品を借り出すことができなくなった。
淡路島アートアーカイブ・テストサイト
このように淡路島には多くの紹介したいアーティストがいて(またはかつていた)、サイトがまとまったら見応えがあるだろうなと思う。今回展示することになった宗虎亮さんと野水正朔さんの作品を見る事が若い人にとっての新しい体験になってほしい。これは埋蔵された資源。作品と同時にその作者の人生にも興味を持てば、旅でこの島を訪れる人にとっても現実の旅と合わせてアーティストの記憶への旅ができることになるだろう。
淡路の写真家/宗虎亮と野水正朔
新しいものを作っていくのと同じように、過去のものを保存していく事も大事だと思う。都市部にはお金が集まるので美術館があり、それが地元作家をアーカイブする場になっているが、このような小さな町ではそれをだれかがやらないと作品自体が無かった事になってしまう。一時の消費物となる。保存する行為もひとつのアート。このアーカイブ作業の最初のお披露目がアトリエでの展覧会なのだ。
また作品と同じように町もそれを生かしていかなければ町自身の存在意義が無くなってしまうだろう。今あるものをいかに生かし使って価値を生み出すか。それが世界中でできればノーベル賞ものだ。新奇な目新しいものを経済によって生み出し続ける資本主義がダメになっている今は、こんな考え方が大事だと思う人が増えている。あらゆる既にあるものが資源になるのだ。
同じようにこのアトリエにある音楽にもその思想が流れている。
いま展示している宗さんと野水さんの作品は1950年代後半から1960年代いっぱいくらいの作品である。その時代に日本に入って来た音楽のLPやCDでうちにあるもの流している。つまり1950年後半はビートルズやその当時生まれたボサノヴァのジョアン・ジルベルトやアントニオ・カルロス・ジョビン。マルタ・アルゲリッチのデビュー。アメリカではスライ&ファミリーストーンやサイモン&ガーファンクル。70年代に入るとフランスではジェーン・バーキンやセルジュ・ゲンスブール、イギリスではペトラ・クラーク。そして日本のはっぴいえんどやシュガーベイブが現れる。私が聴いて来たものなのでセレクトが極私的だが…‥。今聴いても新しい音を選んで。そしてどこか懐かしい音。展示作品の制作時の背景に流れていたであろうそんな曲が会場を満たしている。これも既にある資源の利用だ。
今回の展覧会はいつもとちがってプレスリリースを作っていない。広報メディアは12枚の大きめのポストカードのみにした。分厚くてがっしりとした厚紙だ(200×148㎜菊判191kg)。
普通のポストカードとは違うこの物体から得るメッセージを受け手がどう感じるか。興味を引かれてこちらを向いてくれると嬉しい。
最初の4作品が野水正朔さん、次の4作品が宗虎亮さん、最後の4つが私の作品。描かれているテーマに多くの共通性があり、それで今回3人展という形での開催になった。
今はコロナの影響で遠くの人を呼べないので、洲本市のローカルな口コミのみでやったらどうなるかということから出た考え方。商店街の10数店にカードを1種類ずつ置いてもらい、チラシとして自由に持ち帰れる。様々な場所で別の作品に出会い街中がギャラリーになる様なイメージだ。
写真にデザイン要素を入れたのは60年前の写真を現代的にして、今の作品として見やすくするためだ。例えば昔のロシアの小説でも、現代語訳にすると生き生きとして現代小説のように読めたりする。そんな風な翻訳作業を加えた。ドビュッシーの作品を作られた20世紀初頭の演奏の音ではなく、今日新しく演奏して聴かせるように。楽器も会場も解釈も世相も全てが作品が生まれた時とは変わっているのだ。
さらにレタッチや画像補正をして単純に古さを取り除き昔の時間が今に蘇ったような感じを出した。そうやって初めて今の作品として鑑賞できる。映画やCDのリマスターと同じだ。
都会の街を歩いているといたるところにチラシやカード、冊子などが置いてある。通行人はそれらを選んで持ち帰る。森の中で落ち葉や木の実を拾うように。ここ洲本ではそんなものを置いてある場所も限られてはいる。でも、どこかでその落ち葉を拾ってこのアトリエに辿り着いてくれるとこれほど嬉しい事はない。
2年半前から進めて来たアトリエのオープンが近づいてきた。
洲本市の「よりあいそとまち」で様々な人の協力を仰ぎながら断続的に進めてきた事業。
その間、いろいろな曲折があった。
営業的な店は止めにして、すこしパブリックな意味合いのある方向に軌道修正したり、進捗がとどこおった時期にはあまり難しいことは考えず瓦屋根の修理に精を出したり、ひたすら重曹で内装の汚れを取ったりした時期もあった。何かしらやっていると、限定オープンの声がかかった。あきらめかけているとそれが戻ってきたりする。
1年と少し前に店舗ではなくウェブの可能性を探っているときに、往年の名写真家、宗虎亮、野水正朔両氏と出会い、その作品をウェブ上で見られるようにアーカイブ化した。今回それが生き、私の作品と合わせて3人展を企画し開催する事になったのだ。人生はわからない。以下告知文。
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淡路島で作られる作品は、淡路島が見ている夢。
この島では日々に追われる生活の中にも
自然がもたらすアートが自ずと宿っている。
沢山の想いを乗せて、この島はゆっくりと今日も動いている。
1950年代からこれまでの間のこの島の人々や風景が、
今の世界をゆるやかに溶かしてくれます。
ひっそりとやって来てください。
穏やかな時間を取り戻しましょう。
“サウダージ洲本!サウダージ淡路!”
「淡路島が見ている夢」写真&グラフィックアート展
日時:2021年1月16日–2月7日(金、土、日曜日のみオープン)
時間:12:00–17:00
場所:トーハチアトリエ
兵庫県洲本市本町8丁目7−1
こんな寒い淡路島は初めてだ。
高校時代までは雪が積もったのは一度だけ。昨日今日の様な寒さは無かったように思う。まあ、当時は手はいつもあかぎれで血がにじんだりしていたし、ほっぺたはかさかさで毎日クリームを塗ってたが。
きのう今日、行く所どころで氷結していたので驚いたのだ。
年末から、アトリエの片付けに追われていたので、家族との初詣以来外で遊んでいない。冬の屋外での遊びを忘れていた。
来週から展覧会が始まる。それに向けての準備はいつもとは違う。なにせ自分の家でやるのだから。コロナのことは心配だけど、この辺りはもともと人の間が物理的に密ではなく、展示自体は飲食を伴わないし、人もさほど多くは詰めかけないだろう。
そんな冬空の下でも心温まる事がきのうは立て続けでとても嬉しかった。
ひどい寒さは心の温かさのひとつの逆説的な比喩として捉えられようか。
これは近所の透明なガスタンク。見える事の逆説的な比喩か。
今年も単行本や雑誌など沢山のヴィジュアル本に出会った。
しかし、この特別な一年。ウィルスCOVID-19に対するなかなかつかめない対処に明け暮れた日々、最も心の支えになってくれたのはヴィジュアルではなく声であった。
ラジオの声、電話の声(長電話をすごく沢山した)、ZOOMの画面の向こうから聞こえて来る会話、街角での何気ない立ち話…‥。そんなものが心に残った年だった。
その中でもっとも面白かったのは山下達郎と大瀧詠一両氏との往年のラジオ番組「新春放談」。
1990年頃からだろうか年度別にYouTubeにアップされている。ファンが個人でやってるのだろうか、音質はさておき面白くてバックナンバーを聴くのが止まらなくなった。
そのうち大瀧詠一氏のラジオ番組のアーカイブ「日本ポップス伝」まで手を伸ばした。こちらは音がもっと悪いのだが、彼の人としての魅力満載で飽きさせない。さすがにラジオ番組がニューアルバムだというだけの事はある。何度も聴きたくなってしまう音楽のように。
前者では「ナイアガラ・カレンダー」を特集した年、後者では「日本ポップス伝2」
の方の3回目だったかイタリアンポップスの研究の会が面白い。軽妙な語りと知識が音楽そのものだ。
しかし、こういったものを聴いていると中学・高校時代に帰ってしまった感があった。つまりラジオは孤独との戦いの日々の話し相手なのだ。ティーンエイジの孤独な日々。友人はもちろんいるのだけれど、それだけでは足りない精神の渇望が他人の声に向かって行く。それと似た様な精神状態に追い込まれた。これは多かれ少なかれ2020年の世界の人々の共通の精神のコンディションではなかったか。
そんな孤独な日々を偉大な音楽家たちが助けてくれた。
その声によって何か少しは明るい希望のある絵を見せてくれたのだ。
そんな年のベストヴィジュアルブックは声であったのだ。
写真家にも声に注目した人がいた。
少し前のブログで紹介した藤原新也氏の「スピナー」というポッドキャスティングの番組でも大事なのはテーマだけではなく実は声なのだ。
SPINAR 藤原新也「新東京漂流」
多分文字やヴィジュアルでは伝えられないものがこの緊急時には本能的に必要とされていて、もしくは文字からこぼれ落ちたニュアンス、誠実さ、本心、思いやりなどが会話の中には含まれていてそれを人は肉体的に求めているのだろう。
そんなことを考えながらこんな番組を見ていた(?)一年であった。
いつもならヴィジュアル作品から、心の開放性や、この世界の良さや生きていく上での希望になるものを受け取っていたが、今年はそれがより強く声から伝わって来たという事だ。
解けない大きな問題は先送りにして、小さな世界に入って行く。
大きな問題は多分タイミングや様々なことが作用しないと解けないだろうから。
そんなときは小さな世界へ。
たまった破損した食器の金継ぎをしたり(それほどうまくはできていない)、近所で美しく群生する葦だか蘆(よし)だかの種類を観察したり、派手さのない穏やかなこの辺りの紅葉を眺める。
料理もまた同じ様な箱庭の世界なんだろうか。
小さいものを磨いて磨いてそのまわりのことを忘れる。目先の事だけに没頭する。部分だけの洗練を目指す。森を見ないで木だけを見る。そうやって、大きな世界との対峙を避けるのもこのコロナの時代の養生訓のような気もする。
ノイローゼ気味のこの世界の情勢から逃れるひとつの方策。
この時代を生きて行くために。
今日は秋口にデザインしたハンドブックの完成品が朝一番で送られて来た。洲本市の子育てハンドブックの新バージョンだ。
子供を産んだ母親への支援制度やその規定などが年度で変わっていくらしく2014年に初版を作ってから2改訂目だ。
今回はタイミングよく夏に作った千草川の絵を使う事になり、子供たちと一緒にわらび餅のおっちゃんが登場する事になった。幼い子供たちの後ろを自転車で駆ける100歳の老人。川の流れと交差する構図で若さと老いが交わる人の一生を象徴するような表紙になった。
その後同級生の松林君からメールがあり、ランチと彼の家のレモンの収穫に呼ばれる。今年もまたこの季節、色鮮やかなレモンが冬の初めの澄み切った青空に浮かんでいる。家の庭?農地でとれることの楽園的風景。君知るや南の国。実がパンパンに充実したレモン。
現在の仕事の話や釣りの話、自分の家のこれからの事、家族や共通の友人の事などとりとめの無い話をする。こんな時代になってしまったが、人と会う事や店でする食事の必然性を感じる。
コロナの時代になり人と会わない時間が増える事のメリットとデメリットがあるが、今後身体的に困った事になる可能性に言及した藤原新也氏の論考に先日出会った。
「藤原新也「新東京漂流」Vol.37「脳科学者・茂木健一郎氏とのダイアローグ」その3」
滅菌が進んだ状況で生活する事のリスク。コロナ以外のウィルスや細菌に対する免疫不全が起こり、人が脆弱化するという考えだ。
われわれは人や動物や自然と出会い、気付かないうちに唾や汗や様々な雑菌と交わらなくてはその生命は衰えていく。
松林君が先週釣って捌き、冷凍した沢山のアジとハマチの切り身ももらう。彼は冬になっても船を駆って鳴門のあたりまで行って来たらしい。
帰りが名残惜しくなり彼の家の近所に今年オープンした新しい古本カフェへ。ここのオーナーの父親のレコードコレクションを断捨離と称して販売してるのだけど、ちょうど私と同じ世代なのか気になるものがある。今日で2回目のCDやLPと本の物色。オーナーの女性と他愛も無い話をしレモンをひとつあげて、春の様な光溢れる風景の中家路についた。これは梶井基次郎「檸檬」のコロナ型か。
ブック&コーヒー「コヨミ」
季節によっていつも見ている景色が違って見えたりする。いつもと同じ表通りが新鮮に見えたり、木々が新しい表情を見せたりする。心地よい風を感じたり、香しい匂いに包まれたりする。
同じように音楽も聴こえる日とそうではなくぼんやりとした輪郭しか描けない日がある。それは気温や湿度やその日の自分の体調、または心配事、楽しい気分など様々な条件があるのかもしれない。
先日そういう確かな確信を持った日があった。
その日はモーリス・ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調(RAVEL, M.: Piano Concerto in G Major )が肉体を持った生命体と出会ったかのようにはっきりと聴こえて来た。
ピアノはアルトゥーロ・ミケランジェリで、指揮はエットーレ・グラシス。1957年3月、ロンドンのアビーロードスタジオで録音されたかなり古いものだ。
彼のボレロと同じようにソロ楽器が次々に変わって行くのが楽器の置かれた位置の変化としてヴィジュアルで伝わって来る。
そこで描かれる音楽以外では表せない不確かですぐに失われてしまう様な感情、情景、息づかいや官能が伝わって来た。
日がたてば、そんな感覚は失われてしまうかもしれない。しかしそんな目が覚める様な日があった。
洲本の町で暮らしていると、いたるところに過去への入り口がある。
町家の窓の桟や長屋を切り落とした後の壁の処理。低い瓦屋根(手を伸ばせば届いてしまう)。
この静けさや寂しさは、手を入れられ尽くし金属や鉱物で覆われて過去が見えなくなった町には無い風情だ。
切なくも温かい。
空き家があり、人の住む家があり、そのまばらに入り交じった感じが祭りの後の翌朝を思わせる。町は眠っているようで、薄目を開けてこちらの様子をうかがっているのか。過去から今の世界を覗いているようにも思える。
少し郊外へ出ると田んぼのまわりは彼岸花でいっぱいだ。その彼岸花は時に街中にも顔を出す。
こんなところから生えている根性のある彼岸花。おそらくここは昔の田んぼの畦だ。
下の写真の右側が田んぼで、その中に一族の墓があったんだろう。
いまでも自宅の庭に墓のある家はこの辺りでは目にする。農家は土地を持っているからそれが自然なやり方だ。その田を売り払い駐車場にしたのだろうか。後ろの敷地には子息の営む医院がある。緑と水に覆われたこの辺りの昔の風景が浮かび上がる。
淡路島にはそんな昔の痕跡を残した場所がまだまだ多い。
眠っているように見える町には、歴史が一巡りして新しい芽がまた疼いているように感じる。
月が2度変わってしまったが、8月のお盆からトーハチアトリエでWalk Through Galleryとして展示中の作品展のまとめ&振り返り。
今回はコロナウィルスのこともあるので告知もせずに何となくやっている、というのが新しいかなと思いそろりとスタートした。すると人ではなくて向かいの不動金物店の飼い猫がやたら注目してきて毎日準備を見守ってる。これは外に面した店で展示をすることによる思わぬ幸運(?)に恵まれた😺
準備中にわらび餅のおっちゃんこと川西さん夫妻が通りかかったので、今回描いた「わらび餅のおっちゃん」の絵といっしょに写真を撮った。ご近所になった牧原さんもいっしょに。
おっちゃんは私が小学生時代からの顔なじみ。こんな風にして客としてだけではなく、人生のかかわりが持てた。これもコロナ籠もりの間にできた作品のおかげである。コロナは何も悪い事だけを残しているわけではなく、ある人にとっては大きなチャンスとなっていることだろう。
自転車の後ろには100歳と書いてある。誇らしく。揺るぎない。
南あわじの方から船越奈美さんや八十八夜の玲香ちゃんがきてくれた。母のケアマネージャーの曽賀さんや作業療法士の安部さん親子、宝塚からハルコ一家も。これらの作品のおかげでこのような再会や新たな接点が生まれる。
台風がひとつやってきて道路をびしょびしょに濡らして行った。
こんな薄いガラス戸でも絵はなんとか無傷で、涼しい顔をしてテグスで中空に浮かんでいる。沢山の風鈴は事前に外したが、ひとつだけ柱に残してあったものは紙の舌が強風で吹っ飛び、夏の最後の哀愁を奏でている。
遠方から何度も友達を連れて来てくれたり、通りがかりにじっくりと見て行ってくれた人…‥。そんな方々の噂を聞く。この展示は会えなかった人の事を想像するっていう不思議な余韻を残している。展覧会はやるたびに感触が異なるけれど、これはちょっと変わった感触。
また何か面白い展示を考えよう。この場所にふさわしい何かがあるはずだ。ここはそのための場所だから。
最後に神戸新聞の吉田みなみさんが書いてくれた記事のリンクを。
掲載ありがとう。
神戸新聞NEXT・・「『変わらぬ風景』を絵画に 元薬局の窓に11点展示 洲本」
2020年夏。
人類初のコロナウィルスが蔓延する年に愛を込めて😷😷😷
秋の台風が今年は小規模だった。7月に雨はがんばりすぎたのか。
そんな気候が作用したのかしなかったのか、今年はいつもよりもイチジクを沢山食べた夏だった。
これは自然からの便り。小学生時代からの同級生や、今年洲本に引っ越して来た新しい友人が届けてくれた。近くのサガ食品では毎日のように少しづつ違ったイチジクが姿を見せる。サン田中の小さなイチジクも素晴らしい。小さな爆発が口の中で弾けた。多分これらは朝穫ったものを店に出しているので、驚くほどフレッシュなのだ。そして、今の時期は夏のものより味がしっかりしているように感じる。その上安い😄これを贅沢と呼ばずして何が贅沢か。
品種も沢山あるようだ。だから色や味わいも異なる。そしてなんとこれは実ではなく花を食べているらしい。
子供の頃、友達のうちに行くと庭には必ずイチジクの木があり、夏前には小さな黄色っぽい実がついていた。この中に花が咲いて実が大きく膨らんで行くらしい😮
全く、驚くよ。自然っていうやつは、わからない。
花だから食べるとぷちぷちした小さな蕾をつぶす様な触感がありこれが夏の朝の軽やかなリズムを口内に生み出す。骨伝導で脳にも気持ちがいい。朝の気分を良くしてくれる。甘過ぎず食べ飽きない。空気の層が実の中にあるので冷蔵庫で冷やしても冷たくなりすぎない。
イチジク新発見の夏もそろそろフェイドアウト。
この一週間、メディアの中から語りかけて来る女性たち3人と出会った。いずれも人間としてのフェアネスに満ち、この世界に生きていく上での希望をもたらしてくれるような女性たちだ。誰もが知るとても大きな話題になる(例えばノーベル賞など)ような人ではないが、そんな者以上に私にとって大事な人たちである。こういう人たちの行為を咀嚼しながら自分の生きる糧としたい。
茨木のり子の「りゅうりぇんれんの物語」という詩に出会った。
昭和33年(1958年)、北海道・当別の山で猟師が見つけた一人の中国人。凍傷にかかった体格のいい男性。戦時中の炭坑での強制労働から逃れ、北海道の山中を逃げ惑い14年が経ったという。
その詩はこういう書き出しで始まる。
劉連仁(リュウリェンレン) 中国のひと
くやみごとがあって
知りあいの家に赴くところを
日本軍に攫われた
山東省の草泊(ツァオポ)という村で
昭和十九年 九月 或る朝のこと
そして同僚たちと共に日本に連行される。動物を捕まえるように人を捕らえ、拉致し労働させる時代。
この本の中の記録によると昭和18年から20年(1943~1945)にかけて、華北・華中の日本軍占領地域から38,935人の中国人が、北海道から九州に至る135箇所で強制労働をさせたという。もっと前にアフリカから新世界へ運ばれた黒人たちと同じ扱いだ。つい最近までそんな事をしていたということ。
リュウリェンレンは函館まで連れて行かれ、雪の中でなぐられ虐待されながら炭坑で一日中働かされた。何度も逃亡を試みる。彼には7か月の身重の妻が中国にいたのだ。ついに彼は便所の汲取口から汚物にまみれて這い出し、仲間たちと脱出に成功する。その後、ひとり捕まりふたり捕まりとうとう彼一人の逃走になる。その後の逃走の様子は長い詩によってその哀れなほどの悲惨さが描かれていく。
逃走を初めて14年後、山中で発見される。
連れて行かれた町で華僑の一人が彼に説明をする。
「旅館の者を呼んであなたの食べたいものを
注文してごらんなさい
日本人はもう中国人をいじめることは
絶対にできないのだ」
りゅうりぇんれんは熱いうどんを注文した
頬の赤い女中がうやうやしく捧げもってきた
りゅうりぇんれんの固い心が
そのとき初めてやっとほぐれた
そうして札幌市役所、北海道庁、東京と連れて行かれそこで自分の妻と生まれた息子が健在との報を受ける。そして故郷へ渡り妻と再会する。
別れた時23歳の妻は37歳になっていた
茨木はその詩に先行するこの事実を記した物語『穴にかくれて14年』(欧陽文彬/訳=三好一)を読み、この長詩を書いたと言う。そして解説を書いている川崎洋が茨木にこの詩について質問をしているときに話されたエピソードを記している。
「『これ本当にあった話?』と、随分沢山の人に聞かれるの。恐ろしいなぁと思って・・。大学の先生なんかでもそうなんですよ。私としてはそんな質問をされるなんてまったく意外なんだけれど、それほど"時"がたったということですよね」。
この解説が書かれたのが1980年前半なので、いまではもっと遠い過去の話だ(1970年代に横井正一さんさんや小野田寛郎さんが見つかったとき、少年の私はその時をよく覚えている。彼らの心中を描いた文芸作品は残っているのだろうか?)
その時の人のこころに宿る思いを風化させないように、次世代に伝えていくことはわれわれがになうべき事であろう。ぜひこの長い詩を読んでほしい。散文には無いリズムがこの詩には脈打っている。だから、染み透るようにアッと言う間に魂に吸い込まれていく。
「現代の詩人7 茨木のり子」より
そうこうしているうちにアメリカのルース・ベイダー・ギンズバーグ(Ruth Bader Ginsburg)
という女性の訃報が知らされた。1933年、ブルックリン生まれ。高名な最高裁判所陪席判事で、性差別や人種差別などの撤廃を目指して27年間その地位で活躍した女性らしい。その持つ雰囲気がすごくいい😃それにアメリカ合衆国の最高裁判所陪席判事という職種(9人しかいないらしい)の持つオーラを纏う彼女の覚悟はまた特別に思えるが、私は若い頃の彼女の映像を見てその人間としてのよさを感じる。
彼女の様なリベラル派の女性が国家の要職についているというそのことが、社会に光を与えていたのだと思う。
「自分にとって大切なことのために闘いましょう。ただし、ほかの人たちも参加したくなるようなやり方で」
「反対意見は未来に向かって語りかけるものです。『同僚は間違っていて、私ならこうする』と言うためだけのものではありません。特に優れた反対意見は法廷の意見になり、次第に時と共に大多数の見解になるものです」
「人生ではしばしば、障害だと思っていたことが素晴らしい幸運になるものです」
3人目に出会ったのは先日見た2015年の映画「ニーゼと光のアトリエ」の主人公のニーゼ・ダ・シルベイラ(Nise da Silveira/ポルトガル語読みではニース・ダ・シルベイラ)というブラジル人の精神科医。
1944年に彼女が勤務する事になった病院では精神病患者に、ロボトミー(前頭葉切断)手術や電気ショック療法が行われていた。そのあまりの残酷さに背を向けて新たな治療法を試みる。
その病院では患者たちはベッドに縛られていたり、おとなしく働ける者には壊れものの修理やトイレ掃除などをさせていたが、彼女はアトリエを開き、絵の具と筆で彼らの心を解放しようと試みる。
いまでは当たり前のようになっている精神療法やアニマルセラピーの最初なのでこれまでのやり方に拘泥する医者たちから嫌がらせを受ける(いつの世でも変わらない)。しかし、彼女はペースを崩さず、協力者を得、最後にはユングに手紙を送りアドヴァイスをもらったりする。患者たちは絵を描く事で過去の記憶を思い出したり、伴走してくれる仲間ができたり、ケアする若い医師に恋心を持ったりする。いままで閉ざされていた親族間の話し合いが始まる。乱暴で力を持て余していた患者は大きな粘土の塊を力一杯こねて塑像を作り始める・・・。患者のこころが動き出したのだ。
ニーゼは1905年ブラジルの北東部バイーア生まれ。バイーア医科大学の卒業生で唯一の女性ということは、前述のギンズバーグよりも年長者なのでもっと女性差別は大きかったかもしれない。そんな中で生きて勤めを果たす。彼女の体制に動じないくっきりとした気持ちが伝わって来る。
『ニーゼと光のアトリエ』2015 ブラジル映画
今年の洲本の8月は雨が降らない。植樹した桜が気になり先週から日をあけて朝7時半位に水やりに行く。
2年めの木は元気に育っている。去年の10本の幼木は水をやらないで育てる方式だからどうしようもない。ホースの水が届かないところに植えてある。7本は成育中のように見える。
見事な雲が湧き立ってるが雨につながらないんだな。
今年は入道雲が出ない。
山を下り路地を抜け、洗車している同級生の川畑君と立ち話。彼も気がむけば水やりをしてくれる大事な植樹メンバーだ。
横町を抜けて帰宅し朝ごはん。母は日を間違ってデイサービスの準備をしている。フレッシュイチジクとナルトオレンジマーマレード&トーストの朝食を先に終え上階の部屋へ。この部屋はクーラーのない南向きの3Fなので夏場は辛い。夏場は店のアトリエで過ごした方がいいか??
本を読んで横になったり事務仕事。新しい事に向かう段階ではない。横になったシーツの厚手の麻の感触と風鈴の音が心地よい。
図書館で借りたいずれも今年の新刊の『北欧の幸せな社会の作り方』『オーバーツーリズム』『デジタル国富論』『ヤクザときどきピアノ』『加害者家族バッシング』に混じって何度めかの『思考の整理学』『散文散歩』・・。平行した乱読は続く。
昼過ぎにマット紙の写真立てを求めてAEONのキタムラカメラに向かうが小さなサイズはないらしい。ハンドメイドで行こう。たねさんで麻婆豆腐の辛いランチをとって市場の精肉店小畑へ向かい今日の夕飯のトマトソーススパのひき肉を買う。いつも新鮮できれいな色彩の商品が並び見惚れる。
辻さんに渡す写真のデータに手を入れてバージョンアップする。松林君が送って来たポスターへのアドヴァイスをフォトショップで作って送る。
安部首相の引退会見のYahooのライブ動画を5時から見る。この人の言葉はいつも変わらず心には届かない、これまでと何ら変わりのない会見だ。原稿自体の問題もあるが、語り方の方が大事だと思う。コミュニケーションにおける絶望的反面教師。
それにしても彼が残した2013年の特定機密法案や2017年のいわゆる共謀罪法。それを受けてのマスコミの弱体化、忖度による日本人が生きて行く上での精神的、経済的な損失は計り知れない。これをどうやって国として取り戻して行くのか。例えばこの10年、韓国では車を売るのもいいが映画を売ろう、という政策で作家や映画監督を育てて行った。これは一例に過ぎないが、国としての考え方の成熟はいい人材を集める事につながるのだ。日本との差はものすごく大きい。
暑い午後をやり過ごし夕飯の準備に入る。
暇そうな母にひ孫たちの写真を見せると破顔一笑ビッグスマイルで画面に没頭する。寝たり起きたり、わたしのゆっくりした進捗の料理を待っている。食材の美しい色彩と香り。他に何もいらないようにも思える時間。
夏の終わりのひととき。
先週末友人とふたりで夕刻のバーベキューをした。
彼とは高校の卒業以来、同窓会や私の個展などで何度か会ったくらいでまとまった時間を共有してはいない。この日40年振りくらいで家族の事、仕事の事、遡って受験の事など話があっちへ飛び、こっちへ戻り躍動する会話が行ったり来たり・・、という時間を過ごした。
作業に使っている軽トラに、なにやら道具やアイスボックスや長くて太いプラスチックのホースなどを乗っけてその上からビニールシートを懸けてある。偉い役職をなどを経て来た友人。全く昔から雰囲気が変わらない。そんな車に乗り、笑顔で迎えに来てくれた。
向かうのは私の家から車で10分の場所。ここは千草川の上流で水がきれいな川の脇にある。淡路島には高い山が無いために水量の少ない川が多く、ここも同じ条件であるが流域の環境の良さによって水が美しく保たれているようだ。この辺りでは珍しい。
ダイナミックな自然ではなく、低い山に囲まれた瀬戸内の片隅の小さな里山だ。鹿やイノシシもよく出る。もう少し奥に住んでる友人はウサギも出るって言ってたな。
まわりは農家や小規模の林業で、その中の自分の土地の梅林の中に造成した手作りのキャンプサイトである。海で遊んだ後、クールダウンしながら夕飯をこの静かな環境で食べるのは島外からの旅行者にはいいものかもしれない。コロナの時代、食事をするにはうってつけの場所だ😄
何十年か振りにキャンプ用品を揃えておくのも一興か。
小学校時代からいっしょにキャンプをして来た友人と(高野山を始め様々な場所でキャンプをしたことをこの日思い出した:友人=外部化した脳=外付けHD理論)夕方5時過ぎから炭に火をおこし始めて網の上で野菜や肉を焼き、出来合いのたれで簡素に食べる。アイスボックスにはビールとお茶。数時間、山に囲まれたキャンプサイトでいっしょの時間を過ごした。
大学卒業直後の熱血教師ぶりや、その後の彼の人生のアウトラインがわかってきた。若い頃お互いに地元には居着かず、新しい自分の環境であくせくし、互いのそんな事さえ知らずに暮らしていたんだ。回り回ってここに来たという感が強い。しかし、うれしいのは友人として相手に対する興味を失っていないところだ。
小学校時代からの友人との時間を祝しながら目の前を暑く雨の降らない夏が通り過ぎて行く。
キャンプサイトのオフィシャルホームページが見つからない。
リンクした下のようなサイトが雰囲気が分かりやすいかな。しかし写真の画角が広角すぎて場所が広く写りすぎている。
猪鼻谷フォレストパークメモリアル23 キャンプ場・オートキャンプ場
淡路島にはここ1世紀の間に見るべきアーティストが大勢いる。
しかし、それらを収蔵する美術館もなく、私の世代が終ると語り継ぐ者もいなくなりその作品も散逸するだろう。そういう思いからそのようなアーティストを紹介するサイトを作ろうとしている。まだテストサイトであり、作品数も充実してはいないが現状4名の作家の作品が見られる。
Awajishima-Art-Archive-Test site
赤文字の3名の他に宗虎亮さんの作品を公開している。
コロナウィルスの事があるので取材はストップしており、新たなアーティストの作品の収集はできていない。
トーハチAtelier前の Walk Through Galleryで今、展示中の『洲本の風景画 Saudade,Sumoto』で宗虎亮氏と野水正朔氏の小さいサイズの写真数点を展示している。
それぞれの作風があり、とても魅力的な写真である。絵的な魅力と共に時間がしっかりと閉じ込められている。その時代にその場所で生きた人々の鼓動が聴こえる。私の作品と合わせて3人のグループ展のような展示になり、展覧会のテーマに広がりが出ている。このようなアーティストが存在し活動していた事(野水さんは健在)に思いを馳せるだけでも明るいイメージを得られるように思う。そんな気持ちを若い人に共有してほしくてこのような形の展示にさせていただいた。今後また別の形でも展示できればと思う。
宗虎亮
野水正朔
レタッチや画像補正もして、今の時代にもその写真の魅力を最大限に感じられるように微調整をさせていただいている。まだまだ不満足な部分は多いがどんどん公開していきたい。
今年初めての沐浴は夕焼けに包まれた。
きらめく光の海を横切って泳ぐ。
眠っている様な、夢見ている様な。
ひんやりとした海が体を包み込む。
浮かび、潜る。
体を包む空間が現実離れしていて
意識がどこかへ行ってしまいそうだ。
少し暑さが和らいだので、トーハチ・アトリエの看板を本日設置。
"Atelier"という文字を4カ所に貼り込む際にクモの巣があり、ペンキのはみ出しの固まったのがあり、普通のデスクトップのデザインの仕上げのようにならないところがリアル。クモの巣やクモはそのままにしつつ仕上げた。少し空間があいているのは& Caféという文字が抜けているせいだ。カフェ機能を持たせるにはまだまだ準備の時間が必要でこれは少し先送りにした。これから問題を解消できればという思いで。
とりあえずWalk Through Galleryとして、現地でこの場を感じつつご覧ください。これからいろいろと広がっていきます。
『わらび餅のおっちゃん』の絵が新しく2枚できたので、洲本のアトリエの前にこれまでの「洲本の風景画」シリーズといっしょに掲示しようと考えている。
洲本に『わらび餅のおっちゃん』がいるという特殊な幸せ感。これをどのように理解するか。それによって、その人その人の価値観が計られる。そして、コロナウィルスの影響で会いたくても会えない人や、もうこの世では会えない人、幼い頃の帰っては来ない思い出や懐かしい光景・・。お盆なのでちょうど時期的にもそういった事を考えるにはいいかという思いで。
初夏から新しくできた2点を加えた11点のB1ジークレープリントをニューデザインで展示する。今、東京のプリンターがプリントを制作中。そして今回は個展ではなく最近集めている淡路の作家のマスターピースともいえるような古い写真などもいっしょに公開するとよりサウダージな世界が広がるかもしれない。初めての展開を楽しみつつ夏に遊ぼうかなという企画。
この洲本の場の力を使いつつ地域に広げていく。そういった新たな試みである。
8・8追記
新しい絵2枚には亡くなった父を画面の中に忍ばせた。これもこの夏のお盆が作用しているのだろうと思う。自然と絵に出て来たのであるが。大きな視点で地球を眺めるように俯瞰してこの世界を見ると現存する人間の何億倍の人々がお盆に現れる(と日本では思われている)。そんな想像を超えた長い歴史の星屑の中にいる事をこの時期には感じ易い、とも言えるだろう。
そんな話のきっかけにこれらの絵がなれば嬉しい。
この絵のちょうど中央に、ヘルパーさんに手を引かれた最晩年の父がいる。
去年東京でに見逃した展覧会を先日神戸で見る事ができた。
「メスキータ展」西宮市大谷美術館
とても興味深かったのは版画とその他の技法の作品との表現力の差が圧倒的だったことだ。
例えばピカソやマチスにおいて、油彩画以外の作品(版画、彫刻、陶器など)でもその技法独特の魅力があり、見応えを感じる。もしくは他の画家においては油彩と素描以外の作品を作らない。ところがこのサミュエル・イェスルン・デ・メスキータ(1868〜1944)というオランダの画家は様々な技法を試みているのだが、圧倒的に木版画においてその才能が表れている。
それはおそらくメスキータにとって、技法と表現は切り離せないということだろう。つまり自分なりの技法を編み出しながら描く事でその絵の魅力が成立するという事だ。メスキータは木版画という技法と一体化している。上手に描ける人は世界にごまんといるが自分独自の技法とともに魅力的な絵として表現にするのは難しい。うまいだけではなく魅力的な絵は技法も魅力的なのだ。
小学生の時に、私自身が最初に影響を受けた絵画は歌川広重の東海道五十三次だ。これは当時、永谷園のふりかけのおまけとして五十三次の内の1枚のカードが入っていた。そのカードを10枚か20枚集めて送ると55枚セットのカードが送られて来るというものであった。
その絵の美しさと共にカードを集めるというゲーム性もあり、小学生は夢中になった。何度買っても同じカードが続く事があった。雪の「亀山」の絵が連日続いた数週だ。まあ毎日学校から帰るとおやつにお茶漬けを食べてたと言う事だ。
おそらくこのとき少年の心をとらえたのは木版画と言う限定された世界の表現だったのだろう。日々の雑事など、何もかもを忘れさせてくれる限定された世界。今で言うとスマートフォンの画面のようなものかもしれない。デジタルのドットによってあらゆるものが簡略化されている。改めて見てみると風景の中にいる人物の影さえ描かれてはいない。西洋絵画を経た目で改めて見るととても特殊な世界だ。その当時の少年にとってはその限定された人工の世界が何よりも魅力的に見えたのだ。いまでもリアルな絵の中に影など描かなくても世界は成立すると思ってはいるが。
限定された技法からその作者独自の世界は生まれ、そんな風に描く事で作者自身も救済される。
メスキータにおいてはモチーフも限られており動植物のモチーフが多い。20世紀前半にこれほど魅力的な動植物に関するアート作品を描いた西洋の画家は珍しい。
こんな突拍子もない変わった人に会えるのも美術館に行く楽しみである。
その日は面白い話がいくつかあった。
淡路島から三宮経由で西宮美術館のある阪神電鉄の香櫨園という駅に向かった。その道中読んでいた本が図書館で借りたばかりの村上春樹の新刊『猫を捨てる』という作品だった。文中、小さい時に彼の住んでいた町として香櫨園というのが何度も出て来た。本のモチーフとなった場所に向かいながらその本を読む、という珍しい体験。
さらに「西宮美術館に来たら必ず寄ってね、隣りのうちだから」と言われて「隣りってことはなく多分近所だろう?」と思いながら訪問した清江ちゃんという中学校時代の同級生の家が本当に美術館の敷地の正面右隣りで驚いた事である😯
旦那さん共々初夏の昼食にサンドイッチとスパークリングワインで楽しい時間を過ごしたよき日であった。
先日、友人の大久保くんが沢山送ってくれたCDのなかで妙にツボにはまる音楽と出会った。
Rendez-vous with Martha Argarich(ランデヴーwithマルタ・アルゲリッチ)という去年発売の7枚組のCDセット。ドビュッシー/ラヴェル、プロコフィエフ、メンデルスゾーン/ベートーベン、ショスタコーヴィチ/コダーイ、シューマン、ブラームス/ラフマニノフと1枚ずつ聴いていく。最後の7枚目サン=サーンス「動物の謝肉祭」の後におまけのように南米+スペインの作曲家の曲が入っている。たぶん彼女のレパートリーの中でも中心ではないプログラムとしてアルゼンチンやスペインの作曲家の作品をまとめて収録しているいるのだろう。しかし彼女はアルゼンチン生まれのピアニストだから彼女ならではのプログラムでもある。
そこで初めて聴いたのがキューバのエルネスト・レクオーナ・カサド(1896 -1963)という作曲家の作品集。これがとてもいい。「4つのキューバ舞曲」「3つのアフロ・キューバ舞曲」。
懐かしさで胸が一杯になり、曲が生まれた古い時代の情景が思い浮かんでくる様な曲が何曲かあった。
これぞダンスミュージックという雰囲気がたっぷりある。その時代の人々の生活の楽しみや欲望や希望や哀しみなど様々なものが含まれているように感じる。
日除け窓の隙間から入って来る中南米の強い日差し。人々の笑顔、歓声、グラスの触れ合う音とパーティー会場のざわめき、そしてその裏にあるサトウキビ畑の労働・・・。
曲調が短調と長調を行ったり来たりする(転調もしている?)。そのあたりもキューバ社会を表現していてノスタルジーを感じさせる理由だろうか。
決して複雑で手の込んだ事をしてるようには思えないんだけれど、こんなに心を動かされる。アルゲリッチの演奏は洗練されてショパンを弾く時のような美しいピアノ表現であるが、下のリンクのバージョンはやや時代がかっている。でもこの方が曲の有様がわかりやすいかもしれない。「3つのアフロ・キューバ舞曲」の第2楽章だと思われる曲。ずっと繰り返していてほしい。グルーブがある。聴いていると気持ちがいいから自分でも練習してみようかな。
"La Comparsa" Ernesto Lecuona
このあたりの曲にはまっている時に洲本市の図書館のCD収蔵庫をあさっていたら吉田美奈子のAlfa record時代(1978~1983)のLPから選ばれたベスト盤(2枚組)に出会った。(TWINS-SUPER BEST OF MINAKO YOSHIDA。ジャケットがすごく適当なので移籍後に前のレコード会社が勝手に作ったものだろう。あまりにもデザインがなっていない)。
しかし当時の音はしっかり閉じ込められている。LP時代の曲なのでCDで聴く新鮮さとこの時代の音楽はダンスミュージックだったんだという事に気づいた。曲調が煽りに煽り、歌詞にもDancin'Dancin'などと歌い上げてダンス感にあふれる曲が沢山ある。
"Let's Dance(1983)"デヴィッド・ボウイのヒットなど世界中が踊りまくっていた時代だ。
吉田美奈子の曲は音が分厚くタイトで、リズムやコーラス、弦とホーンもかっこいい。この時代の彼女のLPはいまでも大事に持っている。こんな情報量の多い曲は今は無い。こってりと充実した硬い音楽のかたまりだ。ダンスミュージックが必要とされる時代が歴史の中にはあるのだ。
"TOWN"Minako Yoshida(1981)
これはオリジナルジャケットの写真。
バッハの時代のジークやアルマンドやサラバンドなどの踊りも官能的で魅力的なダンスだったんだろうと曲を聴くたび思いを巡らす。ドヴォルザークの「スラブ舞曲」の演奏された時の風景や聴く者の気持ちを想像する。ショパンのマズルカも。その場にあるのは人間が祝祭に集い、他者を求め、いっしょに過ごしたいという気持ちだ。
こんな部屋に閉じ込められた様なコロナの時代だからこそ、誰かと共に開放感を味わうような音楽を心と体が自然に求めているのかもしれない。
今年の5月はバラ不足。
初夏の気候になると身辺にバラは沢山出て来るのだが、自分が育てたバラを今年は見る事ができなかった。これもコロナのもたらしたひとつの出来事。
例年だと2種類のバラが家のベランダで毎日新しい花を咲かせる。4月末から2−3週間続くだろうか。毎朝起きるとその朝生まれたばかりのバラを見て、その香りに包まれるのがここ20年くらいの楽しみだった。
サンテグジュペリも『星の王子様』で比喩として書いているように、自ら育てたバラがいかに特別かということ。
様々な種類の美しいバラがあり、沢山の木を育てているバラ園などもある。花屋も多くのバラで華やかだ。そこで見るバラはそれぞれに美しく、この初夏の気分を連れて来る季節感も相まって本当に幸せな気持ちにしてくれるのがバラという花の特別なところだ。
今年は育てたバラを見る事ができないので沢山のバラを描いた。
これはある人の一周忌に絵を手向けるためだったり、娘がお世話になったピアノの先生の教室のプログラムのデザインとして描いた。これもまた自分でバラを育てるという行為かもしれない。
例年のバラの様子
中南米原産。
子供の描く葉っぱの様で見ていて飽きない。
去年の秋に親戚が置いて帰った。
初めて見る新緑はこの世のものとは思えない。
伸び放題のレンギョウと重なり合って伸びる。
こんな緑の光を浴びているとこちらの背筋も伸びて行く。
コロナウィルスで世界の様々なものに対する考え方が変わりつつある。悪い事だけではなくて、これまでなかなか実現できなかった事がかなうきっかけになるかもしれない。
わたしの生活は裏山でのストレッチや桜の幼木との日常の対面も普通になった(上り坂でのダッシュも加えた。おかげでふくらはぎが張っている)。自然と対話する時間が増えた。そして今まで気づかなかったようなこの季節ならではの小さなものにも出会う。それはあたかも目の前にある星々だ。
花の終ったタンポポやアザミ。小さな星が地面に咲く。
この木はジャスミンだろうか。こんな木が沢山ある事に気付く。
ここにも星々。
星屑のようにも見える。
いま人間社会が被っているのは自然界からの強烈なしっぺ返しだ。われわれが生活を変えない限りこのようなことは何度でも起こるだろう。もっと自然を尊重し、人との関係にも温かみを配慮した生活を営む事が求められているのだろう。
自然の細やかな変化を見るにつけ、われわれは目の前のほとんどの事を見落としているんだと感じる。
現状では世界中の空や川がきれいになっているという。CO²の削減にコロナが貢献している。
身の回りでは、なかなか実現できなかった東京の美術館の入場方法などが変わりつつある。事前予約制にして時間当たりの入場者数を少なくするのだろう。これまで企画展は大混雑で本当に行くのが辛くなるものが多かったが、これからはゆったりと見る時代になるのか。⥥
コロナは人間社会にとって決して悪い事ばかりしているのではない。
近所の野山に出かけると生き物に出くわす季節になった。
いとこの墓で冬を越したのかかえる君、
夏を連れて来た。
駆け足の足下に現れる大きなマイマイカブリやヘビ。
黄色い菖蒲が鮮やかだ。
こういう田舎道だとコロナの時代になってもマスクもいらない。今後ゆったりとした空間を求める若者が地方にもっと増えるかもしれない。これまでとはまた違った考え方で。人口の多い都市では様々な社会的制約が人権にも及んで住みづらくなる可能性がある。都市に本社のある企業の思想も変わるだろう。
家の中庭でも様々な小さな命が満ちる。
この季節、八百屋は豆類でいっぱい。
沢山の小さなエネルギー。
夏に向けて玄米カレーチャーハン😷。
外出が思うようにならないので例年より早く穫れるナルトオレンジを買ってみた。いつもの由良産のものではなく、淡路島の西側、五色町の小高い山で作っているナルトオレンジを初めて購入。この辺りの山は収穫が少し早いんだな。私の高校の同級生の息子さん夫婦がおじいさんの農園を受け継いでやっている。ネット通販も充実している。
森果樹園×ツギキ。
5kgの箱のものでオレンジが20個くらい入っている。
今回は縦に12等分くらいの感じで切っていく。
本日のBGM。神西敦子さんのゴルトベルグ。録音も美しい。
ワタを削いだ状態。
こちらはワタとタネコーナー。
果肉と果汁チームはここにいる。
本日のBGM追加。フリーメイソンのための葬送音楽。
ナルトオレンジはワタも取りやすく果汁も多いので、砂糖が少なめでも粘り気の調整が容易だ。入門編としても扱いやすいかもしれない。今回砂糖は重量の約35%にした。
3度ゆでこぼした皮に、ワタと果肉と果汁と砂糖を合わせ、馴染ませる間に散歩に出る。
この季節は柔らかな色彩が町中に溢れている。
上山君の実家にいるQに会いに行く。笑顔で迎えてくれた。
お腹を空かせてたので、餌を少しあげる。
カラスノエンドウだろうか。川岸で咲き乱れている。
こちらはレンゲ。花の後、田植えの準備に入るのだろう。
のんびりカメ君。ボラの大群。
墓守をしてくれる清楚なアイリス。
さあ、砂糖が溶けてきれいに馴染んだ。ゆっくりと煮詰める。
ワタが溶けてゲル化していく。
母が傍らのテーブルで眠る。最近は日中眠る事が多くなった。
オレンジ7個で、大瓶中瓶など6個のできあがり。
翌朝。うーん美味😳😝目が覚める。
甘過ぎなく、苦みがある。様々な苦い経験もして来た大人の味わいなのだなぁ😋😷😏
日本中の学校が休みのままずいぶん経った。
いとこの子供(小学2年生)が暇を持て余してたので、裏山まで走ろうかとさそってみた。
コロナウィルスをお互いに浴びないようにと2m以上間を空けて坂道を駆け上がる。桜並木を越えて公園に入る。もともと人気が無い場所だが、今日も誰もいない。走ったり、休んだり、体を動かす。遊具の鉄枠にぶら下がったり、懸垂を教えたり。そして鬼ごっこ。
ずいぶん体も大きくなって、自分の事を「オレ」(オにアクセント)なんて言ってる割に捕まりそうになると「タイムタイム!」と言うところなんか昔の小学生と同じだ😄笑ってしまうぞ。
見上げると新緑が驚くほど美しい。日に日に変化している。毎日の映像詩。自然のメッセージを浴びる。
木の種類が多ければ多いほど、緑のバリエーションも多い。
私が写真を撮っていると自分でも撮りたくなった「オレ」。
マニュアルフォーカスでカメラのピントを私に合わす。初めての経験だろうか。何かのときに思い出すかもしれないな。
「オレ」が撮ったすこしピンぼけの写真↓。
帰り道の下り坂で「おんぶー」と背中に飛び乗って来る。小さな子供のいる家族は悩みが多いだろう。こうやって接触するのが子供との遊び方だから。何もしゃべらなくってもくすぐってるだけで楽しいから。それを禁じられている今は世界から温かみを抜き去られた季節なのだろうか。
今朝は桜ストレッチの後、隣り山の新緑に紛れ込んだ。
全身に緑を浴びて。
緑の光が体や精神のすみずみにしみ込む。
汗ばみ始めた上り坂で、ひんやりとした風が木々を駆け抜ける。
軽やかなブルーと新緑がハモッている。
少し霞んで見える和歌山。
環水平アークが出た。高く高く鳶が虹を渡る。
お互いに重ならないように伸びている。
スダジイの巨木がいた。よろしく。
山を下りるとすぐ海。海も今が一番きれいだ。
コロナ肺炎の広がりで淡路島洲本でもプールが閉鎖されてしまった。
しかし緊急事態宣言を出しても新幹線や長距離バス、高速道路が動いていれば都会から田舎へどんどん人が移動してしまうからこのウィルスの広がりはおさまらないだろう。
とにかくプールに行けないのは体と精神にとっての非常事態だ😨😱。事態の悪化を伝える沢山のニュースをひととき忘れる意味でも、体と心のコンディションの悪化を避ける意味でも今日は植樹した桜の山まで走りその後サクラストレッチ。つまり桜の木の添え木の枠に高く足をあげてストレッチ。1mと少しの高さか。上げてない方の軸足にも効く。軸足もしっかりと伸ばす。15分。上空には風に乗った大きなミサゴが一羽。高く低く滑空している。足をあげたまま見上げて体を反らせてストレッチ。すぐ上空に来ると目が合う。目の前の新緑とそろそろ終盤の桜。風景と鳥を使ってのストレッチ。
街と川を隔てた炬口の奥には山々の新緑。体と心のストレッチ。
その後、ベンチ上でヨガをいくつか。2、3人がそばを通る。こういう場所と比較するとプールサイドは何も気遣い無く好きな事をできる空間なのだな。
山を逆側から下り少し歩きキッチンカーで店を出している「ロシアンキッチン イリーナ」で淡路牛のビーフストロガノフを食べる。牛肉とタマネギがおいしいここ洲本にはぴったりのメニューだ。東京から移住してきたこの夫婦(奥様がロシア人)にも物語があり、この町を選んで来てくれた事に一言礼を言ってきた。
コロナ騒動で世界が内向きにならざるをえない時期にも新しいものは生まれる。
年始から制作していたCDジャケットが仕上がり送られてきた。
紙の見開きCDジャケット。厚紙の表面はPP貼りで光沢があり雰囲気がいい。プラスチックケースよりグッとくる。
色も美しく出た。校正でわずかに明るいデータに差し替えた。最近は印刷会社の方と対面で話しながら校正紙をやり取りする事があまりなく、データに対するさじ加減を印刷会社はしないのでこちらの職人的カンが必要とされるのだ。印刷に関する質問は全てメールだ。初めての印刷会社だとその会社の特性を探るのもカンである。今回の印刷はCDのプレス会社という特別な入校形態。美しく印刷を仕上げるためのハードルは結構高い。
このCD、内容が面白い。ブラジル音楽だけを演奏するビッグバンドのCDなのだ。
バンドメンバーは東京近郊在住のプロのミュージシャンで、普段は各人が個別に演奏活動をしている。オーケストラに所属していたり、著名なアーティストのバックバンドをやっていたり、TVやCMでの演奏などそれぞれに活動している。実力派のメンバーが集まっているのだ。そのメンバーの国籍もブラジル、キューバ、カナダ、アメリカ、日本と多様だ。こういうのもあまりない。
バンドの指揮&編曲&作曲家の八木美楠子さんが立ち上げたこのバンドのために、メンバーがバンダ・マンダカリーニョとして集結するようだ。彼女とは一度お会いした。こんなメンバーを集めるパワーと音楽家としての器を感じる。音楽家というのはやはり独特の世界観を持っている。そんな中でも感情や度量の豊かな人だからこういう音楽が生み出せるんだね。
そして面白いのはアレンジがブラジルのリズムそのものって言う事ではなく、彼女のアレンジしたオリジナルの様々なリズムをこのバンドは持っている。それがビッグバンドの多彩な楽器で奏でられる。こんな時代になってしまったことで、このような音楽の意味が強くなったように思う。沢山のバンドメンバー(17人)が集まる贅沢さと、その大人数が出す音の豊かさ。そんなものが貴重な時代だ。
そんな彼らの音楽をビジュアルで伝えるためにCDジャケットには光と自由と緑と喜びを詰め込んだ。
曲目解説を中原仁さんが書いてくれたのも嬉しい。ブラジル音楽を日本で最も知る第一人者が快く書いてくれたのだ。感謝である。曲を聴いて五感で感じる事と、その後曲のバックグラウンドを知り、少し理性的に聴くのとではまた違う感じ方ができる。より深く感じられたりする。特に中原さんの解説はアーティストに対する細やかな言及があり、マニアックな情報と合わせて、読んでいて温かい気持ちになる。
八木さん自らが、バンドについて書いてくれた文章もいい。読んだとき何か音楽を聴かせてもらったような気がした。音楽家の文章はその人自身の音楽なのかもしれない。
こんなに様々な豊かな才能を持つ人たちと触れ合うのはとても楽しい体験であった。この仕事自体が悪い気を駆逐する。
発売は5月半ばですが、興味がわいた方はぜひ下記リンクなどからお手に取ってみてください😄
HMV「ブラジルの光」バンダ・マンダカリーニョ
先日SNS上で自分が読んできたマンガについてアンケートに答える機会があり、それに答えた時にいろいろ気になる事を思い出したので、大島弓子の作品をいくつか取り出して読み返した。
結果、驚くべき事に大島弓子の作品には長い時間が経っても読んだ当時の新鮮さがそのままあり(とりわけ1975年以降)、その内容はいまも輝き続けている。エバーグリーン。
時代が彼女に追いついたと言うべきか。
登場人物の様々な形の心の孤独、潔癖性、それ故の社会との不適合、大人になることへの拒絶から来る混乱、性同一性障害、心の病、主人公の母の心的またその夫への感情の病………。
そしてそういった脆く心優しいもののつっかい棒になろうとする男性や同性の友人たち。
そんな複雑な現代的テーマがとても美しい(としか言いようがない)絵で描かれる。その絵はナビ派のボナールやビュイヤールを受け継ぐ。その内容は文字によるフィクションを軽く凌駕する。物語の形でとても繊細な精神を表現しているが、やっぱり絵がいいのだろう、人物造形がいいのだろう、コマ割りがいいのだろう…‥。そのせいで物語が音楽の様なリズムを持ち、その論理の突拍子もない飛躍を違和感無く後押ししている。
物語の主人公はいつも世間の事など全く眼中に無い様子で生きる事に一生懸命だ。とても不器用でこの世界では生きづらいだろうと思わせる。上手に世間と折り合えていない。しかし彼女(または彼)たちはそれを悔やんだり世間を恨んだりはまったくしない。いろんなものにぶつかりながら、そして時に完全に破綻しながらもまっすぐに進む。一見全く逞しくない主人公は雪柳の細い枝のようにとてもしなやかなのだ。その矛盾に満ちたバランスの悪さがなぜかしみ込むように温かく心を捉える。不完全で愛しくて魅力的だ。
例えば「シンジラレネーション」の朝田夕(ゆうべ)、「ダリヤの帯」の只野黄菜(きいな)、「赤すいか黄すいか」の庭野千草…‥。「裏庭の柵をこえて」のとみこなどは小学3年生にして持っている創造的な思考力や率直さがとても素敵だ。また、主人公のまわりにいる女性も魅力的だ。「あまのかぐやま」の雲林院(うりんいん)吹子、「さようなら女達」の海棠茗(かいどうめい)、「バナナブレッドのプディング」の御茶屋さえ子、「パスカルの群れ」の朝丘結(むすび)など主演ではないものの世界に対してフェアで聡明な性格が与えられていて物語を包み込むようにナビゲートしてくれる。さらに主人公にとんでもないくらい振り回されてひどく動揺しながらも冷静な判断をしていく男性たちもいい。「赤すいか黄すいか」の瀬戸内君、「シンジラレネーション」の河原昼間、「ロストハウス」の樫原仁…‥。他にも「毎日が夏休み」や「綿の国星」など主人公の父親は母親に比べて落ち着きがあり、正しい判断のできるいい役割をもらうことが多くこれも大島弓子の世界にあるひとつの通奏低音になっている😷言葉だけだとおそらくこうはいかない。つまりは大島弓子の表現するものは一見少女マンガの体裁を取っているが、実はそれとは別のものなのだ。少女マンガと勘違いして、敬遠してる人がいたらとてももったいないことだ。
そこに頻繁に描かれる木々が物語に登場する人たち(たまに猫)を祝福する。そこで描かれた沢山の悩みさえも祝福している。そのときにしか体験できない大切な悩みとして。だから同じ様な問題の最中にある読む者の心を温かく包む。
その花や草木の描き方が少女マンガによくある主人公のまわりを舞うバラなどとは違う。木々は光であり、伸びやかな自由さを表している。生きている人たちのかけがえのなさの象徴だ。本当に頻繁に木々や葉が描かれるのだ。繰り返し繰り返し。
自分のティーンエイジからおそらく40歳を過ぎても断続的に何度も読んでいた、そして自分を形作った物語や、形作ってくれた人たちを思い出している。
シンジラレネーション(1977年)
パスカルの群れ(1978年)
草冠の姫(1978年)
全て緑になる日まで(1976年)
夏の終わりのト短調(1977年)
バナナブレッドのプディング(1977年)
綿の国星(1978年)
裏庭の柵を越えて(1981年)
あまのかぐやま(1984年)
ダリアの帯(1985年)
庭はみどり川はブルー(1987年)
夏の夜の獏(1988年)
ロストハウス(1994年)
新しい春が生まれた日。
空気が体温を持ち
命が動き出す。
花々の微笑み。
音楽さえその聞こえが変わる。
喜びの笑顔に
新緑がまもなくやって来る。
この世界の中に
かつて存在し得なかったもの。
顔を上げ、見つめる。
新しい命の誕生を。
そして、春が来たから今日は網戸洗い😄窓を開け放つ😛😀
絵やデザインや新しいウェブの事を年明けからずっとやっていて、先週一段落した。
キッチンの机に残してあった大根をふと見ると、うっすらとした春の彩りがそこにある。
自分の体にある養分と空気だけを使って生きて住む場所で生命を謳歌している。部屋の中でもだいこん君、こんな風に頑張ってるんだと見つめる。いとおしい。年明けからの右往左往していた自分がそこにいるように思えて。
自然からの贈り物のブーケ。
新しい季節に向かう美しい彩り。
同じアブラナ科なので、花の形は菜の花とよく似ている。同じ時期に同じ様な花をつけるんだな。兄妹または姉妹、もしくは自然にできたクローンがいっぱいいるから春の町はわが家のだいこん君の家族のおしゃべりで賑やかだ。
2月からのコロナウィルスの流行のため様々な行事が中止になり、学校までが休校してしまった。
各地方で裁量権を持ち様子を見ながら判断していけばいいのに、日本全国が横並びで休校になってしまった。このような休校要請は法律に基づかないものだから本来は許されるべきものではない。しかし強制力がない要請のような指示でも、日本人の国民性・お上まかせのために自ら強制力を強めてしまっている。これでは子供たちに申し訳が無い。いい大人として格好が悪いだろう。そういう判断をした地方の首長に限って、国からの指示がよくないと文句を言ったりする。見ていて醜悪だ。
私は今月の東京行きが中止になってしまった。今朝洲本で近所のプールに行くと、ここは開館している。嬉しい。これでいいんだよね。感染者が近くにいないのに一律に図書館やプールを閉館してる県があるようだが、本当は様子を見ながらその都度判断して行けばいいのだと思う。このような日常が続いて行きますように。
太陽の光が入るプールで気持ちよく泳ぐ。この気分はこの館の判断がもたらした気持ちよさ。
そして、気持ちよく泳いでいると、泳ぐ事は自分が滑らかな水流に入り込み移動しながらリズムを生み出している事に気付く。
1、2、1、2でも、1、2、3、1、2、3でも、1、2、3、4、1、2、3、4でもどんなリズムでも取れる。そのようなリズムを常に生み出している。
休む事無く1持間泳ぎ続けると、交響曲1曲分くらいの長さになろうか。だから泳ぎ終わったあとの余韻は充実したプログラムのコンサートを聴いたあとの余韻にも似ているのかもしれない。それは様々なリズムや和音やメロディが体に入り込んだ余韻だ。
私自身、日常の中で楽器を演奏しなくなってしまったが、泳ぐ事がそのかわりになっているのかもしれない。もし泳ぐ事が出来なくなってしまったら、また楽器を演奏するのかもしれない。
泳いでいると頭がクールになり自由なアイデアが湧いてくる。不思議だ。モンゴル人は「ちょっと考え事がしたいから」と言って馬に乗って出かけてしまうらしい。地面にとどまっているとものが考えられないようだ。散歩中にアイデアが湧くという人もいるが、これらはみんな同じ生理だと思う。リズムを生む行為の中で気持ちがよくなり、快感に包まれた幸福感の中で何かのエネルギーが生まれて思考が自由になるのだ。だから泳いでいる間中、心地いいリズムを持った音が鳴っている。
泳ぎ終わったあとその余韻に浸りながらクールダウンする。そしてそのリズムを持ったまま日常に戻るので、その日は一日中機嫌がいいという嬉しい副作用もある😄😃😍😝😜。
中学時代の同級生で始めた淡路島洲本市の「曲田山サクラ再生植樹プロジェクト」。おととしから少しずつだが植樹をしている。
そしてこの活動に影響を受けたらしい「洲本サクラプロジェクト2025」という動きがこの度始まり、大阪・関西万博が開催される2025年までに、曲田山を中心に市内各所で2025本の植樹をするという気宇壮大なものらしい。
共通する思想があるので事前に私の方にも連絡があり、理事メンバーにという依頼でその動きを注視する事になった。
おととい私たちの植樹した桜の幼木に今年初めての水やりに向かった所、偶然この洲本市の植樹の準備をしている所に出くわした。
すぐ上の写真、左のプレートのついた木が私たちの植えたもの。その右側にも新しい木が植えられた。
プロジェクトチームがいるわけでもなく、造園会社の2名の方が作業をしており、数時間後に植樹会があるらしい。
観光や銀行など雑多な業種の方でチームが構成されているらしく、細かなプランがあるわけでもないようだ。とりあえず今回20本植えている。私たちがこれから植えたかった場所にも植えるようで、これはとても嬉しい。
下の写真の木はすぐ右下にある斜面に植えられる。
水やりやメンテナンスの事を聞くと、その辺りは何も決まっていない。大丈夫かな。
予定が知らされてなくてもそういった場面に私は偶然出会ってしまう事が多い。まあ縁が深いという事だろう。
木の間が近すぎたり、植えるデザイン的に気になる所は色々あるが、その辺は自然相手なので鷹揚にこれから見ていけばいいだろう。
枯れたように見える老木の傍らに小さな木が植えられている光景は見る者に希望を感じさせる。とても素敵な光景だ。
新しい木にもホースの届く範囲で今日水をあげた。
このような縁起を愛でながら。
岩井俊二監督「ラストレター」を見た。
彼の出世作「Love Letter」から25年が経ったらしい。この名作を上回る様な映画に仕上がっている。これまでいくつかの作品を見てきた映画の作者が今でも元気で時代を打つ様な作品がつくれる事がうれしい。誠実に善きものをこの地上に生み出そうとして。
沢山のエピソードや人や音楽や映像がからまりあい、見事なオーケストレーションになっているわけだがとりわけ印象的だった事柄がある。
物語のラストで登場人物である小説家が撮った写真が大きな効果を生む。それはただ単にものとしての記念写真を渡すという以上にとても大きな気持ちを込めたギフトとしての機能を写真が持っている事を伝えてくれる。この世に生きている事を祝福する行為と言ってもいいかもしれない。普段何気なくわれわれは写真をやり取りしているが、それは温かい気持ちや優しい気持ちを誰かに伝えたいという人として生きる上でのひとつの大切な行為であることを、このひとつのエピソードを通じて映画は伝えてくれる。
この映画は大プロモーションもかからず、マスコミの取り上げ方も少ないだろうからそれほど沢山の人の目には触れないかもしれない。それでもいい映画は残って行くだろう。
岩手の町や樹上を駆けて行くドローンでの撮影も使いながら、より情感に訴える映像を生み出している。彼はまだ深化している。
父の墓のまわりに秋に植えた水仙が可愛く咲いた。墓石のまわりが全て砂利だったので、一度砂利を全部取ってもらい土を入れた上に薄く砂利を撒いてもらったのだ。
こうしておけば他にも何かが芽を出すかも知れない。
期待を持てる環境にとりあえずしておく。砂利のままだと全てが止まったままだ。
墓のあるここ寺町は通りの左右であの世とこの世が別れる。だからわれわれは日常と非日常の世界を日々行ったり来たりする。いまでも夫を亡くした奥さんたちは早朝店を開ける前に毎日墓参りをし、あの世からこの世へ戻ってくる。そんな世界がある町だ。
一応塀や建物で仕切られているが生活に生死が入り交じっている。こんな場所で毎日遊んでいた。境内が遊び場だからね。
寺町から山の方へ向かう。
桜の名所の曲田山の麓にも墓がたくさんある。
こちらはもっとワイルドで、いたるところに水仙が顔を出す。
どうやってここに根付いたんだろう?
坂を登り、去年2回目の植樹をした桜の苗木を見に行く。
木はまだ小さく寒さに縮こまっているようだ。添え木の竹の方が断然太い。
今日の海は眠るように霞んでいる。
この山の老桜たち。
去年の春、何十年かぶりにこの場所に来て見たのだが、こんなに年老いた桜が身を捩るように咲く姿はど迫力だった。
痛々しく、見た事のないような美しさを持って。
それでもひこばえにはもう花芽がついている。
この枝にも去年は花が咲いていた。
苦痛にいななく馬。
崩れ落ちる巨像。
引き裂かれた死骸。
置き去られた片腕。
この場所をなんとか新しい命が生まれる場所に再生したい。
老いてなお凄まじい命のエネルギーに溢れた木々を過ぎて、下り坂の途中の家の庭では早咲きの桜が満開。命はひとつの木という単位を越えて巡っているようだ。
冬は雲が美しい。
この季節ならではのことばが聞こえる。
色彩、その動き。
前日に見た彫刻が感覚に影響を及ぼしたか。
新しい視界が広がる。
府中市美術館で「青木野枝 霧と鉄と山と」という展覧会を見た。
鉄の彫刻が軽やかに立ち上がっている。何か女性の使うアクセサリーが拡大されたようでもある。あたかも樹木のようだ。脆くて危うい、しかしそれは硬く強く冷酷な大きな鉄でできている。恐ろしさと繊細さがないまぜになった矛盾を、心が戸惑いながら受け止める。風景。夢で見るようないとおしいプロポーションがある。切なさ。線の揺れ。軽さを内包する重さ。見上げるからだろうか、空や雲を見ているようだ。
「青木野枝 霧と鉄と山と」
以下はネットで拾った写真。今回の展示物とは違うものが含まれる。
暖冬かとのんびりしていたらやはり寒波がやって来たようだ。
曇天の下で厳しい寒さを感じるとついついその曇り空の向こうに輝く様な青空を見てしまう。🌻
6月は南国のように季節がゆったりと湿度を帯びながら成長する。
この歌の歌詞のように、穏やかな季節の中の楽観的で平和な何でもない日常がいとおしい。
真逆の季節に思いを馳せるのも寒い冬のひとつの楽しいゲームだ。
春までこんな曲を聴いていようか。🐸
Memphis in June
A shady veranda under a Sunday blue sky
Memphis in June
And cousin Amanda's makin' a blueberry pie
I can hear the clock inside tickin' and a-tockin'
Everything is peacefully dandy
I can see old granny cross the street, still a-rockin'
Watching the neighbors go by
Memphis in June
With sweet oleander blowing perfume in the air
Up jumps the moon to make it that much grander
It's paradise, brother take my advice
Nothing's half as nice as Memphis in June
年明けには毎年親戚が集まるのでその準備や掃除であわただしく年末を過ごした。小学生時代から変わらず年賀状も書く。年賀状は一番最初にデザインと出会ったメディアだ。そして新年。年々親戚が増えていく😮。
一段落しDVDでマリメッコのブランド誕生を描いた「テキスタイルの女王」を見た。2015年フィンランド映画/原題:Armi elää!/監督:ヨールン・ドンネル
興味深かったのはブランドが生まれた時代と、それがまだ生き残っている今という時代への思いが刺激されたことだ。デザインの力はとても強いもので、それは時代を超えて生き続ける。
それと同時に、デザインが生まれた時代とそれ以降の時代でまた別の価値が生まれてくる。このようなウェルメイドではない映画からも何かしらの刺激を吸収するのが年の功か😊。
新年の日にちは過ぎて行く。週末の日曜美術館で皆川明氏の展覧会の番組に出会った。
先の映画との共通点をそこに見る。彼のデザインにはデザインし続ける事による胸の高鳴りがある。それは何故かというと、常に新しいものを求めていないからである。あるものを繰り返し使う。考え方を変えない。目先の新しい技術も追わない。
番組を見ていて気持ちの高まりが止まらない。夕飯を食べる手が止まり番組が終るまで食事が手に着かない。おかげで料理が冷めてしまった・・・。こんな気持ちにさせるものがデザインの力だな、と感じる。人の心を高揚させるもの。しかしその高揚は決して熱過ぎるものではなく、ほんのりと暖かく心休まるものである。そんな気持ちをどこまで持ち続けられるか。これからのテーマが心に浮かんでくる⭐。
刺繍のデータを丹念に入力しコンピュータで縫い上げる。
東京都現代美術館 ミナ ペルホネン/皆川明 つづく
2019年11月16日(土)〜2020年02月16日(日)
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/minagawa-akira-tsuzuku/
追記2020年1月31日
実際に展示を見た。一枚の服がとても大事に作られている事がよくわかる。ファストファッションの対極。使い捨てを拒む人の温かい気持ちに寄り添う様な服作りだ。価格的な高級さに陥らず、デザインによって服を着る人の気持ちの気高さを生み出している。😌
今年発売された本ではないが、今年出会ったという事でこの本を選んだ。
本から伝わってくるカイ・フランクの人となりやデザイン哲学に心打たれる。ただ美しい。それもさりげなく美しい。あたかも新しい自然の事柄がこの世にひとつ増えたかのように外連味がない。自分で所有してみようとは思わないが(もうすでに日本ではひとつのブランドになってしまっているので)、こんなプロダクトならこの世界に増えていっても世界は大丈夫だろうと思わせてくれる。
陶器からガラスへとそのデザインは広がりを見せ、想像もできない様な色彩が生まれてくる。それは自然を想起させる色彩だ。
写真が美しい。編集は繊細で様々な人の証言や彼の言葉から、ものの裏にあるその哲学の一端が読み取ることができる。以下、本文から少し引用させていただく。
カイは幼少期自然の中で遊ぶのがとても好きだったという。(中略)カイの元同僚で親交も深かったデザイナーOiva Toikka(オイバ・トイッカ)さんはかつて、かつてカイから聞いた幼少期の話として、こんなことを話してくれた。
「ヴィープリの家では、動物を家の中で飼う事を禁じられていたから、カイは小さなかえるをこっそりと口の中に入れて持ち帰って、自分の部屋でいっしょに遊んだようだよ」
産業の役目はアーティストに表現手段を提供する事である。
日用品は人々を疲れさせるものであってはならない。重要なのは何十年にもわたり、暮らしの中に自然に存在し使い続けられる事です。消費者はそれをだれがデザインしたか考える必要はありません。だから表示するマークは企業の名前だけで十分です。
大学時代にカイの授業で新しい考え方をデザインせよ、という課題がありました。その当時、僕は創作活動のために100平米のスタジオを持っていて、そのスタジオ用に、どこにも端が存在せず、誰がどこに座っても平等な立場で座る事が出来る有機的なテーブルをデザインしたんです。(中略) 単なるプロダクトデザインではない、あらゆる視点から考察されたデザインを提案する事が絶対条件だったように思います。だから僕自身も、身近にあるものをどのような考え方をすれば使う人にとっても、置かれる環境にとっても有機的なものになるのか、ということをよく考えていました。このテーブルは講評の時にカイから、これは新しい考え方だと褒められました。
大きなライ麦パンをくり抜き、その穴に発酵バターを詰めて、くり抜いたパンで蓋をするというものです。余計なものは持たずに、至極合理的かつシンプルに食事を済ますという、考え方そのものがフィンランドらしい、素晴らしいデザインの基本なのではないか、と。そういうことを、各地を訪れては講義していましたね。その背景には、カイが影響を受けた、日本の民芸運動などの考え方も大いに関係していると思います。
住む部屋が変わってもそこにはいつも絵や絵はがきが壁際にある。これはなぜだろうと考える。
ひとつは外に向かって風景が見える窓の役割だ。壁に囲まれた部屋で人が暮らすにはどうしても窓が必要だからだ。絵は窓のように様々な風景を見せてくれる。窓ごとに異なる世界を見せてくれる。額縁は穴の開いた壁の縁取りだ。
また、裏面に心温まる文章の書かれたクリスマスカードがある。大事な人の書いた文字の封筒がある。これらは平面的な置き薬の様なものだ。そこにあると安心感を感じられる。知らず知らずの内に心の安定に役に立っている。
そういうものがあるのが自分の部屋だ。花の絵は花を飾りたいという気持ちを表しているのだろう。
冬にはなぜかそのようなものの存在が特に大事に思える。
夏の終わり頃から瓦の修理で屋根に上る事が多い(何でもやってるな、最近😊)。
初めての視界。2階屋根の上は、マンションの2階の天井より高く3階の床面から少し浮かんだくらいの高さだがそこに立つのは全く新しい視覚体験だ。
そもそも斜面に立つ機会は山登りやスキー場くらいしか無い。
そんな場所で壊れた瓦の部分や瓦の下の痩せてしまった土部分をセメントで埋めていく作業をするのだが、そこで過ごす時間が増えるにつれて、瓦のデザインが体にしみ込み馴染みのモノになってきた。
何だろうこれは、懐かしい生き物のように見える。古い屋根はひとつとして同じ物は無く、よく見ると少しづつ大きさや形の違うカブト虫のようだ。古くから地上にあるデザイン。そんなものに目が行き、自分の世界の見えている部分が広がる。暖かく、柔らかく、硬く冷たい瓦屋根。
淡路島のこの辺りの家は、軒を寄せ合い支え合っているものだから、よけいに生き物のように思えて来るのだ。長い年月に渡って支え合って来た動物たち。地震や台風をしのぎ、熱い太陽の熱に焼かれ、降り積もる雪の冷たさに凍えこの場所で頑張っている。そんな姿が気になるようになった。
家にも人格のようなものができるという事だろうか?その話し方があり、佇まいがある。瓦を見ていたら、遠い昔のこの町の情景が浮かんできた。
グラタンを作りながら思い出す。
20年くらい前だろうか、器の内側にバターを塗るのは子供たちにやってもらっていた。
小さい子供たちがバターナイフで曲面のグラタン皿に塗りにくそうにバターを塗る姿はいいものだった。美味しいグラタンをイメージしながら、早く食べたいとわくわくしながら、大人の手伝いをしているというちょっと背伸びした誇らしさを感じながら。そんな子供たちが感じたと思われる気持ちを(その表情や少し大きめの話し声から感じられる)、かちゃかちゃというバターナイフがグラタン皿に当たる音とともに思い出す。かつての冬の温かい時間を。
おそらくその時間は、人生の中でも最も心温まる冬の夕刻の時間だったように思う。
今日は母といっしょに食べるためにグラタンを作っている。
この時間も後何度あるだろう。貴重な時間として、私と母は今その時間の中にいる。
引き続き店の片付けや掃除をしている。
近所の小学生の下校時、写真を撮って遊んでたらあるおばさんがやってきた。
「この絵の店、わたしんとこよ」と外に貼ってある左上のボートの絵を見ながら言う。
「へぇ、そうですか、それは嬉しいな。ボート◎◎号、お時間ですからお戻りくださいって客を呼んでましたよね?」
「あれはお隣の店で、うちはアルバイトの若い子たちがやってた。3軒あったんよ」
全盛期の大浜のボート屋の話。
「このボートも、隣りの大きいの、小さいのもそう。うちの」
絵のボートをひとつひとつ指差し、慈しむように話す。
「ぼくの同級生の持井くんとこもやってたみたいです」
「持井さんとこもそう、みんなもともと漁師であの辺の漁業権がないとできなかったのよ。わたしも由良から嫁いできてあの辺でやってて亭主が漁師をやめてからボートになった」
ちゃきちゃきと話すかっこいいおばさんだ。どことなく話す雰囲気から越路吹雪を思い出した。
話の途中、ふと気づいてドアの外を見ると台車がある。
うちで使ってる台車?いや、これは新品で綺麗だ。誰のだ?
「あれ、おかあさんこの台車何ですか?」
「わたし、これで買い物に行くのよ。手押し車よりいいでしょ。沢山乗せられるし。一番いいのを買ってきてもらったの」
これで家からイオンまで行ってるらしい。
あまりに素敵なので携帯で写真を撮らせてもらう。
越路吹雪もこの辺で生きてたらこんな風に台車をはさんでいっしょに話せたかもしれない。残念ながら彼女は私が大学生の時に亡くなっている。一度会ってその雰囲気を味わいたかった。今日のおかあさんはそれを体験させるためにやってきたんだな。つまり越路吹雪は由良の女性に似ているのだ。
Be not inhospitable to strangers lest they be angels in disguise.
店を開けて掃除をしてると色んな人が入ってくる。
わらび餅屋の川西さんのおばさんも最近よく覗いてくれて、いろいろ放出品を買ってくれる。わたしもわらび餅や信楽を買ったり、時に物々交換をしたり。なかなか楽しい。おじさんは私が小学生の時にもうすでに下校時の校門のところであめ細工などを売ってたのだ。99歳。この日は買ってくれたクーラーボックスの入った段ボールが3輪自転車の上に乗っている。
店の修理の指導をしてくれる近所の川村さんや、内谷さん、そしてその友達のおじさんおばさんも沢山入ってきてわいわいとなることが最近多い。おとといは話を聞きつけた川村さんの友人中野さんが父のスチールのデスクを車で持って帰ってくれた。使ってくれる人がいるのがうれしい。川村さんの人脈がすごいから、色んな人に声を掛けてマッチングさせてくれる。こんな人が地域に必要だ。この町の大切な人材です。
きのうは2週間前からの川村さんとの足場を組んでの瓦修理が終了。これで大きな所の目処はついた。内装に移ろう。
川村さんはその後、小学生といっしょに作ったぽん菓子をわざわざ届けてくれた。
淡路市のウェスティンホテル前の埠頭から瀬戸内芸術祭の会場へ向けて直行便のツアーが出ていると友人の松林君が教えてくれた。
年に何度か開催される日帰りツアー。諸事情で今回私の出発は姫路港からになったが、この度初めて参加した。
早朝に洲本を出発し姫路へバスで向かう。荒れた天気。近所の埠頭にもこんな白波が。
姫路港は昭和の香りが溢れる港であった。ここは小豆島行きフェリーや家島行きなど今でも沢山の航路のある港のようだ。
こんなに沢山の種類が入ったタバコの自動販売機が今もなお稼働中。
フェリーの発着の時刻表が懐かしい。
小雨の中、船は岡山県の犬島へ向かう。
1時間半で犬島港に到着。少し晴れ間が見えてきた。
この辺りの島はどうやら岩の島みたいだ。そういえば父の墓石も岡山県産であった。薄いピンク色が似ている。
犬島製錬所美術館へ向かう。
美術館の内部は撮影できない。まあ、ここは良くも悪くもこの自然のおかげで成り立ってる様な美術館だった。環境が美しいから展示内容も許されてる様なところがある。
美術館を出て近くの家プロジェクトのひとつに入る。リノベーションされた建物の焼き杉の意匠が美しい。建物がひとつのアート。よって作品も違って見える。(建築:妹島和世氏、作品:名和晃平氏)
バラバラに見学を終えたツアーメンバーが港に集まり、また船に乗り込み豊島へ向かう。
様々な島影を経て、20分で豊島家浦港に到着。売店のお姉さん作のあみぐるみのフルーツがお出迎え。
横尾館への道ばたにはオリーブ畑。沢山のオリーブがこぼれ落ちる様に実っている。
90年代の豊島産業廃棄物訴訟を知るものとしてはこのような自然の復活は感慨深い。その頃はアートの島として再生する事など考えも及ばなかった。中坊弁護士の存在が社会にとってどれほど力強いものだったか、今の人たちにわかるだろうか。
豊島横尾館。
会場を出ると沢山の外国人のツアー客がやってくる。ツアーの人々って端から見てるとユーモラスに見える。平和を感じる。
会場そばの路地。
湾曲する道、土と瓦や石の塀。遠くから見てもその佇まいに猛烈な懐かしさを感じた。これも町や歴史が作ったアートのもたらす感慨だ。こころをざわつかせる、せつなくさせるような美しさというものが路地としてそこにあった。
逆側からも見る。
路地を出た所の店。散髪屋の看板はしっかり回転しながら営業中。
時間が来て海の見えるレストランへ。
姫路からやって来た女性ふたりと同席させてもらう。初対面でもアートを理解する女性は話が楽しい。
外国人のグループが沢山いる。なにせ今やここは日本の中で最も外国人が訪れたい場所になっているくらいだから時代は変わっている。
この後、今日のメイン会場の豊島美術館へ向かう。
この日は朝の天候など色々な要素がかさなり混雑も無くアートに向き合うにはいい条件だったようだ。
美術館へと回り込むアプローチの途中の絶景。風景を取り込んだ演出。建物は上部に穴のあいた古墳の内部に入って行く様な形の美術館。自然現象そのものであるような作品は静謐で美しい。言葉でそれを伝える事は難しい。あらゆる芸術はそうであるが、見た者が変わっていく事でしかそれは伝えられない。それはひとつの自然を体験した事と同じだからだ。(建築:西沢立衛氏、作品:内藤礼氏)
会場を出ると晴れた空。薄いブルーの光をたたえた瀬戸内の海が静かにその肢体を露にしながら横たわる。
バスで唐櫃(からと)港へ。そこから徒歩でボルタンスキーの心臓音の展示会場へ向かう。漁師町だろうか途中何匹もの猫に出会う。のんびりした雰囲気のよさそうな町だ。
集合時間の4時10分になり唐櫃港から姫路港へ向かう船に乗り込む。この帰りの船から見る風景に象徴されるように、このアートサイトは自然の持つ力が最大に生かされ、アートそのものの力を何倍にも助長する。そして、自然だけでは気づかない事をアートを介する事で気づかせる様な仕掛けだ。つまりここでの主役はアートではなくアートの様な自然の風景やそこにある町、歴史や人々なのだとも言える。これらの環境に開発による人の手が入りすぎず、急激な自然の変化にも脅かされずにこれからもゆったりとしたものとして存続し続けられることを祈る。
瀬戸内の穏やかな海と島々は、夢のように私たちの傍らにある。
お土産はオリーブオイルを使ったレモンカードとひやしあめ。黄色って瀬戸内に合うなぁ。
一泊旅行で大阪へ。
大阪で宿を取って泊まるのも珍しい。
朝から晩まで目一杯、帰宅時間を気にせず沢山のものに触れた。
木曜昼:大阪駅のTOHO Cinemasで「真実」(是枝裕和監督)
木曜夜:ZEPP Osakaでマリーザ・モンチのライブ
その後、環状線福島駅近くの「花くじら」でおでんを食べ、「ゲストハウス由苑」という古い料亭を改装した宿に泊まる
金曜朝:シネリーブル神戸で「帰れない二人」(ジャ・ジャンクー監督)
金曜午後:同じ劇場で「ある船頭の話」(オダギリ・ジョー監督)
映画&映画館、コンサート、食事、宿、それぞれが個性豊かで刺激を受ける。全てが創意工夫に溢れていて気持ちいい。そこで出会った人、友人、造形物、味、音、町、全てが祝祭であった。フランス、ブラジル、中国、日本……。感性から入る人生勉強、社会勉強。
コンサートの様子や映画の写真は無くて、おでん屋の外観と宿の写真しか撮っていないが、大阪的刺激の一端が伝わるだろうか?
Y字路にある建物の1階の中に屋台の様な形の店がある。
隣りは福島天満宮。今回の水害の無事を祈る。
今宵の宿のエントランスはしごく普通でうっかり通り過ぎてしまう。
レトロ・モダン。とても清潔な共同洗面所。
2段ベッドに3人分の敷き布団も付属。5人部屋か?梯子がいい。
磨き上げられた古い茶箪笥。古いものに光を当てる。
端材を使った意匠。手作り感溢れる1階のカフェ。寝起きの外国人の旅行者が次々と入ってくる。
早朝、淡路島を発ち午後には南信州・売木(うるぎ)村へ入る。
名古屋からだと電車、バスを乗り継ぎ約4時間。乗り継ぎの悪いローカル線の真髄のようなダイヤグラムだから、普通は車で行く場所のようだ。しかし、この路線は天龍川に沿って山を登る昔の山岳鉄道の趣があり、産業の歴史を想起させながら過去に向かって走る様な不思議な感慨をもたらす電車であった。その中にあって、運転手と車掌のふたりで運行する2両連結列車の雰囲気はとてもいい。30代半ばと思われる若いふたり組の青年が乗客に声をかけながら電車を運行させる姿は都会にはない清々しいものであった。
売木村には義弟が改築した古民家がある(売木ハウス)。古民家を解体し、その材料を使いながら新しく設計した家。自然に溶け込むような家の姿が好ましい。
家のまわりにはコスモスが雑草のように咲き乱れる。四方を山に囲まれた標高800mの高地だ。
建物は沢山の古い柱が見えるしきり壁があまり無い構造で、一階と一部分の屋根裏部屋からなる。質感の異なる木だけに留まらず、ポリカーボネートの波板なども使い表情豊かな内外装になっている。
気持ちのいい穏やかな秋風が家中を吹き抜けていた。
コスモスの道を上りこまどりの湯という温泉へ向かう坂の途中に「うるぎ国際センター」がある。
「うるぎ国際センター」
ここは地域おこし協力隊の一員として名古屋からやって来たベルギー人のアレックスさんが開設し、様々な試みの途上にある施設だ。売木村の良さを、国内外に向けて発信しようとしている。地域おこし協力隊として外国人のメンバーのいる県が他にもあるのだろうか?これはもうすでに多民族国家たる日本の最先端だ。
改修した古民家をゆっくりと見せてもらった。今の状況などを話してもらいつつ、あーだこーだこちらからも気づいたことを話す。こんな風に設立者が頑張ってると、やがては沢山の人が集まる場所になるかも知れない。先にこんな立派な看板を作っちゃうのもいい方法だ。周りの人々を上手に巻き込み頑張ってほしい。
こちらの売木ハウスがいい佇まいをしているもうひとつの理由は、サーシャという猫がいること。猫が空間に温かさを与え、ここでの穏やかな生活を義母にもたらしている。
ここには二泊させてもらい、帰りは天竜川を北上し飯田からのバスで新宿へ向かった(4時間)。
数日の間、山と木々に囲まれていたことが、夏に疲れた体に何かの影響をもたらしただろう。
ここ1年の宿題、修復中の店の雨漏り問題が解決に向け大きく前進。
低気圧が発達し暑さがぶり返したのこの暑い中、近所の川村守さんが今朝来てくれて修繕が一気に進んだ。
トーハチ薬局2階の中庭の外壁。
川村さんは大きな脚立3つに足場の板4~5枚、電動工具や様々なプロ機材をさりげなく持って来てくれる。
だから私は一心に作業に集中し、自分の歳が一気に20くらい若くなった気がした。
下の写真は8月30~31日の作業。
これは洲本市由良の何でも屋、内谷勝己さんディレクションで店の正面ファサードの雨漏りが止まった日の様子。
瓦屋根の下にある腐食したトタン波板の修復。雨樋の上に慎重に位置を探りながら新しい雨よけを設置。その前に雨樋に長年蓄積したどろを丁寧に取り除いた。
この作業は、建物自体の認識を新たにする機会になった。これまで壁の裏に隠されていたしっかりとした骨格。100年に近いであろう堅固な木に昔の日本建築の豊かさを見た。こんな所でこのような日本建築に出会うとは思ってもみなかった。この建築を大切にしたい。
ここに来ての内谷プロの登場は嬉しい。内谷さんは写真を使った作品を作っている作家でもある。
進行統括(スーパーバイザー?)の川村さんはこれらの写真も撮影しながら次の事を考えている。こんなおじさんが住むこの町内。短歌を嗜み、毎日を忙しく過ごしながら家族や友人や近所の事を考えているおじさん。
このあとは東側の屋根の修繕&外壁の塗装・補強に進めるだろうか。既にもうペンキは購入。うすピンクの大きな外壁ができる予定。きれいになった壁に楽しい絵が描けるといい。その後、内装に移る。
そしてアトリエ&カフェの最も大事なソフト面、アトリエで扱いたい淡路の歴代の作家たちのコネクションは中学からの友人T女子(淡路市の農業普及員の方)が動いてくれて何人かのアポが取れてきた。
「よりあいそとまちSUMOTO」の施工&実地部隊のプロ集団がじわりと動き出した。
店の改造の最中、沢山出てきた段ボールなどを結わえて自転車の前と後ろに微妙なバランスで乗せられるだけ乗っけて(インドやタイの人の心理がわかる)近くのリサイクルセンターへ届ける。今日何往復もした道中の空が刻々と変化し美しい。
淡路島のいい所は空が広く、毎日その移り変わる空を楽しめる所だ。どこへ行っても視界の70%は空なので、毎日その影響を受ける。
今日は海まで行く時間が無かったが、街中で見ていてもこれまで悪いものを見てきた目を更新する様な美しさだった。
私自身この季節の洲本の空の美しさを初めて認識しているのかも知れない。何にせよ、いくつになろうと初めての事はどきどきして喜ばしい。十分に感じ、楽しみ、体ごと味わう。
幼い時代に無意識ながらこんな空間が体験のベースになったことがどんなに豊かな事か。毎日そのように思いながらこの世界の中にいる。
なんという青、なんという白。その豊かさに時間感覚を失う。
壮大な空のドラマを見終わりその余韻の中、夕飯を作る。
近頃は肉体労働の毎日だからか、ガテン系の夕飯になる。
買ってあったハマチをムニエルにして、娘が送ってくれた北海道の新ジャガ三種(インカのめざめ、レッドムーン、キタアカリ)を添えて。
冷奴にキュウリとワカメの酢の物。
パプリカの入ったキーマカレー。
ビールが飲めるように体調は復活。
母はカレーまでは行かなかったがその他は全て食べた。夏バテも無く元気だ。
今年の夏は色々な集まりがあり、その都度のごちそうで体調を崩す事が何度かあった。
寝込むわけではなく、内蔵の疲れが出て、ビールなどが飲めなくなる。ごちそうも程々にせよということか。日常的には外食は控え、粗食につとめているが、ついついこうなってしまう。
そもそも出される量が多すぎる。これから対処法を考える。
お目出度たいと飲んでしまうのが人情だが(楽しいからね)、あとでちょっと苦しんだ。。
お目出たさを、体と相談する。そんな年代になってきたようだ。
そんな苦痛も癒え、夏が終盤を迎えるのに合わせたかのように実家店舗のアトリエ&カフェへの改造が本格的になってきた。
この金曜日、土曜日で新しい一歩を踏み出した感がある。
よりあいそとまちの仲間のおじさんたちの手助けがあり、2階の雨漏りの修復が進んだ。
自分たちで天井を引っぱがし(体中砂まみれになった)これまで見た事の無い様な家全体の骨格(かなりいい木を使ってる)や、私が身籠られたと思われる実家の場所(昔この辺りに両親のベッドルームがあった)との邂逅があった。1階の店舗部分だけではなく、2階もきれいになるとどんなにいいだろうかと思いを馳せ始める。新しい課題発生だ。
この絵は、私が幼い時からここにある。神棚も整えよう。
大量に廃棄物が出た。これ以外の沢山の古い段ボールはリサイクルセンターへ運んだ。昔の薬や化粧品の段ボールはとてもしっかりしている。
それにしても今年の8月はお盆まで雨が無く、太陽の熱に焼かれていた。そんな日常の中、家族が東京から来た時に由良の生石公園から見た紀伊水道から太平洋にかけての海が雄大で美しかった。遠くに大きな貨物船が見えて。ちょうど岬の様な所にいたから視界が180度以上あった。そしてその夕方、日没直後の海はまだ明るく夕焼けが映り込み、その色の海を全身で感じながら泳いだ30分の穏やかな遊泳はこの世のものとは思えない幸福感に包まれた。
今日の雨。夕立のような夏の雨が懐かしかった。
携帯で撮ったこの写真ではわかりづらいが、道や海に落ちる雨はいいものだ。
おとといあたりから空の色が変わってきた。風景が藍色を帯び始めた。もう季節は秋へ向かっているんだろう。
目にする色、全てが懐かしく感じ始める。秋へじわりと傾き始める。
ブラジル大使館での展覧会は沢山の人と出会い、再会し、様々な興味深い体験をした。
来ていただいた方々にも、それぞれの生活がありその中での歓びがあり悩みがあり・・。そんなことが絵を前にすると会話にすっと出てくる。それは日常ではなかなか話しづらかったりすること。そんな事がこの空間で頻繁に出てきたのにとても驚いた。
ギャラリーという空間が生み出すものがある。日常から少し離れ、別の時間の中に身を置く事で見えて来る事、見えなくなる事。そんなものがこの2週間の間に現れてきた。こんな空間を常設で作り出せるとどんなに楽しいだろうか。
そしてこのブラジル大使館がある外苑前ならではのこともあった。
このあたりは20代から30代にかけてよく遊んだ場所だ。
on sundays(Watarium)やShelfなどの洋書店がありグランピエがある。以前はタンタンショップもあった。今改装中のBell Commonsにも洋書店が入っていた。レナウン・ミラノ、そして神宮球場。沢山の都会の遊び場。今歩くと、背広の人間は少なく自由業の街の雰囲気があり、閉塞的な最近の都市部の雰囲気とは違う。
ギャラリーが夕方閉館し、昔よく行ったCODという店で、遠方から来てくれた親戚や友人と飲んでいた。ちょうどその時、このカウンターバーで小さな絵画展をやっている女性をお祝いするグループがいた。外国人ばかり10人くらい。話すと絵を展示しているアンドレアはボリビア人。友人のヤスミンはレバノン、その他にカナダなど様々な国から来た若者だった。何人かはこの場所の近所にある隈研吾氏の事務所で働いている。とても穏やかで気さくで魅力的な集団だ。自国の事情もあったりいくつかの理由で日本に来ている。そんな彼らと話していると自分の若かった頃を思い出す。彼らは翌日(オフィスの昼休みらしき時間に)ちゃんと約束通り私の展覧会に来てノートにメッセージも残して帰った。広い世界とつながっている事を感じさせるこんな出会いがあることもこの場所の大きな魅力だ。そして彼らは日本というものをわれわれ日本人に相対化して見せてくれる。生活の大切さ、陳腐さ、かけがえのなさ、ユニークさ・・・。
これから外国人との関係がもっともっと大事な事になってくる。
私が学生時代からいた環境には多くの外国人がいた。彼らとのコミュニケーションは知らない事の連続で驚く事が多かった。しかしそれを越えた先の世界はとても素敵なものだ。そんな関係がこれからもっと普通のことになり、そのことでの豊かさも生み出すだろう。そんな時代のリアルな風がこの街の日常に普通に吹いている。
また別の日にはずっと会えなかった友人との再会があった。
彼とは最初バルセロナで会い、その後彼の個展などで何度か再会をしたがその後15年近く会ってなかった。妻が昔のメールアドレスを探し出してくれて彼と連絡が取れ、会場で会えたのだ。これもこんな場所で展覧会をやった事のマジックなのだろうか。閉館間際でばたばたと話し、CODで少し飲みその後お互いの予定の場所へ向かった。彼は東京藝大の彫刻科の出身だ。そして今は柏で美術学校を経営している。
「柏美術学院」
それも驚きだったが話しているうちにとても興味深い所に話が進む。
美術学校として、藝大などに毎年生徒を送り込むようなしっかりとしたカリキュラムを持っている。その一方で子供やお年寄りにも講座を開き、地域に溶け込んでいる感じが伝わってくる。
別れ際に出た話が興味深かった。不登校の生徒が結構来てるという。これは美術学校としての機能をすごく生かしていると私は思う。目的を持ち、進学を目指している子供はいいが、目標が漠然としている子供たちも沢山いる。理系も文系も何となく違和感のある生徒はいるのだ。そんな子たちの受け皿になる事。これは美術や音楽学校の大事な機能で、もっとこのような学校やシステムができるといいと思う。彼は自然にそういう事に携わっいる。私が頭の中でイメージしている事を彼がすでにやっていると聞きとても嬉しかった。
これは30年前の彼、寺前君。バルセロナのモンジュイックの丘だったか、他の場所の遊園地だったか。彼はその時と変わらない姿を見せてくれた。
こんな風な出会いがあるのはここがコスモポリスだからだ。
淡路島に1か月振りに戻り、片付けを再開。
沢山の古い物との対話がまた始まった。片付けるのは骨の折れる作業で、なかなか気が乗らない日も多い。片付けられる物の中にはこんな椅子のように現在の消費社会には無い様な物が沢山ある。
こういう物はきれいにして、改造したアトリエカフェで使っていく事になるだろう。全ての物をとにかく仕分けし、使える物は使い、ストックする物はきれいに整える。クリップなどそこら中にあるものを1カ所に集めるだけでも大変だ。古い紙類はホチキスを外し、束ねてリサイクルに出す。そんなアイテムが山ほどある。そんな作業をしながらもうすでに新しい物作り、場作りが始まっているのだろう。
先週の「よりあいそとまち」の集まりでは、アトリエについて話し合いの会をもってくれた(7月16日)。店にわいわいと人が集まるのはとても楽しい。このようにして店を自分事として考え始めている。それは生まれて初めての事だ。
そして近所の方はどっさりと野菜をくれる。
倉庫の方から片付けを始めて1年と少し。
溢れる物との対話、継続中。
2週間に渡る展覧会が終了した。5月の夢舞台での展覧会のまとめもできていないが、とりあえずの報告を。
6月17日(月)18:15~のレセプションには100名近い方が集まってくれた。ありがとう。
その時の会場の雰囲気を見て感じたのは、沢山の人が集まり、そこにある絵に人々の視線が向かっている事の感慨だった。
人が集まりそこにある絵を見つめる事で、その絵がある種の宗教画のような雰囲気さえ醸し出す、通常の空間とは全くの別世界がそこに現れた。
そんな光景を見た。
この時にこの場所に行ってやろうという気持ち。行きたいという気持ち。行かざろう得ない気持ち。そんなものが混じり混濁してこの場所でこんがらがっていた。
会の冒頭に私の理屈っぽい話も聞いていただき、その後ブラジルワインも少し出たのかな?ばたばたしていてそこはあまり見ていない。
私は今回の展覧会の核をどうするかというテーマ探しにまつわる話をした。
ちょうどこの展覧会のオファーをいただいたとき、私は淡路島にいてこの展覧会ならではの何かができないかと考えていた。東京にあるブラジルの中心地でやるのにふさわしい何か。
ある日、家の近所歩いて1分のところに表具屋さんがあるのに気づいた(椋本表具店Tel:0799-22-2038)。そのとき浮かんだのが3年くらい前に写真家の藤原新也氏のアトリエで見た貼り交ぜ屏風だった。様々な絵や書をコラージュのようにあしらった江戸時代のもの。そんなものが作れると楽しいだろうという思いが湧いた。様々な文化がミックスされ融合しているブラジルにふさわしいんじゃないか。そして今回のテーマに選んだ曲「時のつづく限り」は演奏に琴が使われていることも動機付けになった。
屏風をつくるなんていう発想は淡路にいなければ出てこない。それが自分でも新鮮でわくわくした。納期の問題があったが、無理を言って1か月で仕上げてもらい無事設置前日のブラジル大使館に送られてきたというわけだ。
映画「2001年宇宙の旅」のモノリスのように象徴としてそこに立っている。それがあることで空間全体に作用を及ぼすものができ上がった。これも本当に稀な体験だ。ブラジル大使館での個展という稀な体験に、屏風作りというもうひとつの稀な体験を合わせてより強力な体験にしようとした。
今回は大使館のipadに音楽を入れて設置していただけた。スマフォ経由での全曲の試聴と合わせて充実した音楽環境になった。またもうひとつやりたかったのは、全ての絵に日本語の訳詞を付けたことだ。2013年の個展の時には翻訳者たちの連絡先がわからず断念。今回はさすがブラジル大使館だけあり4人の翻訳家へ掲出の了承がすぐにとれた(亡くなっていたりして連絡がつかない方もいらっしゃったようだが)。絵と音楽と言葉のそれぞれが干渉しあったボリュームのある表現の展示になった。
このような場所で個展を開催できた事、ブラジル大使館文化担当のTúlio Andradeさん、磯村裕子さんに心からObrigado!音楽のセットアップをしてくれた内藤さん、受付でいつもお世話になった杉野さんにもMuito obrigado!
ブラジル大使館での個展の準備中だが、所用があり週末に2泊2.5日で淡路に戻った。
あっという間の滞在は写真に撮ってなければ無かった事のようだ。
棚田に水が入り、ニラの生け花は満開。
アメンボの繁殖、野のランと野良猫たち。
初夏。
いろいろな歓迎の仕方がある。
再来週からのブラジル大使館での個展に向けて急ピッチで準備を進めている。
作品の準備、会場のレイアウト、解説文、ポルトガル語への翻訳の依頼、外部の販売サイトの打ち合わせ、広報、ホームページ、会場での音楽の流し方、搬入の段取りなどやることは満載だ。
とにかく先週初めて会場を見せてもらった。
現在展示中の作品の中にジークレープリントをおいて展示方法を考える。文化担当のトゥリオ・アンドラデさんや磯村裕子さんと話していると彼らの日常は色々と大変な硬めの仕事だとは思うけれど、こちらに対して堅苦しい感じを出さないでいてくれるところがうれしい。政治的な組織の中でも柔らかい部分がある。出てきたいくつかの課題を持ち帰る。
打ち合わせが終わり大使館の近くのワタリウム美術館でジョン・ルーリー展を見る。
昔は彼の音楽や映画での自然な振る舞いに大いに共感した。1990年前後に青山のスパイラルのとあるパーティーですれ違った時はいっしょだったジム・ジャームッシュ共々、背がでかいなーという印象を受けた。
今の彼はがんとの闘病中らしく、その中で描いた絵が温かみに溢れていてとてもよい。体の状態のせいか、それとは逆に絵が饒舌で生命力にあふれている。自分にとっても年老いた時の参考になる。美術館もこんなに自然光が入ってたっけと思わせるくらい豊かな空間だった。
ギャラリーはゆったりしていて平日ならではの贅沢な時間だ。東京の大きな美術館はいつも大混雑でいやになるが、こういった場所の価値がこれからもっとあがってくるだろう。
しばらく来ていなかった外苑西通りを歩く。問題の新国立競技場のチェック。組織的にはもうどうしようもないんだろうがデザインが気になる。
最上部の壁面が内側に傾いている。設計者が威圧感を緩和しようとしている気持ちが伝わってきた。設計のエレガンスだな。隈さん。しかしこれから毎年膨大な維持管理費が発生し、財政を圧迫することに何も変わりはないだろう。
帰宅すると赤ピーマンが沢山あったのでカレーを作った。新ごぼうもたっぷりと入れて。
きょう梅雨入り。体調を整えて進めよう。
ゴールデンウィークから始まった「アワジ×ブラジル×アイビー/溢れる自然のモチーフ」という展覧会。
この場所でこの時期に開催という事で沢山の来場者があった。この施設を訪れる人たちの通過場所のようなところだが、何も予測しないで来た人たちも足を止め、アイビー作りのワークショップに大人も子どもも取り組んでくれた事がわたしにとってとても新鮮であった。開放的な場所柄、わきあいあいとノートに絵を描いたり、音楽を聴いたり来場者それぞれの楽しみ方をしてくれた。ベトナムや中国、アメリカからの観光客など国際色も豊かだ。
スマフォからQRコードを読み込めばブラジルの音楽画の元になった曲が聴ける。
展示会場の中でアイビーの木が日に日に成長していく。
ギャラリー入り口から臨む百段苑。階段を使って会期中何度か頂上へ登る。
大阪から連休中の午後にやって来た小学校から中1のブラスバンド部3人組。午前の練習が終ってしまうと時間をもてあましているので先生が連れてきたという。3人掛け合いで感想などを書いている。誰かが書いたら上から突っ込みを入れ書き加える。これはひとつの合奏だ。こんな少年を見るとうれしい。先生の生徒との距離感や関係性がいいんだ。音楽クラブの先生(中谷先生?)、楽しい時間ありがとうございました。律くん、ひろとくん、やすひろくん、ありがとう!
この会場の中で欲しい絵を書いてもらった。すごいスピード感。
お姉ちゃんが妹の作り方を真似て先に上手に仕上げてしまったから、妹は無言で自作を壊してしまった。姉妹の心理、葛藤中。
5月15日(水)には宝塚から大島ハルコさんがギターのカルロスさんといっしょに、演奏に駆けつけてくれた。
カルロスさんはジョアン・ジルベルトのギター奏法でこの展示作品のほとんどを弾けて歌ってしまうすごい方だった。ハルコもアドリブでそこに絡んで行く。ゲッツ&ジルベルトの再現。会場を音の波が駆け抜けた。
この施設では人出が多い季節に神戸や淡路の人たちがボランティアとして観光ガイドをしている。この会場でも来場者へガイドをしてくれてとてもいい雰囲気を作ってくれた。私にとって彼らは最初の鑑賞者でもあるので、いろんな感想を聞いたり記帳してもらったりもした。その内容がとても興味深い。
スタッフの北瀬悦子さん、山田友子さんありがとう。喜屋武くんは今頃どこを旅してるのだろうか?住む場所は決まったのだろうか?
展示の絵を見ながら入道雲モンスターを描いてくれた少年ふみゆきくん。この表情はどう見ても昔の私だ。
自然豊かな場所での楽しい時間が終った。
「アワジ×ブラジル×アイビー」
生活の中で色んな人に様々なものや好意などをあげたりもらったりする。仕事を離れ、そんなことを生活の中でやり取りする事でその事の持つ意味合が大きなものになってくる。いまの生活がそんなものの価値ややかけがえのなさに第一のプライオリティーを置く様な暮らしになってきた。そんな好意のやり取りの目には見えない偶然の道すじが近頃は手に取るようにわかってきたと思ったその最中に大先輩からプレゼントが届いた。
写真家の藤原新也氏がアトリエを引っ越すというので家財の大放出をやっていて、わたしも改装中の父の店のためにその中のひとつが欲しいと手を挙げた。大きなスピーカーや高級ソファなどは1万円など値段が付いていたのだが、私が手を挙げたオットマンは無料で送料のみ。これに当選したと連絡が来たと思ったら、もうさっき届いた。
↓これ。
豪快である。
アトリエを移転するので家財やプリンターを全てあげたりして処分し新しくする。それを藤原さんは伊勢神宮の式年遷宮になぞらえたりしているが・・・。人の好意はどこからやってくるかわからないものだ。
自分が動いているとそのような事が起こりやすくなるのか。
いろいろと考えさせられる今日だ。
嬉しいことに、わたしの個展に合わせて淡路を楽しもうと友人たちが週末に東京からやって来る。先週も一人来てくれた。彼女は神戸に宿泊し会場でゆっくりして楽しんで行ってくれた。今回は人数も多いので夜は外で食べようと考えているがうちに泊まった翌朝、朝食にマーマレードを食べてもらいたいと思い今日作った。
本命の鳴門オレンジがそろそろだが今年はまだ見ていない。だから先週妻が残していった生活クラブの無農薬レモンと1月から気になっていた姉の家の庭で穫れたダイダイで作った。
作ってみると色がとても美しい。レモンイエローとオレンジ色のビビッドな組み合わせ。文旦とダイダイを組み合わせた事はあるけれど、これは初めてだ。店では買えない味と色。強い酸味と甘みが混じった新しい味になっているだろう。明日の朝味見をしよう。朝が楽しみになるのがマーマレードのいいところだな。
ダイダイは時間が経っているので皮は薄くなってつかえないものがある。手前のものは大丈夫。しかし両方とも果汁はたっぷり保っている。ダイダイはすごいなぁ。
皮を時間差で湯がく。レモンの方が長時間。2台のターンテーブルを使うDJのような気分。真ん中は湯煎しているコーヒー。
明日まで待てない!
このタイトルが示すものは何か。自分にとってはとても自然なものだが初めて見る人は変なものだと思うだろう。
今回の展覧会は自分の身の周りにある大事なものを全部並べてみようという企画だ。ここ何年かつくり続けている「淡路島記憶景」「ブラジルの音楽画」「IVY きみはやがて歩き出すだろう」という3つのテーマの作品群。わたしが何気ない日常の中で感じたもの、そしてその時生まれた気持ちを作品化したものである。それらをまとめて見てもらおうというのが今回の展覧会の趣旨である。
「アワジ」は近年自分にとって大事なテーマになってきた。父が亡くなり、母だけが遺された家と自分との関係をどのようにしようかと考える。そして東京と淡路島を行き来するたびにその自然や古い町並みの価値に気付いていく。これは若い頃には気付かなかったもので、いまは裏山や川べりの道ばたにある特別なものではない小さな花にもその豊かさを感じられるようになってきた。これは自然を見る目が鍛えられてきたという事だと思う。
その場所にはかけがえのない人たちが沢山いて、いつも温かく私を迎えてくれる。そして記憶を辿りながら現実とは違うもうひとつの過去の世界をもここでは生きている。そんなものを絵にしてとどめていく。これからどのくらい描けるか、自分に期待したい。
「ブラジル」は毎日のように聴いている音楽のことである。
ブラジルには沢山の音楽が溢れている。そして地域ごとにその世界が異なる。そんな違いを持ったままに普通に巷に流通し、日本にまで届いている。その音楽体験は他の国の音楽とは全く違う構造を持っている。それは和声やリズムや人の音楽への関わり方など様々な側面において。だから知らない曲を知るたびに発見する事が沢山ある。他の国の音楽でもそれはあるが、その内容と頻度においては他に例を見ない。そんな音楽を聴いたとき、そのままにしておくのがもったいないと思い作り始めたのがブラジルの音楽画だ。流れていってしまう音楽を目の前で止めたいという思いから生まれた作品なのだ。会場では作品といっしょにその元になった曲も常時流す予定。
「アイビー」は部屋のリビングルームで日々成長している。それがあるだけでなぜか空間が息づいて来る。その小さな生物のエネルギーが部屋全体に影響してくる。こんなに機嫌良くそこに居続けてくれるものもあまりない。水だけで大きくなり、水を汚さずに穏やかに息づいている。色や形で見る者の目を楽しませる。とても穏やかに。このような生物は他に知らない。ふと気づくと可愛い新芽が出来ていてこちらを驚かせる。小さな世界があることを静かに伝える。剪定を兼ねてベランダのアイビーを整えていたことからこんな世界に気づかせてくれた。そんな小さなものたちの肖像写真を撮りたくなってできた作品群だ。
こんな風に3つの側面から自分の生活をさらけ出してみる。何も特別なものではない生活の中にあるものを作品化しアート化することで生まれる新しい感情があるだろうという思いなのだ。忙しい日常だからなかなか立ち止まれないものだが、こうやって生活の一瞬を結晶化させるようなことが時には必要なのではないだろうか。
また、3つの作品群が並ぶ事でこれまで知らなかったような新しい視覚や感覚が生まれて来る気がしてとても楽しみなのだ。
「アワジ×ブラジル×アイビー 溢れる自然のモチーフ」
山田宗宏グラフィックアート展
会社時代から色々と付き合ってくれる友人のO君が沢山のいい音楽CDを送ってくれる。本当にありがたい。ここ2〜3年でそろそろ200枚は越えている感じがする(もっとだろうか?)。私のフィールドから少し離れたものやかなり離れたものもあり、私の音楽の世界の広げてくれる。今回は私の中でもど真ん中の真打ちとも言えるトリバリスタスのライブ版2枚組を送ってくれた。
3月発売の新譜。聴いてみるとこのCD自体が感動ものなんだけれどライブDVDが出てないかなと思い検索していたら、ウェブ上にこのアルバムのライヴ映像が曲ごとに次々と出て来た。テイクもCDと同じようだ。こんな時代になったんだなぁと驚き、すこしさみしくもなり。しかしまあこの映像を見るとより一層このバンドのすごさがわかる。
楽器のアンサンブルや歌、ハーモニー全てがライブのクオリティを越えてスタジオ並みで、そこにライブの熱が加わっているのですごいことになっている。こんなに均整のとれた演奏をしているのがブラジルの広大なサッカースタジアムなのだ。
マリーザ・モンチはいつものソロと違いバンドメンバーとして振る舞っていて、よく見ているとマイクを2つ立てて、ひとつはコーラス用のリバーブにしてるようだ。CDで聴くとテープを使ってるのかと思ったが、映像で見ると素早くコーラスにうつったりしている(Youtubeの方に飛んで聴いていくと次々とこのライブの曲が続いていく。ライブの後半で3人はコートを脱いで衣装の雰囲気が変わっている)。彼女はとても落ち着いていて、冷静にしかし熱く音楽を作っていく。ライブにありがちな音程の狂いがない。だから一回聴いて雰囲気に浸ったら終わりのライブアルバムではなく、何度も聴きたくなるだろう。
カルリーニョス・ブラウンは想像もできないようなパーカッションの演奏で曲の表情をグラマラスにしている。アルナルド・アントゥネスは詩人として一人素人っぽくいい味を出している。とにかく全てこの3人が作った曲なのだ。
バンドみんなが歌っている。ハモりも即興で付ける。ブラジルなので観客も全曲歌ってる。バンドの楽しさがわかる。そして歌う事の楽しさが伝わって来る。クリップのラスト。3人のカーニバルの衣装の連続写真。胸が熱くなる。なぜなんだろう?
初めてマリーザ・モンチの曲を聴いた日の事をよく覚えている。その日は会社も早く引けて家へ向かう帰り道、有楽町にあったHMVのINZ店に立ち寄った。そこで彼女の新譜「グレートノイズ」を試聴した。CDのクレジットから考えると1996年の暮れから1997年の早春辺りだろうか。平日のがらんとした店内の通路脇だった。
1曲目のAPREPIOから2曲目のMAGAMALABARESへ。
ん、いままで聴いてきた音楽と何かが違うぞ?、という思いが湧く。この2曲はカルニーニョスの曲だ。このリズムは何だ?歌声。コーラス。フルート。アレンジ。パーカッション。バスクラリネットとバイオリンが入ってる?!・・・。
↓MAGAMALABARES
マガマラバーレス
アクア マラン
オシャーイエーの公園に
いた者は見たよ
新聞紙の船が
秘密の中で錨を降ろすのを
シャボンの泡の合間には
音符が浮かぶ
懐かしきセレナーデの音が
私たちが捧げる 決して枯れない花が
花瓶や水差しの中で 赤銅色となる
輝ける人生を見守る天使たち
書物に書かれていることなど 真実じゃない
神を心に抱く者は
この世で孤独となることがない
鐘の音が聞こえる (対訳:国安真奈)
マリーザ・モンチの歌は初めて聴いた時に、その歌い手が本当に幸せな気持ちで歌っている事がすぐに伝わって来た。これは後で色々と知る所があったのだが音楽ビジネスの成り立ち方にも大きな違いがあったのだと思う。つまりアメリカなど音楽産業が巨大なビジネスになっていくと、例えば3年契約でアルバムを2枚などとアーティストは命じられる。日本でもそう言う事は多々ある。音楽作りが窮屈だ。それでは自由なものは出てこない。しかしブラジルではそんなことではなく、売れるとか売れないとかよりも本質的に音楽を作っている部分がまだまだ大きいようにその音楽を聴いて感じる。そんなことがその曲を聴いて伝わって来たのだ。その衝撃がこの曲にあった。苦しみの中から生まれる曲よりも、幸せな生活から生まれる音楽を愛している。
マリーザ・モンチはその時から寸分の違いもなくまっすぐにその姿勢を貫いているように思える。成功に溺れず、いつも真摯な姿勢がかっこいい。あこがれの存在で居続けてくれる人はそれほど多くない。このすごく大きなスタジアムのコンサートにおいても当時と変わらず音楽に誠実で、自分のリビングルームで歌うように心から楽しそうに歌ってくれていることに感動する。
最近の学校でのいじめ問題をニュースで見聞きする度に、無力感にとらわれどうしようもない気持ちになっていた。みな同じ気持ちだろう。今朝の神戸新聞を読み、その訳がわかってきた。先生たちがいじめはなかったとさかんに主張する裏にある思想のことである。
2016年に神戸の垂水区で中学3年生の女性が自殺した問題について、今朝の新聞の記述にあった。学校側がいじめについてのメモを紛失したと言ったり、親が納得する様な話を一切してこなかった。そこで役割を負わされる第三者委員会というものが出て来る。これがまた機能しないという話だ。今度は再調査委というのが出て来て別の結論を示す。以下少し長くなるが神戸新聞からの引用。
(見出し)第三者委、遺族に寄り添えず/相次ぐ再調査いじめ認定
(本文)神戸市垂水区で中学3年の女子生徒が自殺した主因はいじめだった。市の再調査委員会が出した結論を受け、生徒の母親が疑問を投げ掛ける。「調査する人が変われば報告書の内容が違うのはなぜ」-。いじめと自殺の関係については、各地で第三者委員会の調査が行き詰まり、再調査が相次いでいる。この現状に、市再調査委員長の吉田圭吾・神戸大大学院教授(臨床心理学)は16日の会見で「第三者委員会は『第三者性』を誤解し、遺族に寄り添えていない」と断じた。
2013年のいじめ防止対策推進法の施行以降、同法が規定する重大事態の調査を巡り、各地の教育委員会は第三者委を設置。だが、事実解明を求める遺族側が納得できる調査結果が示せず、自治体の首長が実施を判断した再調査で相次ぎ詳細が判明している。15日にも、兵庫県多可町で小学5年の女児が自殺した問題で、「いじめが最大の要因」とする再調査の結果が発表されたばかり。
教育評論家の武田さち子さんの集計によると、全国のこどものいじめ自殺(未遂を含む)の再調査は同法施行以降、少なくとも11件。武田さんは「教育委員会が第三者委を選ぶ場合、委員が学校側の事情を忖度してしまい、再調査を求められることが多い」とし、調査組織に一定数の遺族推薦委員を入れるよう文部科学省に提言する。
神戸市垂水区の女子生徒の自殺では、第三者委の委員にいじめ対策を考える付属機関のメンバーが横滑りし、非公表で調査が始まった。当時の担当者は、神戸新聞社の取材に「調査を速やかに行うため」と説明。さらに生徒への聞き取りで、一部の市教委職員による代行もあった。
第三者委は遺族から再三、調査の情報を求められたが、報告書以外に積極的な情報提供はなかった。長田淳教育長は「メモの隠蔽問題に加え、第三者委には第三者性の担保や遺族の信頼もなかった」と悔やんだ。同法を巡っては、重大事態の調査手法を含め、超党派の国会議員で改正の議論が進む。京都精華大の住友剛教授(教育学)は「学校や教育委員会が事を荒立てないようにという姿勢で危機管理を進めることで、遺族に不信感が生まれる。そこを問い直す必要がある」と強調する。(井上 駿、太中麻美)
この記事から伝わって来ることは、教育者になる人たちはそういう教育を受けてきているということである。本質の解明よりも、事を荒立てないことが最重要という教育。事を荒立てない事で、問題がどんどん本質から離れて行く。その背景にはこういう「教育効果」が発揮されているわけなのだ。日本の教育制度によってこういった先生、ないしは教育委員会が生み出されるのだ。子どもの命より自分たち教育システムの保身。そして人の心に寄り添わない。戦後教育が成し得た教員養成のひとつの達成がこんなことなのだ。それにしても「第三者委員会は『第三者性』を誤解していた、というくだりは人としてひどすぎるとしか言えない。
私が会社勤めをしているとき、しばしば取引先との重要な会議があった。慌ただしく先方のオフィスに向かう途中いつも思ったのは、今日は大事な会議で自分がいなければ成り立たない会議であるが、いま目の前で老人が倒れたらその人を病院まで連れて行くのが最優先なんだぞ、という思いだった。それは緊張で熱くなってる頭を冷やすためのクールダウンの方法だったのかも知れないが、それはどんな時でも自分がやるべき最重要行為でもあるのだ。仕事よりも人を優先しなければいけないという考え。
また自分が受験生であるとすれば、受験会場へ向かう途中交通事故に出会ってしまい、誰かを助けなければならなくなる状況を考える。周りに人がいない場合自分が遅刻しても救急車が来るまではその場にいなければならないと考える。浪人することになってもしょうがない、自分にとっては大きな決断だ。しかし、それを通りかかった別の人が受験生を思いやって、仕事に遅れてもその役を負ってくれるのだ。それが本来の社会なのだ。そうやって社会はひとつの大きな生命体として安全に生きながらえて行く。こういったセキュリティが働かなくなると、それはこの大きな生命体の危機だ。
満開が過ぎた桜を追って遠い方の裏山(三熊山)へ登る。新緑が始まったばかりの山。
登る前の道にある神社のおみくじ猫。何度も鳴いて家に入れてもらっている。上品な猫だ。
登山口の海も鮮やかな色になってきた。
満開が過ぎた桜道。
この季節にここに来るのは40年振りだ。この辺りは桜も大事にされているようで大きな木がある。
手前の丘のもこもこの新緑。広重の「箱根」を思い出す。新緑といっしょになった桜は色彩が豊かに感じられ美しい。
桜と海の青。
ここに大きな木がある。戦前からあるような桜の木。とても風情がある。右のクスノキといっしょに大きくなった様な雰囲気だ。木の形が似ている。
様々な形と大きさの桜が美しい姿を見せてくれた。桜の花はその木の存在を年に一度くっきりと際立たせる。一斉に咲くことでそのことをとても印象深くする。そんな木も稀だ。そして、その花の咲く時期や、その期間のつかみ所の無さで気持ちの落ち着きを無くさせる。そのせいか冬から解放された魂が大胆になり力が湧いて来る。それが春という季節。春の息吹を全身に感じて、緑の色に照らされた道を下る。
下界に下り、さっきのおみくじ猫を探すがいないので猫と似た様なかたちの稲荷を撮影して帰途に着く。
洲本を離れていたのでこちらの桜に間に合わないかと心配したがちょうど絶好のタイミングで今日花々を見ることができた。
午前中に小高い裏山へと向かう。まず向かったのは去年植樹した小さな2本の桜の木。
花は終っていたが元気そうでよかった。老木を挟むように、これからはまかせてくれと言わんばかりに逞しく伸びている。
洲本には圧倒的な桜の銘木はなく、生活の中に普通にある木として桜が穏やかに咲いている。観光客に囲まれたりもせず、ひっそりといる感じが好ましい。この辺りの桜は新しく、植えてまだ2〜30年と聞く。古い木は自ずと朽ちていく。
お寺の方へ回るとまた違った風情だ。世俗的な百花繚乱。
その後、先日の川へ向かう。
花々の共演。そして新緑が始まる。
学生時代の友人たちと会っていると、定年になるので生活をどうするか、マンションを子どもにゆずってどこかアジアで暮らすか、などといろいろな楽しみでもあるが実際にやるとなると頭を悩ますようなことが会話に上る。実家をどうするか、片親だけ残った親の面倒をどうみていくのか。
みんながそれほど満足のいく生活を続けられるわけではない。それでも楽しみを見つけながらどこまで楽しく生きていけるかを考える様な年なのだ。満足とは人それぞれだから。そんな話になるのもこの年ならではのことなのでとりあえずその会話を楽しむ。
わたしの方は会社を辞め、フリーになってちょうど十年。タイミングよく大きな会場の個展の話があり、いま準備中だ。十年の総まとめ。新しい作品を含め、沢山の作品が会場に並ぶのを楽しみにしている自分がいる。他の誰よりも自分が最も楽しみだろう。
今回は「自然」をテーマに淡路記憶景、ブラジルの音楽画の諸作品に加えて新しいアイビーの写真や以前につくったドルフィンTシャツ、インドのバンダナなども販売する予定。新作のブラジル音楽のTシャツも作ってみよう。
生活の悩ましいこれからのことは放っておいて、冬の間に汚れてしまった網戸を洗い、マリーザ・モンチの「私のまわりの宇宙」を聴きながら春を迎えよう。ベランダのバラの新芽は暖かな日差しを浴びて伸びていき、やがてつぼみがふくらみ5月には花開くだろう。
「私のまわりの宇宙」Universo ao meu Redor(2006)
(Marisa monte/Arnarldo Autunes/Carlinhos Brown)
Tarde, já de manhã cedinho
Quando a nevoa toma conta da cidade
Quem pega no violão
Sou eu, sou eu
Pra cantar a novidade
Quantas lágrimas de orvalho na roseira
Todo mundo tem um canto de tristeza
Graças a Deus, um passarinho
Vem me acompanhar
Cantando bem baixinho
E eu já não me sinto só
Tão só, tão só
Com o universo ao meu redor
遅くなって もう夜が開けそうなとき
霧が街を支配しているとき
ギターを弾きだす者がいる
それはわたし わたし
新しい知らせを歌うために
バラ園には どれほどの夜露の涙
あらゆる人たちが 哀しみの小さな場所をもっている
神様のおかげで小鳥が一羽
わたしといっしょに来てくれる
とっても小さな声で歌いながら
そしてわたしは もうひとりぼっちだと感じない
あんなにひとりぼっちだったのに
まわりを宇宙に囲まれて
(訳:高場将美)
網戸洗いだけじゃなく、レモンの土がやせてきたので植え替えもする。このレモンは食べたレモンの種から育てたからずいぶん大きくなった。毎年おいしそうな新芽を食べに来るアゲハの幼虫を慎重に別の木に移動して葉を守る。そのうちに実ができ、マーマレードやレモンカードを作りたい。油かすなどもあげる。そしてハナミズキは芽吹き、ベランダの下にはサクラの満開。
3月30日に映画監督のアニエス・ヴァルダさんが亡くなった。年末に最新作の中で元気な姿を見ていたので残念な気持ちになると同時に、最後にいいものを残せた彼女は幸せだという思いにもなった。
遺作となった映画「顔たち、ところどころ(2017)」では、フランスの様々な町に住む人たちと語り合いながら、巨大なポートレート写真をアーティストのJRといっしょに撮影しその場に飾るっていくということを映画にしている。その行為が人々に対する敬意と思いやりを込めたオマージュ作品となるのだ。アートによって人々を勇気づける事が予想もしない形でここで行われている。
それ以前の映画でも、映画を撮りながら映画自体からはみ出して行く作品作りの自由さをアニエスは教えてくれた。だから映画のトーンはソフトでも、彼女の精神の強さが映画を通して強く語りかけて来るのだ。『アニエスの浜辺(2008)」「ジャック・ドゥミの少年期(1991)」「アニエス・ヴァルダによるジェーン・バーキン(1987)」「カンフーマスター(1987)」「9時から7時までのクレオ(1961)」・・・。それぞれの映画の語り口が彼女自身である。
彼女の訃報を聞いた時、自分の死ぬ季節は選べないがこのような季節に亡くなるのは何かとてもいいなぁと思ったのだった。
雨のち晴れたり曇ったりで春に突入した。
曇り空の中、イエロー&グレーの色合わせがシックに見える。
少し鮮やかになった緑がその和音をもっと響かせる。
賑やかに春が幕を開けた。町を春にして行く色彩。
2月は水仙がいたるところで咲き人に寄り添う。妖精のように、守護神のように。気がつけば傍らで水仙が咲いている。いつの間にか人の側で水仙が咲く街は冬の曇天でも陽だまりを感じる。
生死にまつわる事が身辺に急激に増えている。そういう歳になったのだと認識はしているが、生きて行く意味やこの世の成り立ちに自然と考えが及ぶようにならざるを得ないということだろう。やっとここまできた。青春時代からの課題の実践編がこれから始まる。
そんな事を考えるにはうってつけの小雪まじりの寒空だ。
冬の凍てつくようなこんな日にも、生きて美しく咲こうとする花があるんだね。
友人の突然の死を悼んで。
私が仕事を始めた時にはすでにもう活版印刷は使われていなかった。少部数で特色による印刷に樹脂版による凸版印刷がわずかに残っているくらいで、写植を使ったオフセットが基本的な印刷方法になってしまっていた。
近年、活版の名刺などがまた復活しているが、意外な所に大規模な活版印刷システムが残っている。
東京の大手印刷会社の博物館の中にきちんと残され、ワークショップなどで毎日のように使われているのだ。若い人たちも沢山参加している。
スクラップ&ビルドの典型のような東京の中で、大資本によって古い記憶の中にしか残っていないようなシステムが温存されている。
こうやって、誰かが残していかないと損なわれる物は沢山ある。
資本家がこのように記憶を伝承してくれるのはありがたいが、個人でできることもあるだろう。
上の写真のように活字を組む。文字の間や行間に様々なサイズの詰め物をして調整していく。刷ると下の写真のような仕上がり。
実際に見ると目の覚めるようなシャープな文字のエッジ。
手キン(手フート)と呼ばれる小型印刷機。丸い部分がスタンプ台のような役割をする。深海の甲殻類のようだ。
われわれの周りにある様々な今使われている技術は、昔のシステムを簡易にし使いやすく進化させた物がほとんどだ。そこが物事の起点になる子どもたちには、技術の元になった原型はわからない。いま我々が生きているのは、そういった時代だ。
だからこのような技術の原型のような物に、若い人たちが魅力を感じるのだろう。
注意していなければ
聴き過ごしてしまうような音楽。
小さな花のような音楽。
様々な食材を用意し作る料理ではなく
数少ない材料で丁寧につくったような。
さりげなく忘れがたい。
香り。
軽みのある深さ。
静かに魂をノックする。
どこか遠い国のメロディ。
見知らぬ国の風景。そこに住む人々について。
昔の古いおとぎ話。
諍いや慈しみ。懐かしい友だち。
人知れず道ばたの木陰にある。
部屋にその花をひっそりと飾るように、
その音楽に耳を傾ける。
華やかなものではないから心を満たす、心を温める。
そんな小さな花。
初詣で四国の薬王寺へ行ったご近所さんから立派な文旦をもらった。お寺の近くの老人が育ててるらしい。自分の山で穫れる親戚からもらってるものに比べると皮がきれいなのでちょっと考えたが、年寄りに取っては大変な労力が必要なのでおそらく農薬などはたいして使っていないと判断し、マーマレードにする事にした。
この寺は厄よけの寺として有名らしい(そのうち四国もまわりたい)。それに薬師如来像を祀っているのでうちの家業とも関連する。そういう意味で、縁起物として新年最初のマーマレード作りとなった。
何回も文旦で作っているので知ってはいたが、いただいたものはワタの厚みが特にすごい。もう少し置いて熟れると、実の部分が大きくなるのか。
牛脂のような、ウレタンのような。皮とワタを切り分けるとき、ボリュームある彫刻のようにカットされてゆく。不思議な造形物だ。マットな白のニュアンスがきれいだ。
皮とワタで1.3kg。ワタは生で食べてもおいしい。文旦好きで皮を捨ててる方は使い道を考えた方がいいかもしれない。
これだけのワタを持つ文旦は皮を食べないともったいないだろう。マーマレードにするのが一番理に適っているように思うが、地元では何かおかしに使ったりしているのか。そのうち調査に行った方がよさそうだ。昔の人の知恵を拝借。
黄色の色味も赤みが少なく穏やかで、文旦色とでも呼びたい色だ。
ワタを加えて煮詰める途中に実を入れる。
粘り気を調整しながら仕上げる。。
この後、文旦をいただいた方を含め近所のご夫人5名に配布。
お口に合っていれば幸いだ。
2018年は淡路島の一年を40数年振りに(!)通年で経験した。
毎月東京と淡路を行ったり来たりしているが、去年は洲本にいる時間の方が長くなったのだ。
だから季節ごとの花がどこで咲いているのかがわかってきた。四季折々の祭りや鳥の渡りの具合や昆虫、樹木、農作物の出回り方なども徐々に徐々に。
今の季節、鳶の飛行が見事だ。
写真ではうまく伝え切れないが、数十羽の鳶が上昇気流を使って遊ぶ姿は見ているだけで心が弾む。(鳶にも様々な種類がいるらしい)空を見るたび上空を仰ぎ見てその姿をずっと追う。洲本は視界の70%以上が空だと思う。(首が疲れる。)
羽ばたかず、凧のように風を受け上がったり下がったり(ぐるぐる螺旋を描きながら)。上昇気流を利用して天空へ駆け上がり、猛スピードで滑り降りてくる(滑空)。
風と戯れ、遊ぶ(これは遊びだろうか?)。そのスピードや移動、運動(透明の山でのアルペンスキー?)。
ものすごくかっこいいのだ。
この鳥たちの下には川と大きなイオンモールや体育館などがあり、駐車場のあたりに鳶が急降下して来たりもする。だから町中でこの光景が繰り広げられている。
とにかく空が賑やかだ。さっきも窓の向こう20mのところのアンテナに一羽の鳶がとまっていた。そしてこちらに向かって悠然と羽ばたき、わが家を越えて立ち去って行った(大きく、 ゆったりと羽ばたく鳶はスローモーションに見える)。
そんな鳶の姿を心に。
あまり無茶な事はできないが。
この歳ならではの成熟やインスピレーションや気持ちの大らかさを持って新年度を始めよう。
見ているだけで気持ちがいいなんて、言われてみたいものだね😉😆😭😃😻♬♪♫🎶♩😊😊😊🙉🍏😍😍😍。
かなり古い写真集だが今年出会った本として選択した。
アンドレ・ケルテスは19世紀末にハンガリーに生まれパリで名を成し、晩年をニューヨークで過ごし90年の生を生きた20世紀を代表するような写真家である。
彼が生涯に渡り訪れた沢山の町の風景。
これらの写真を見ていると今自分がこの世界にいて生活している事が不思議な感じがする。何か別の星の風景を見ているような気がするのだ。
ふとしたきっかけで注文しイギリスから届いた。もともとはニューヨークの出版社からの発行。おそらく初版はきちんとした写真集だったのだろうがこれは薄いペーパーバックだ。
ぺらぺらで印刷もよくない。そんな様々なことが影響してこの写真の印象を形作る。
平凡な風景。何の作為も感じられない感情を排したように思われる写真だ。見て行くとそれが不思議なものに見えて来る。別の星の風景を見ているような気がするということは、自分が別の星にすんでいる事になる。これらの写真は、この世界に暮らす不思議さを想起させるのだ。
おそらく彼は遠くハンガリーを後にしてから、自分が未知の場所にいる事を意識しながらシャッターを押したのだろう。望郷の念や家族、懐かしい風景、懐かしい香りや友人たち、思い出。恋や愛。大切なもの、なくしたもの。そんなものがこの写真に写っているように感じる。それが見る者の心を何故か動かしてしまうのだろう。
彼が訪れた土地のリスト。その名前を見るだけでも旅に出たくなる。それは、懐かしい地球の風景と出会う旅になるだろうか。
年末の大掃除に加えて実家の店の片付けが続いている。
大量のゴミを捨てたりリサイクルに出したりしているが、掃き掃除の時のちりとりが足りなくて探していた。田舎の方が意外にプラスチック製品が多くなかなか気に入った物がない。
今使ってるのはこれ。↓
開け閉めのたびにガチャガチャと鉄の音がうるさい。掃除をするたびにこの音が気になる。同じ理由でキャスター付きのバッグも持たない。なるべくリュックで行く。音が気になるのだ。
ホームセンターなどで探してもないので家の前の金物屋(プロショップ)で聞いてみると理想的なのが出て来た。昔ながらのとたん。このゆったりとしたサイズや色彩、その雰囲気はちりとりのロールスロイスとでも呼ぼうか。アームの伸びとその空間も商品の一部だ。
美しい。
そして実用的である。まさに様の美。
生活が楽しくなる道具がまたひとつ。
国産。姫路で作ってるようだ。尾上製作所。
空間も含めた値段、680円也。
大きい割に、空間の値段が安いんだなきっと。
今年もこのバラで最後になる。
あまり花にはかまえない年だったが、
こうやって美しい姿を12月にも見せてくれた。
紅、茜、猩猩緋、朱・・。
春夏には炎のように見えた様々な赤も、
この季節には穏やかに見える。
友人の松林くんがレモンを持て余していて、あげるというので彼の家へもらいに行った。
そのレモンは理想の土地に育っていた。
レモンの木の前は南に向かって大きく土地が開けており、一日中陽が当たる。毎年、さんまを食べる日にだけ採り、あとは放っておくが根元に牛糞堆肥をあげている。もちろん無農薬・無防カビ剤。だから実が大きく充実している。
これは理想郷以外の何ものでもない。
柚子、シークアーサー、金柑もいっしょにいただく。
昔スペインを旅したとき、普通の家の庭になっているレモンを見てその南国の風情に憧れたものだがその生活がここにある。
土地が明るいのだ。
彼の自宅の書斎には釣り上げた魚のカラー魚拓がある。見事な大物ばかりで、しかも美しい。彼はここで釣りに関する蔵書を釣り文庫として解放している。彼は釣り博士でもあるのだ。釣りに関する本といってもハウツーものではなく、非常に文化・文学の香り高い物ばかりだ。イギリス・ルネサンス期の釣魚大全から、ヘミングウェイ、釣りきち三平まで4,000冊。
この日は書斎に置いてあるいくつかの上物のリールについて教えてもらった。高級な自転車やカメラとも共通点が多い。こんな話をしているとあっという間に時間が過ぎてしまう。
釣り博士といると珍しい事が起こる。
この日、自宅に迎えに来てくれて車に乗り込もうとした時、前の川に何かがいるので川岸に降りてみた。エイだ。こんな場所ではじめて見た。こどもたちが小魚を掬っている場所だ。傷ついてるのか。河口に近く汽水域なので上がって来たのだ。珍しいことだが、釣り博士といるとこんなことが起こる。
いただいたレモンで作るマーマレードにはバーミックスを使ってみた。
レモンの皮は硬く、煮ても文旦やナルトオレンジほど柔らかくならずごつごつと歯に当たるので。
バーミックを使うのでいつものように細かくはせず乱切りに。
この後、お湯から上げバーミックスである程度のクリーム状にし、砂糖、ジュース、実となじませ好きな堅さ(柔らかさ)まで煮詰める。
この黄色が平和であることを伝えている。
皮の酸味、苦みと砂糖の甘み。
そこに実とジュースのフレッシュな味わいが加わる。
朝をスタートさせる原動力。
淡路島釣り文庫の記事(朝日新聞)
記事に添付されている本の写真だけ見ても楽しい。
きのう洲本市の曲田山(まがたやま)で2本のサクラを植樹した。洲浜中学校の3年次のクラスの同窓生で。
事の起こりは8月に開催した初めてのクラスでの同窓会で谷勝之くんの提案でみんなで植樹をするという意志を共有した。かつてのサクラの名所のサクラの窮状をみなが憂いている。おそらく市には予算がなく、またこの状況に目をつむっていることに対して。まず我々が行動する事で、後に続きこのようなことをやりたい人が現れてほしいという目論見もある。どんどんこの輪を広げたい。そんな思いがこのプロジェクトのモチベーションになった。
そこから実行に向け市と様々なやり取りをしこの日を迎えた。事前に記念のプレートを作りマークとなる旗を作り、楽しくなるよう様々な準備をした。
結果的に、とてもにいい会になった。この日のみんなの表情がそれを物語っていた。
弱って行く木々の間に若い木が植えられていく事。そしてその光景を見る事は、希望を見る事だ。植えられた若い木が、新しい未来を示唆する。新しく植えられた木を見る時、人の心にはそういった躍動する気持ちが沸いてくる。そんな事が、知らず知らずの内にみんなの気持ちを高めたのだろうか。
思えばこのクラスでは中学時代の年に二回の球技大会や運動会のリレー、音楽会などその都度の学校行事をいつも真剣に練習し勝ち取った楽しい経験が沢山ある。濃密な時間を過ごして来た。そのことを今回思い出した。なんでこんなに一生懸命にやるの、と思うくらい早朝練習に、夜間練習・・。今になってみるとそれは不思議な情熱。
これは人生の時のデザイン。みんなでデザインした場である。
今後さらなる植樹はどうしようか。来春からはこの幼木のケアが始まる。水やりが必要になる。殺虫剤はどうしよう。いろいろ考えなけばならないことは多い。それがこの同窓会のつねに考えるテーマになるだろう。そしてこういった事をやっていくことで、遠くに住んでいてもこのサクラの事がいつも気になって来る。この山の夜の闇の中に立っているこの木の事に想いが及ぶ。町で見る様々なサクラのことも観察するようになる。いままで見えなかった事へ新しい視界が広がる。世界の成り立ちを知る新たな一歩になる。
「曲田山・サクラ再生植樹プロジェクト」
連絡窓口:実行委員長 谷 勝之
Tel:090-8688-1643(土日は終日、平日は夜19:00〜22:00)
Mail : free-katsuyuki613@i.softbank.jp
例えばふるさと納税で「曲田山のサクラ植樹に」など記入するなど色々と方法はあるように思う。もちろん我々の同窓会に協賛してくれてもうれしい。
また、植樹を自分たちのグループでしたい場合は場所を提供してもらうので、市への問い合わせが必要。今回我々の窓口になっていただいたのは市役所内に事務所がある淡路広域水道企業団:管理係長の石川慶彦さん Tel:0799-24-7620
神戸、朝日、産経新聞と淡路島ケーブルテレビが取材に来てくれた。
実行委員長・谷くんの挨拶。幹事長は西くん。
清のこのビートルで機材を運搬。
樹名板。
打ち上げのあと、名残惜しくもう一枚。
こういうお菓子はこのくらいの気楽さで売り、気持ちに導かれるままに何ということもなく買って食べた方がおいしい。
売り方も気取りがなく、こんな風に様々なサイズの耳付きのものをがさっと袋に詰めて売っている。うやうやしく箱に詰めて高い値段で売るようなものではなく、神社の縁日にいつもの場所にいるおっちゃんから世間話をしながら買い、歩きながら食べるとおいしい。
生姜漬もショウガをスライスし茹でたのを砂糖に絡めただけのようだが、とても上品なお菓子に感じる。それは気取りのない佇まいが上品なのだろう。いくら高級感溢れるようにつくったものでも、気取りが仇となって、下品なものは山ほどある。
最近聴いたこの曲のリズムが体から離れていかない。
こんなシンプルなメロディーとリズム。それが心地よく、何度でも聴きたくなる。
この独特の節回しやリズム感、タイム感。
言葉の音とメロディの関係性。エスニック。
不思議な曲の世界がどこか遠い場所へ魂を連れて行ってしまいそうだ。ヤエル・ナイムの曲はどれも胸の中に郷愁を連れてやって来る。
同じようなニュアンスの曲を思い出す。スチーブ・ライヒ「テヒリム」(1981)だ。これも曲の持つ姿が似てはいないか?
両曲の作者がイスラエルにルーツを持つことが関係するのか。イスラエル独特の節回しやリズムなんだろうか。
ライヒのWikipediaにはドイツ系ユダヤ人として、自分のルーツを求めヘブライ語聖書の伝統的な詠唱法を学びこの曲を生み出した、という事が記されている。
その時代から遥か遠い今、この地は世界を左右に分ける紛争地。そこにルーツを持つ音楽が、この日本で聴く者の心をとらえる。芸術とはイデオロギーをやすやすと飛び越え、心に無垢な形で作用するというすごさを感じる。
グローバリズムから波及した相互不理解が国家間で強くなって来ているが人と人、人と文化の関係に置いてはどこまでもニュートラルに評価し、愛し、慈しむ気持ちを持ち続けたい。
次のこんな曲は全く別の世界観だが、やはり独特のリズムを秘めているように感じる。何語なんだろう。こんなラフな演奏でもじっくりと聴かせることができるのだ。
ひとつの民族的な曲は全ての民族に何かの記憶を思い起こさせる。彼女の音楽は独自のリズムを持った懐かしい言葉のようだ。
使っていた名詞の東京の住所に洲本の住所を加え改訂した。
今回は表面のクジラ・イルカたちを2匹ずつにした。今まさに出会い、向き合っている私と初対面の人との様子だ。
もともと裏面が7種類あり、表面のくじらやイルカも7種類くらいあった。これが色んな組み合わせの2匹ずつになったのでデザインのバリエーションがぐっと増えた(笑)。
様々な新しい出会いへ。
ひと月に渡る「淡路島記憶景」が終了。
淡路島のこの場所で多くの人と会えたことがとてもうれしい。人生においてそうあることではないだろう。
また新しい人との出会いと同時に、旧友との再会を貴重だと実感できる年齢になったことも大きな出来事だ。30年、40年、50年という年月を経て語り合えること。こういう交わりが人生に於けるもっとも大事なことだと感じた時間だった。
貴重な体験をさせてくれた松林くん、近江さん、鈴木さんに感謝。そして取材に駆けつけていただいたテレビ局、新聞社の方にもお礼申し上げます。
(いつもながら写真を撮り忘れた方が沢山いる。話しているとついうっかり忘れてしまうのだ・・)
東京から来た友人と大石可久也アート山美術館へ向かう。ここはウェスティンホテルのギャラリーからひとつ山向こうにある私設美術館。東京から友人が来るとよく案内する大好きな美術館なのである。この美術館では都市の基準では到底考えられないレベルの自由さを感じることが出来る。それは大石さん自身のことでもあり、またこの場所独特の力のことでもある。とにかく素晴らしい。
ウェスティンホテルを出て南の遊歩道に出ると案内板が次々現れる。
たいした距離ではないが、その間にこれだけある案内板の数に大石さんというアーティストの気持ちの温かさを感じる。
このイノシシ注意の柵を越え、小さな川を渡ると隣り山だ。
館内は手作りのもので満ちている。
何度来ても新しい刺激に満ちている。自然と一体になった建物やこのアート環境全体が素晴らしい。初めて来たこの季節。ホテイアオイの花が満開。
そして何と言ってもこの絶景。
この背の低いデッキチェアに座ると水平線がグッと上がり、視界に広がりが生まれた。
アートに加え、淡路産のレモネードで至福の時間を提供してくれた奥様と娘さん、スタッフの方と友人の大久保ちゃん。心が温まって笑顔。
今日は気温、天候すべてが申し分がない。自転車で個展会場へ向かう。8時に出発。どれだけの時間がかかるか。とりあえずスタート!
釣り人が溢れる埠頭を経て。
津名中学生は日曜日も部活で登校だ。
ドングリだらけの道。
右側はずっと海景。
淡路市に入ると花卉農家が増えてくる。
これは案山子かね。
1月に出荷するスイトピーらしい。まっすぐに伸ばしてる。
古くからのひなびた国道28号線沿線。昔から変わぬもの。
これが今日の愛車Maruishi Formation27インチ、内装6段変速。走りが力強い。腰を痛めてからサイクリング車には乗れなくなってしまった。
対向車線には「あわいち」と呼ぶ淡路島一周をする自転車がどんどんやってくる。
農家の人と話したり、写真を撮ってると2時間があっという間。会場に到着。きょうは先日結婚した姪の夫のお父さんとおばあちゃん、おばさま方が和歌山から来てくれた。わいわいと会場が団らんのお茶の間のように。この前、結婚式で初対面したのがうその様。楽しい親戚が増えた。
私の不在の間に訪れた方が残してくれた記憶の紙が嬉しい。意外なことを思い出させてくれたり、世界の見方を教えてくれたりする。
私の由良港の絵の中に母の友人の娘さんの家の船を描いてたらしい。こんなことって普通あり得ない。ここではある!
帰りは反対車線を海側へ入り、漁港に迷い込んだ。
昔からの堤防のすぐ側にある漁村。
魚を狙うトンビがいたるところに。
路地が沢山ある。路地は淡路島の魅力的な文化資源。
路地に布団を干してある。
漁師の家族の墓だろうか。海を見ている。
砂浜でカレイ釣りをしている。
漁港を過ぎ、佐野の埋め立て地へ入る。
和歌山県が淡路島にくっつきそうに見える場所。
28号線へ戻る。バイカーたちも走る。
とんびがうっかり落としたらしいタチウオが。
気持ちいい一日も無事終了!こんな風に通う個展も滅多にないだろう。おいしいものでも食べようか。
展覧会もそろそろ中盤。今回の展覧会では来場者が私の絵を見た時に思い出したその風景にまつわる記憶や、全く関係ない事でもかまわないので絵によって触発され心の中に蘇って来たような感情があれば、付箋に書いて絵の横に貼ってもらっている。これがとても面白い。普段なかなか会話としては話さない様なことが、このメモだと言えるのだ。行く度に増えていくこのメモのおかげで会場に行くのが楽しい。
その一方で、会場でのリアルな会話もいい。埼玉や横浜から来てくれた友人たちとはここで会う事の歓びを含め、日常的ではない初めての場所での一期一会の出会いのようなものを感じた。山口県の旅行者の方とは仕事で訪れた時の青海島の話をした。デンバーから来た女性はこの貼り紙の日本人みんなの字が美しいとつぶやいた(日本語が読めないのでカリグラフィとしてとらえている)。
友人はこんなきっかけでもなければ語らないようなことを書いてくれる。それは役に立たないことかもしれないが、そんなものがいい。そんなものが世界に沢山あってほしい。記憶に加えてこの貼り紙がコミュニケーションのきっかけになり、自然と会話が始まる。貼られた記憶のひとつひとつが個人的な思いに満ちているからこそ、お互いに近しいものを感じるのだろう。
今の自分を形成しているのは過去の記憶によるものかもしれない。幸せだった記憶や悲しみの記憶などさまざまなものが混じり合い、今の自分を作っている。記憶に向き合いまたそれを忘れ、新たな記憶が上書きされていく。そしてさらに時間が経てばもっと古い記憶が頭をもたげて来る。そんな不思議な姿をしている記憶というもの。今回の展示はそんな記憶への旅の時間かもしれない。
記憶のように我々が持っているものを使ってなにができるのか。新しいものを作るのではなく、既存のものをどう使っていくか。そんなことが今の時代精神を反映してるように思う。そういう意味では、新しい紙にこういう風に出力してアート作品と称していることは今後一考を要することかもしれない。そこがもっとうまくできれば、より大きな共感につながるように思う。そんなことを考えながら時に会場に向かう。みなさま、会期が終わる前にぜひ記憶の旅へ。コーヒーを飲みながら、ゆっくりして行ってくださいね。ギャラリー前のショップのコーヒーはとてもおいしいよ。
10月は淡路島で久しぶりの個展を開催する。2013年から少しずつ描きためてきた淡路島の風景画をウェブだけで公開していたものも含めて大小様々なサイズで展示し、ホテルのリビングルームのような一室を記憶の風景で染めてみようという企画である。
少し前から生まれた町のことが気持ちの中で大きくなり、沢山の記憶が醸成されてくるようになった。若い時には気にしていなかったようなことがじわじわと頭をもたげてきた。だれしもが多かれ少なかれそうなるだろう。そして、東京と淡路島を行ったり来たりしていると、生活者にはない流れ者の視線のようなものができてくる。そんな視線で見た映像が生まれてきた。多分生活者の視線とは違う。そこに住んでいる人にはあまりにも日常的で取り上げもしないような世界。それが郷愁を纏った記憶景となり長い年月を経て現れる。自分でも予想もしないような映像が生まれる。
またこんな記憶もある。小学校時代、春の通学路に猫の死骸がある。車にはねられた猫を初めて見た時の驚き、切なさ。また同じ頃、先生の家で祝い事があり訪ねて行ったが帰りは夕方で暗くなってしまい迷い泣きながら帰宅した日に初めて感じた夜の闇の怖さ。そして、かつては島外へ出る時は船しか手段がなかったから天候が荒れた日でも大揺れの船で出かけた。その時に感じる死への恐怖・・・。様々な死や恐れの気持ちを感じる体験を心のどこかで記憶している。これが人生に対するひとつの価値を作っていったのだと思う。そんな世界や自然に対する畏敬の念が知らず知らずに何気ない日常の絵の中に現れてくる。素朴で明るい絵の奥にそんな気持ちが隠されている。だから全ての絵が日常から見ると少し変なのだ。
多分美しいものは自分のまわりにいつもある。それに気付かずに過ごしているだけだ。気分や体調のいいときだけ、そんなものが見えたりする。でも実際はそれ以上に沢山の美しいものに囲まれて暮らしている。それに気付かずに死んでいくのか、気付きながら死んでいくのか。それもその人の視線だ。
そしてアントニオ・カルロス・ジョビンの「ジェット機のサンバ」という歌の記憶も入っている。この歌を聴いた時、自分の故郷リオデジャネイロのことをこんな風に賛美できるのって素直で素敵だなと思ったことがある。素直になるって難しい。しかしこんな風に自分の故郷のことをいつか歌えるといいなと思った。いま自分の描いた絵を見ていると、そんな曲が静かに聴こえてくる。
寒くなる前の追い込みで、ことしもアゲハの幼虫の遅めの一群がレモンの幼木で食事中。あまり食べ尽くされると困るのだけど、もう少し食べたら、食べ尽くす前にさなぎになってほしい。植物と昆虫の両方を愛しく思うとこういうことになる。
こんな芸術的な食べ方を見ると、そっとしておいてあげたいのだが・・・。
自分にとってのソウルフードは何かと考える。
様々な食事を食べ疲れたとき、体を整えようとしてよく食べる料理がある。意外にそれがソウルフードかなと思う。
小学生の時に最もよく食べていた一品、朝ごはんに。
その当時、商店街にある家の正面は蒲鉾屋さんだった。毎朝できたての練り物が仕上がって来る。そこで平天(うすいさつま揚げ)を買いに行く。多分タイやハモなど白身のいい素材だったのだろう、飽きもせずよく食べてたように記憶している。土曜などの昼食には朝買った平天をもう一度油で揚げ直して食べさせてもらった。朝のできたてのものより、外側の皮の部分が香ばしく揚がり、時に白身の部分から少しすきまが出来るようにぱりっと揚がっていたりする。それを1センチ幅に切ったものと、タマネギと卵を炒めたものを合体させる。最近はタマネギ卵と呼んでいる。しょう油たらり、塩少々の味付け。淡路のさくっとした張りのあるタマネギに外がぱりっとしていて中身が滑らかな平天。そこにスクランブルドエッグがからみついている。当時は食べる時にトンカツソースを少しかけていた。ベージュ系から黄色、茶色へ渡るシックな色合い。色添えのネギなどかけない。贅沢ではないが、大満足の一皿だ。
うちでこの一皿をよく作ってくれていたちづさんも去年亡くなってしまった。今は私が受け継ぎ、家族や母に食べさせている。ただ、薄目の滑らかでシンプルな平天が重要。洲本ではそれがまだ買える。
今年は久しぶりで夏バテ気味になってしまった。この料理のありがたみを感じた夏。
淡路島の尖端にある淡路ハイウェイオアシスに洲本の風景画の新作を掲示した。今回は由良港の風景。
由良港は赤ウニやハモ、シマアジやシラサエビなど世間では最高と言われるの淡路島屈指の魚の穫れる所だ。そんな魚以外にも普通のアジや、キス、アワビ、サザエなど日常の食材の宝庫でもある。
この港は朝、船が漁から帰って来ると鳥が乱舞する。後ろの突堤ではかもめたちが列をなして待機している。船が港に着岸する頃、売り物にならない魚を漁師が海に放り投げる。鳥たちはその新鮮な魚を待っているのだ。その時の情景を絵にした。無数の鳥たち。そして遠くに夏の大入道が立っている。大入道の姿は山下清の有名な貼り絵「清が見た夢」という絵からとった。
洲本の風景を描くとき、他の絵とは違って幼い頃の自分のことを投影しやすいせいか、思いもしないモチーフが現れ出る。この怪物も自然と現れた。過去の絵画の歴史へのトリビュート。これも淡路島のもつマジックかもしれない。そして夏そのもののマジックもかかっている。
こんな風景はまだ残ってはいるが、自然はいまやぎりぎりの状態だ。
海は特にマイクロプラスチックの問題が露呈して来たので、より早い対応が求められる。与那国島では砂浜に砂と同じくらいの粒のプラスチックがびっしりと混じってしまっていると聞く。我々にできることは、買い物時のプラスチックバッグ(ビニールの白い袋)を受け取らずにマイバッグを使う。ペットボトルは非常時以外に購入せず、なるべく水筒を使い自宅で沸かしたお茶を使う(保存料が入ってないからその方が断然おいしい!)。身の回りにプラスチック製品をなるべく入れずに、廃品として出す時はきちんとリサイクルする、埋める。このくらいしか出来る事はないが、自分の回りの家族や友人たち、商店や大規模店、メーカーにも影響を与え、少しづつでも広がって行くとその効果は大きいのではないか。自分が作る作品にもそのような素材をなるべく避けてゆく。他に出来る事があれば教えてほしい。
今年のように暑くても、水道水は冷たくうまい。海に入ると海水は冷たく塩辛い。そのことに我々は救われ日々感動する。
生き物は自然が作り出した精霊。それが危機に瀕すると世界は滅びる。私の真昼の白昼夢にはその精霊たちが美しい姿を見せてくれる。そんな姿を過去のものとせず、いまの風景として描き続けたい。
こんな風にだらだらとモールでアイスなどを食べたいではないか。そのためには健康な自然の状態を維持して行かないとそれもおぼつかなくなる。
夕刻の空の状態を見て海へ走る。
きのうは見事な雲のショーが見られた。
和歌山上空の巨大な入道雲がトップライトで照らされている。
空全体に散らばる雲の前を
南風に押し流された千切れ雲が横切る。
東を臨む空の夕刻。色彩とその無限の階調。
圧倒的な筆致と堂々たるスケール。
巨大なカンバスの絵を見た。
今日いただいたナルト漬け。
とてもモダンな味がする。
長い期間寝かさず、最近作ったものだろうか。コーヒーに合う。
サイズからなにから素敵だ。
小袋にひとつずつ入れて。
こういうものを普通に手渡すお年寄りがいる。
ナルト漬けという名前から、昔は漬け物だと思っていた。これはラングドシャの形をしたドライフルーツのようなものだ。苦みのある柑橘の味にグラニュー糖のコーティング。ウェストの小型のリーフパイのようでもある。今の時代にあっては、ナルト漬けという名前は適さないかもしれない。
今年はお盆前に中学のクラス会をやるよと、友人からお知らせが届いた。高校の学年全体の同窓会には何度か参加しているが、中学のクラス会は初めてだ。
懐かしく思い出深いクラス。
このクラスには物故者が2名いる。一人は担任の久保先生。
難しい年代の子どもたちだから、なかなか担任ともうまくやってはいけない。そして、生徒たちが卒業以降自分のことで精一杯な時代に久保先生は亡くなった。今になって「あの時先生は何歳だったのか?」などと考える。そんな話をしに行く会だ。当時の自分たちを肴に、わいわいと話が弾むのだ。
亡くなったもう一人は同級生の桶土井くんだ。
数年前、彼の葬儀には出席できた。ちょうど帰省していた時で、参列できて本当によかったと言う気持ちになった。
中学時代くらいまでの友達関係は子どもの感覚を引きずっているもので、身近な家族が亡くなったような気持ちになるのだ。
クラス会には彼の肖像画を持っていきたいと思っている。
中学の美術の時間に描いた彼の肖像画が残っている。あまり上手ではないがその当時の時間が込められているようで、見るたびに彼と自分自身に対する懐かしさと愛おしい気持ちが湧いて来る。
家にあるもので額装してみた。
先生の絵はないので描いた。
ご健在なら白髪になってるだろうと思い、髪は塗らずにおいた。
先生の写真を見ながら描いていると、当時の時間が蘇ってくる。
先生との対話のような時間が持てた。
みんなは何かを感じてくれるかな。
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2019年1月3日追記
久保先生はご存命だとわかった(12月26日)。それで年末で帰省していた加田くんを含めミーコ、アイボーと(各旧渾名)急遽会いに行った(12月29日)。
だれだ、亡くなってるって広めたのは。噂は恐ろしい。先生はご実家の農作業を続けられており、とても元気。先生ごめんなさい。こんどもう一度同窓会をしますね。
これだけ暑い日が続くと日常が非日常に感じる。災害のニュースも多く、新聞やテレビでもこの世とあの世がごった混ぜになっている。
テレビで人が死んだニュースがあると、なるべく手を合わせるようにしている。できない時には心の中で。
夏。死者と生者との距離が最も近づく時期でもある。
墓参りのあと、寺院の方にまわる。寺院はあの世とこの世が混じり合う空間という事が皮膚感覚として伝わる。そこにある花も、仏の姿も、あの世からこの世に姿を現したもの。
昔から人はこうして非日常空間に紛れ込んでいく事で、いま生きる世界を再認識し、寺院を出てこの世に戻って来たのだろう。
先週末から東京で様々な人に会った。
6月16日は写真家の藤原新也氏主催のウェブのフォトアワードの授賞式だった。私は銀賞を受賞。20分にも及ぶ講評をいただき、さらには彼のオリジナルプリントと書をもらった。
これは2011年の震災後に彼が立ち上げた有料ウェブ(月額1,000円の会費、会員数1,400名くらい。
Cat Walk)の催しもので、会員が集まり交流する。 この日は80~100人くらいが代官山の台湾料理店(「美味飲茶酒楼」という欧陽菲菲の妹さんが経営する店でとてもおいしい)に全国から会員が集まって来た。写真賞も毎年という訳ではなく、今回が3回目だ。そして写真に於けるレベルの高い話を容赦なくしてくれる。写真を撮る撮らないに関わらず彼のファンが集まってる訳でなかなか面白い。そんな中で大学時代から彼の写真を見て来た私も受賞の席に預かった。遠い過去の事を思い出しながら、不思議な気持ちでその場所にいた。人との出会いは思わぬ形で巡って来る。
父の死から四十九日までの心象風景を撮った25枚組みの写真を投稿したのだが、そこには「此の世」が写ってると評してくれた。父の目線から見た此の世の風景。花や町や山や人々。そういう風に参加者へ説いていく藤原さんの言説。撮り手よりも沢山の事がわかる。感じる。言葉にできるのだ。
Cat Walkのサイトにはその日の動画がアップされている。そこから拝借した一枚。
いただいたポルトガルの坂道の写真と、「メメント・モリ」からの言葉「水はバイブルである」。しっかりした紙に書かれた墨のにじみが美しい書。
そんな華やかな日の翌日はマンションのグリーンクラブの草取りの日。今回は8人の参加者が集まりわいわいと作業をする。これは3年前に立ち上げ、グリーンのなかったスペースに様々な四季の草木を植えた。そのとき植え込んだ草木が定着して、生き生きと茂り自然の歌を歌う。常連のマンションのメンバーは気の置けない仲間で、2時間気持ちよく汗をかき日常に戻っていく。
家では家族が再会し,友人が音楽を持って(沢山のCD)遊びに来た。ここでこんな風に過ごす時間がいまや貴重品になってしまった。
別の日、日比谷の町に出ると日比谷ミッドタウンというのができている。デパートのような体裁だが飲食店が多い。カフェやレストランと映画館。ここでも、ものを買うよりも人と人との集まりや出会いが主なテーマだろう。ショッピングモールも変わる。
翌週末には東京都美術館×東京藝術大学のとびらプロジェクトの集まり。上野はいつも人でいっぱいだ。
この混雑の中を通り過ぎ、今日は藝大の体育館でファシリテーターの青木将幸氏による「会議が変われば世界が変わる」のワークショップ。グループが何度も変わるのでこういったスペースの方が動きやすい。
このあと懇親会が藝大内の食堂であり、久しぶりに会う仲間との時間を過ごした。これも80~100名規模。
月曜日は四谷で大学時代の友人と会う。昔と変わらず何時間も尽きる事なく語り合える。
大学の回りをゆっくりと歩く。木が大きくなり、うっそうとした雰囲気に。ここもあれから長い時間が経過した。
懐かしい夕焼けを何度か見た。夏だ。
東京からの帰り道、神戸・灘の横尾忠則美術館へ。来るたびに彼の膨大な数の作品がリミックスされ、新しい絵と一緒に展示されている。4階の窓から見る王子動物園は絵本の中の1シーンのようだ。
今年に入って淡路島で暮らしている時間のほうが東京にいる時間よりも長くなった。実家の事情から始まった事だが、自分の中の価値観も変わる。これは自分にとっての新しい扉が開いたということだ。
「世界は複雑な形の花のリースのように、どこまでもつながっているわ。
でき上がったリースを目の前にすれば、花と花とはむかしから出会うべくしてつながっているように見えるものだけど、その隣り合わせの花でさえ奇跡に近い偶然によって結ばれたものに違いありません。
‥‥‥だけど、偶然というその不確かな神のいたずらによって生まれたリースの、なんと強固で美しいことでしょう。それは信ずるに足るものです。そうはお思いにならなくって」
「偶然の出会いは一瞬のことです。
そのあとの何十倍、いや何千倍もの時間によってつちかわれる関係が、その偶然という不確かな幻のようにつかみどころのないものに確固とした形を与えるのです」
「だけど、いつしかリースは朽ち、枝や花は散り別れるのね」
「だからと言って、そのリースが信ずるべきものではないということにはなりません。その美しい時間が、かつてそこに確実にあったということ。リースが消えたからといって、その時間が消えるわけではありません」(藤原新也「風のフリュート」)
洲本の家は商店街の中にあり、その両端に八百屋がある。それぞれおよそ20mの距離。毎日様々な野菜と花卉でその店頭がにぎやかだ。道にせり出して売り場を組むので毎日レイアウトが変わる。毎日目新しいニュースが掲載されるカラフルなタブロイド紙のようだ。
山椒の実が並ぶ週は山椒を茹でる。空豆(このあたりではお多福豆)やグリーンピースの時期は短く、えも言われぬ薄緑の楕円や小さな円が並ぶ。今や淡路産のレタスやブロッコリーは終わり。タマネギは品種を変えながら年中旬の物が並ぶ。先日の新聞には畑に海藻や牡蠣を播いて栄養を与えてると書いてあったが本当だろうか?淡路はタマネギ〜野菜〜米と年中輪作しているので畑が比較的健康だとは聞いていたが。
こんな東西それぞれ20mの所にある店から、毎日新しい色彩が届く。
東側のサガ食品。淡路産が70%。淡路中の旬の物がいつもある。淡路島の野菜に関する疑問にいつも応えてくれて頼もしい。フルーツの種類も多く、店が年中カラフルである。淡路島は食品自給率が100%を越えているのだ。そうだ、今のうちに冬に向けてカレー用に100%を越えたトマトでトマトソースを作っておこう。
西側にはサン田中。すぐ裏の農家が持ち込む道の駅のような販売方法。ロメインレタスがあったり、きれいな葉の付いたニンジンがあったり農家の方々も購入者を考えながら様々な野菜作りにトライしている感じがする。全粒粉のパンやおいしい豆腐もある。趣向を凝らした貼り紙に店を仕切るお姉さんのハートがこもる。
この他に、魚屋と肉屋もいろいろあるので料理が楽しすぎるな。
実家の一階にある倉庫を再生しようと始めている。両親の様々な物、自分たち兄妹の物。沢山の物が荷を解くたびに語りかけて来る。堆積した50年の地層を前に、しばし捨てるもの、捨てられない物との対話が続く。
両親の店は薬局で漢方薬や資生堂の化粧品を扱っていたため、店の側の倉庫には様々な道具が満載している。
季節の飾り物(春の飾り,鳥や造花、クリスマスツリーや飾り玉、福引きのガラガラ)、商品ディスプレイ用の沢山のバスケット、あつらえた背の低い両開きの棚やアクリル製の透明棚(昔の方がものがいい)、昔の蓋付きの薬瓶、膨大な量のプラスチックバッグ(商品を手渡す時のコンビニ袋)、黒いゴミ袋も箱入りで何箱も、セールの景品(ポット、懐中電灯、ジュース絞り、電卓、トースター、卓上シュレッダー、フライパン、スポンジ、マグネット付き温度計・・・)、資生堂の景品(鏡、鏡、鏡、鏡、ポーチ、ポーチ、ポーチ、食器、バッグ、ケース、写真立て・・・)、50年前にしまったままの卓球台、以前の店の美しいドア、剣道の胴衣、キャンプの水筒もたくさん、釣竿、傘、釣竿、傘釣竿、傘、父がハレパネを熱線で切り画面構成したB1ポスターパネル、在庫の残りの紙おむつ、様々なサイズの木切れ、沢山のコンクリブロック、石、石石石、砂の入った植木鉢、植木鉢植木鉢、灰がそのまま残っている火鉢、火鉢、火鉢、スチールの大きな棚,エレクターの大きな棚、棚、棚、棚、棚、棚・・・・・・・・。
人間が生を営むとは何と雑多で狂おしく愛しいものか。そんな思いとともに沢山の物との対話は続く。
日曜日に第4回目の開催となるこの映画祭を見た。
朝10時スタートし休憩を挟んで夕方まで。本数で約40本。尺は1分から30分。
内容別にすると、淡路島を舞台にしたもの、淡路島出身の監督が撮ったもの、淡路島出身の俳優が出演しているもの‥と、この島との関わり方は様々。作者の年齢も小学生から、テレビ局の監督の手慣れた作品まである。そこで語られる物語も様々だがやはり舞台となる風景の力や、そこに住む人々の存在が大きい。
変わらない風景があるから、変わらない人がいる。
先日洲本に住んでいる高校時代の恩師と話していて印象に残った言葉があった。
「洲本は市内があまり変わってないな。そのまわりはかなり変わったけど」
市内には昔から様々なものが立て込んでいて、何かを壊さないと大きな建築物や大規模開発ができない。 ずいぶん前に鐘紡の紡績工場跡に大きなジャスコが出来て以来、大規模な開発からは間逃れている。町をとりまく小高い山々も四季折々の色をまといながらそのままの形を保っている。反対にその周辺には開発業者にとって埋め立てに適した海や、切り崩しやすい小高い山々がある。そうしたところから風景は変わっていく。目の前の海が埋め立てられたその地域の人々はどんな気持ちだろうか。どんどん崩される裏山を見るのはどんな気持ちだろうか。
そういった開発されていく島の中にも変わらない所がたくさんあって、それが住む人や時に帰って来る人々の心の支えになり穏やかな心根を育てる。
空気のきれいさや、空の広さ、食べ物のうまさとともに。
そんな景色が映画の中に沢山閉じ込められていた。
けっして圧倒的な風景ではない。それでいて、美しい。
何気ない景色のように見えて、探すと意外にない風景だったりもする。
それらの風景が映画の大きな要素になる。この場所で開催する映画祭の意味もそこにある。
隣りの席の女性たちは見慣れた景色が現れるたびにこれはどこそこの景色、あれはあそこと語り合っている。見慣れたものが画面上に現れると嬉しいものである。
関西テレビの矢野数馬氏の「つくるということ」は風景と人の間合いがゆったりとしており、見ていて心が解けてくる。ミナペルフォネンの服の製作プロセスを追い、モデルがその服を着てこの淡路島の風景の中にいる。風景が特別すぎないから、服を際立たせ、日常性がありながら格別に美しい。独特の空気感がある。沖縄や海外物とは違う、人が見落としてしまうような日常の中にある風景の美しい世界が描かれていた。音楽もよく、また見たいと思わせる映像だ。
榎列小学校の作品で、生徒が先生のことを「お母さん」と呼んでしまったことを面白く取り上げた1分の作品があった。これなんかは、その着想からしても風景の良さが人の心に入っていることがわかる作品だ。
今井いおり氏の「淡路島最南端の美容院」は自分の母親に営む店のこと(実家)をインタビューする映像作品。こういったことは世のみんなが親に対してやっておくべきことなのだがなかなかできることではない。監督の母親と家族への気持ちが表れており、映される母親も嬉しく輝くような表情を見せてくれる。丁寧な編集や挿入される海へと続く坂道の景色も気取りがなくていい。最後の字幕で「もう一泊していくことになった」というようなことを記していたが、いい行いはいい作品を生む。
三原高校放送部の「淡路島にも雪が降る」や鉄道模型博物館の「淡路鉄道の記録」のような記録映画にも風景としての淡路島がしっかりと映り込んでいる。
淡路島の人々はなかなか自分たちを相対化する機会がないままここまで来ているように思う。相対化することが大事なことだと思うのは、そうすることで日常がより豊かになると思えるのだ。この風景の中にいる自分を時に相対化し、美しい風景の中に住んでいる自分を感じながら生きる時間を持つことは、人生を何倍にも楽しく生きることにつながる。自分を相対化するためには職場(学校etc.)と家以外のこのような第三の場所が必要だ。それは旅でもいいし、親戚のおじさんの家でもいいし、図書館や映画館でもいい。それに気付かせてくれる場所としてのこの映画祭は、淡路島に住む人々にとってとても大事なものだと思った。それは様々な人の力を借りながら、ゆっくりと島のみんなで育てていくべきものだ。この映画祭のことを考え、育てている若いスタッフの方々にも淡路島の風景を感じた。
中1になったもと小学生に記念品の贈呈をするスポンサーの吹き戻しの里の方。右端は司会で頑張ってくれた近藤加奈子さん(洲本地域おこし協力隊)。
今年は実に40年ぶりの洲本の春の中にいる。
吹く風は緑で、おしゃべりなツバメたちといっしょにやってくる。
春という新しいメッセージが毎日この町に届く。
形のない何かが体を包み込み
形ある何かが生まれて来るだろう。
春前から仕込んでいたものが次々と仕上がって来る。
春の訪れのように。
こういったデザインは、いくらやっても飽きないし楽しい。
どこまでもやり続けていたい。
ちょうど10年前に作った教科書の新盤(右)。ふたごのようである。
古いphotoshop&illustratorデータはきちんと保存してあればバージョンを更新して使える。ここはデジタルの良さだ。新しいものを提案した上でここに戻る。ある意味で、普遍的なデザイン。
洲本のハンドブックも改訂版。右がnew version。
子どもを産んだお母さんにおめでとうの花を渡すようにこの本を手渡す。我が子の幼い頃の映像をここに込めて。
父の水彩画展「花色紙」のA2ポスター。アトリエでみつかった沢山の水彩画をぎっしり詰め込んだ。花が咲き乱れる野山のように。オリジナルの額装は南あわじ市松帆のNEKI加藤さんにやってもらった。とても味のある額だ。白のムラ塗りの中から少しゴールドが覗いている。
https://www.ne-ki.net/
いとこの開業を応援。そのロゴマークや様々なアイテム。南国の魚が大好きな女医さん。メインキャラはハリセンボン。以下フウセンウオ、クマノミ、カワハギ、ミナミハコフグ。イラストを手書きで描き、ベクター化した。
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こんな風にデザインの仕事は多種多様だ。その時々の条件の中で何かを伝えたいと思い、それを伝えるための様々な術をもつこと。一人の万屋かな。
現代は情報のデザインが増え、形のないもののデザインがとりざたされ、もののデザインが古く見えてしまう時代だ。でもこのような重さのあるデザインが好きだ。手触りや匂い質感のあるもの。そんなものを生み出すことの歓びは例えようもなく大きい。
しかしそれ以上にも、料理のこと、裁縫のこと、書くこと、植物のこと、昆虫のこと、猫のこと、泳ぐこと、音楽のこと、写真のこと、アートのこと、自転車のこと・・・。まだまだ沢山のやりたいことがある。これら全てがひとつ仕事として集約するようなことがやってみたいと思う今日この頃、この春の宵なのであった。
去年夏頃、父のアトリエを片付けていたら沢山の色紙に描かれた絵が見つかった。
そのほとんどが花の絵で家族のみんなが知らなかったもの。
色紙が入っていた箱のふたを開けると、束ねられた色紙の花々が寝息をたてながらこの時を待っていたかのようだった。
見つめても、ゆっくりと息をしながら眠り続ける子ども。
穏やかな寝息。
すでに額装してあるものも沢山あった。普通の色紙と小さな色紙。
楽しみながら描いたであろう見えない時間がぎっしりと詰まっている。
一周忌に合わせた小さな展覧会。
山田収男水彩画展「花色紙」
2018年4月4日–30日
坂本文昌堂ギャラリー
父が次男だったためお墓を作る必要があった。去年の春から南淡路市の墓石屋さんといっしょにいろいろと考えてきた。
まず第一に考えたのはどういった墓石を選ぶか。
これは父が描いてきた絵などの印象から「うすピンクを含んだ白っぽい石」とすぐに決まった。タイの塩田の塩の色だ。
だが、決まったのはイメージの中だけであって、探してもらうとなかなかない。4−5か月かけて、石の見本をいろいろ見せてもらう。夏頃にはこれだという石が決まり、家族の合意を取る。岡山産の石。いずれにしろ作りたいお墓は温かみのある白系で小さくということだ。
次に、平行して進めていた墓石の書体に問題があった。
墓石屋さんはいつものやりかたで表面の書体やデザインを見せてくれているのだろうが、まったくよくない。もうちょっと風情のあるものがあるのかと思ってたのだがまったくだめなのだ。墓石屋に文字を書く人がいなくなった上に、ありものでしかもその選択が悪すぎる。
さて、どうしたものかと自分で文字を探し始める。こういった場合、自分で書ければ問題はないのであろうが、そううまくはいかない。探してきた美しくまた力強い古い文字をいじっていくとそこそこはいくが、父らしさがでてこない。困ったものだ・・。
ここは父に縁のある人に書いてもらうのが筋だろう。そうなると、あの人しかいない。
こんないい字を書く人が近所にいる。
そうだよ、それが一番納得がいく。
近所のひろちゃんの文字。
毎日タバコが売れないとぼやいているが、私や家族にとっての大事な友人であり、話相手である。そして、かけがえのない存在。こんな人に書いてもらえたら、父も飛び上がって喜ぶだろう。
で、ひろちゃんに相談。
「何をあほなこと言うてんの〜」
一蹴されたが、一蹴されるがままにしておく。
ひろちゃんなら、こちらの思いをゆっくりと考え、受け止めてくれるだろう。
その間に家族・親戚にも相談。
「実は、お墓の文字をひろちゃんに頼みたいんだけど・・」
不思議なことにスムーズに合意がとれていく。いつも私の意見は、家族に取って突拍子もないせいか、なかなか賛同の得られないことが多いのだが・・・。
ひろちゃんの書いたものを私が彼女の店でいろいろと見つけて、家に貼ってあったので、なんとなくみんなが知っていたのがよかった。
日をおいて、ひろちゃんところへ行って話す。
「ひろちゃん、お墓の字だけど・・・」
嬉しいことに徐々に書く気になってくれてる雰囲気を感じる。
本当に嬉しかったのは夏の盛りの8月10日に訪ねて行くと机の上に半紙に書かれた何枚かの「山田家」の文字が。
ひろちゃん書いてくれた。
「ありがとう」と言って、その字を奪うようにもらって帰るとすぐにフォトショップに取り込みレイアウトを作る。微調整し、すぐさま形が決まる。翌日(?)ひろちゃんに見てもらい、再度修正を続ける。彫りで再現できないかすれを整えたりしながら、ひろちゃんが本当はこう書きたかったというものにするために。
そしてついにお互いに納得できるものができ、墓石屋さんに渡した。
そこからひと月半くらい。
10月には完成。そして今週、2月24日の父の一周忌に多くの方が集まってくれて開眼供養、納骨ができた。
住職が書いた卒塔婆の父の戒名の文字をそのまま背面に彫ってもらった。これも美しい。
お墓に行くのがこんなに楽しみになるとは思ってもみなかった。
素晴らしいものは思いもよらぬプロセスから生まれる。
ひろちゃん、本当にありがと。
温かいコーヒーに入れるミルクが問題である。
いつもは小さなミルクパンで温めていて、時に吹きこぼしたりミルクパンの内側にこびり付いたタンパクを取るのに苦労する。もう、10年くらいそれを繰り返していた。
先日父の店の書斎を整理していたら素敵なものが出て来た。
湯煎器である。
二重になった小さな鍋で、形がまず目を引く。
長い鼻はただの蒸気抜き。とにかく素敵な形をしている。
薬局だったので、薬にまつわるものかもしれない。漢方薬をお湯にといて飲むためのものかもしれない。
この胴の内側で温めたミルクは、ゆったりとした味わいで本当においしいのである。
ここに来る人ごとに自慢し説明している。
先日、見慣れた本を手に取ると、そこにこのことが書いてあり立ち止まる。
堀江敏幸「バン・マリーへの手紙」
その本の冒頭の一編「牛乳は噛んで飲むものである」の中にこの道具に似たものの話が書いてある。
(P4の途中から)「彼女の(筆者注;作者の幼稚園の先生)思想がもっとも美しく実践されたのは、冬である。寒い時に牛乳を飲むのはお腹にも悪いし冷えるというので、石油ストーブのうえにのせた湿度保全のための銅メッキのたらいのなかにもうひとつ水を張った鍋を入れて二重底にし、そこに通常の半分のサイズのちびっこ牛乳瓶を、口のところについている青や紫のビニールだけとってずらりとならべる。たらいのお湯に直接入れると熱くなりすぎて飲めないから、こうやってあいだにひとつひとつちいさなプールをつくってあげるのよ。そうすると熱すぎもしないし冷たすぎもしない、春夏と同じような、自然なあたたかさの牛乳が飲めるでしょう?そんなふうに彼女は言って、給食のときには先生用の机に置いたアルミのプレートから静かに牛乳瓶をとりあげ、小指を立ててゆっくり中身を流し込むと、今度は口を閉じた状態でそれがあたかも個体であるかのように二度三度『咀嚼』してから、無声映画の女優さながら音も立てずに飲むのである」
後年これは湯煎ではなくて、「一種のお燗」だと気づくのであるが、その鍋のことがずっと心にのこっていた。
作者はそのあと作中で、この湯煎のことがフランスではバン・マリーと呼ばれていることを教えてくれる。
「ところで、給食の冷たい牛乳を子どもたちの口にあうようあたたかくあまい飲み物に変容させてくれた湯煎のことを、もしくは湯煎鍋じたいのことを、フランス語で「バン・マリー」bainmarieという。浴槽、お風呂を意味する「バン」はごく基本的な単語だから、初級文法の例文を読んでいるとき仏和辞典で引いたのだと思うが、その下に続いている単語のなかに、高貴にも卑賤にもなる女性名「マリー」と「浴槽」の結びついた事例を見い出し、さらにその定義を読んでおおいに感動したことを覚えている。(中略)白水社の『フランス語食の辞典』の表記にしたがえば音引きにはならないのだが、その定義を以下に引いておこう。
鍋で湯を沸かし、中に小さな鍋を浮かべてゆるやかな温度で調理したり、ソースやポタージュを保温したりするこ。この技術を考案した14世紀頃はマリア信仰が盛んで、そのやさしさをbain「浴、風呂」に例えて「マリアの風呂=湯で加熱すること」としたのがバン・マリの語源であるとされるが、ラテン語bolnem maris「海水浴」であるという説もある。数百度になる直火や鉄板レンジでは火力が強すぎてしまうスクランブルエッグや ブール・ブランなどの調理に用いる。
湯煎が調理法であると同時に保温にも便利な器具であることは、電子レンジが苦手なわが家の台所で蒸し器と並んでたよりにしているのがこのバン・マリーである事実からも明らかだし、ホテルのセルフサービスの朝食では配膳台に電気仕掛けの大型湯煎保湿器がでんと置かれていることもあるので、道具としてはけっして古びてない」
そこから作者の思考は批評的に広がる。
「子どもの好奇心を刺激したのが、なまあたたかい牛乳そのものであると同時に、直接鍋に入れて火にかけないという、お湯の緩衝地帯をもうけるあの石油ストーブ上で公開された秘跡でもあったからだろう」
「道具のあるなしにかかわらず、ミルクパンに入れて直火であたためる方法を採らないところに、私はある種の啓示をを見る。情報の分析や技術の習得のように白黒が明瞭になるものですら、肝心かなめのところには零と一の組み合わせではない湯煎的な一帯を設けるべきだと思うからだ」
そうやって作者は記憶の旅と現在の自分の行為を重ね合わせる。ある時代のある文化の伝達。誰かが伝えておかないと忘れられるもの。
わたしのもとへやって来たこのマシンもこのような思いで、大事に使われる時を待っていたのかもしれない。
私の生活に侵入。バン・マリー。
悩み多き時代に通った洲浜中学校の同窓会。色々あって一月末当日の出席はかなわなかったが、記念品の日本酒のラベルをデザインした。
デザインのポイントは、酒自体を同級生の上野山くんの酒蔵が特別に作ってくれたことにある。特別純米酒・無濾過生原酒。これが、なによりも贅沢。なかなかないことだろう。
飲んでみるとフレッシュで、それでいてフルーティー過ぎず、辛すぎず。ふくよかで味わい深いできたての酒だ(受け取って10日間が賞味期限である)。
絵のモチーフは、中学校に一番近い海、炬口漁港の埠頭を描きたいなと思い、昔の写真を探してきた。少年たちといっしょに一人の少女を入れた。こんな若いデザインの酒が市販されると面白いと思うのだが。
淡い恋心、新しい世界への興味、その一方での大人になることへの躊躇。忙しく追われる日々と音楽、仲間との尽きぬ時間・・・。
そんなことを思い出しながら制作することは、なんと豊かな時間か。
自伝としてのデザイン。
時をワープしながら、ラベルの中にあの頃の自分がいる。
千年一酒造
http://www.sennenichi.co.jp/
先日泳いでいた時にふとバッハのゴルトベルグ変奏曲と泳ぎとの共通点を感じた。
ゆったりとしたアリアに挟まれた30の変奏曲。
その成り立ちが今泳いでいる40往復の泳ぎに似ているのではないかと。
32の楽章と40回の泳ぎの中の共通項。
最初のアリアは水に入り、泳ぎ出す時の慎重な運びと同じだ。そろりそろりと水に体を馴染ませていく。
それに続く第1変奏は、「さあ、これから始まる」、という印象の曲調。これは最初の慎重でかつ余裕のある一往復を終えて、これから本番という心理だ。
ここから新しい扉が次々と開いていく。
泳ぎも繰り返す50mの中にいつも違う水のニュアンスを感じる。それは真新しい雪道をどんどん滑り降りて行く様でもある。見上げる様に背の高い草むらを駆け抜けるような感じでもある。
第26変奏のような気分で泳ぐことが実際にある。
こんなグールドのような速さはかなうべくもないが(彼の演奏は、激しい流れの渦巻く泡の粒のようだ)、むしろロザリン・テューレックのバージョンのように一歩一歩踏みしめ、音符を確かめながら進んでいくような泳ぎではあるのだが・・。速度を持ちながら慎重に。
バッハは肉体というものを意識していた作家のような感じがする。
肉体を感じさせる音楽だからこそ、体が音楽に反応し繰り返し聴きたくなるのではないか。肉体的な歓びを感じさせる音楽。同じような匂いを感じさせる現代のブライアン・イーノも体つきをみるととてもがっしりとしてバッハみたいだ。
そして、スポーツのクライマックスのエンディングに向かう様な印象を感じるのびのびとした第30変奏。
これを終え、ラストのアリア。
最後に体を整えるように今日の朝を終える。
泳いでいる間中、こんな音が聞こえて来る。
年末から図書館で借りて読んでいる本を並べてみると、red、red、red!
図書館のウェブで予約しているので、借りる時点でその色を気にしていた訳ではない。
本の内容に関して言いたいことは大いにあるがそれは別にしても、こんなに赤が並ぶことも珍しい。
少しずつ温度の異なる赤が並ぶ。3冊すべてが女性作家のものだ。
ふと部屋を見ると、同じ頃から聴いていたCDのタイトルが"RED"。
ちょっと出来過ぎのような感じがするが、この流れを見ると今年はどうやら様々な火を灯していく燃える赤の年のようだ。
life eventというものが続いた2017年。自分の人生に於いても稀な年だった。
先日、今年の写真を見返していた。そこには季節の移ろいが鮮やかに閉じ込められていた。
こうやって一年が終っていく。
今年はなぜか、名残惜しい気持ちがする。
立ち去るもの、新しく歩き始めるもの、
過ぎ去っていく季節、
それを見守る様に道ばたで咲き乱れる花々。
人も自然もすべては移りゆく。
だからこそ、何かを掴みながら歩いていきたいんだろうね。
心配かけたね。いろいろとお世話になり、ありがとう。
世界に、また新しい年を!
秋に渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで「オットー・ネーベル」展を見た。
クレーより少し若い世代。クレーの友人であるがバウハウスにはかかわっていないらしい。
べた塗りのマチエールがとても複雑精緻で、あまりに近くで見ていたので注意された。(そのあとしばらく後ろからつけられていたような….。)
その中で特にイタリアの旅をカラーチャートのように描いた「イタリアの色彩」というスケッチブックの作品が強く印象に残った。
抽象でありながら具体的な風景が溢れ出てくる。その街のことがイメージの中に浮かび上がる。あたかも、風景写真を見ているかのような情緒を感じる。色の音が鳴っている。
それは街ごとの印象を色彩の矩形でぺージごとにまとめたものだ。
たとえばこれは「シエナ、ボローニャ、ローマ」
トスカーナ、ロンバルディア、ラツィオ
ナポリ
こういう具合にページが展開して行く。
このようなカラーチャート的な表現に少し具体的な風景の要素が入って来たりして、微妙な視覚体験をもたらす。
ナポリ湾、サレヌノ湾
ローマの夕暮れ
ティグリオ湾
ポンペイ
彼の記述にはこうある。
「図14ポンペイ、ーーかつての。遺跡(スカーヴィ)。
建築物の側面図。ーーこれもまだ絵画ではなく、完結した秩序を持つ平面の組み合わせ。
67の光の価。もしくは重み。
溶岩と灰の塊に見られる灰色のニュアンスは、すべてあらわされてはいない。
壁面の赤い色は、光っているものと想像してほしい。黒も、大部分は光沢がある。それによって、黒はしばしば黒ではなく、明るさとして感じられる。」
この絵には色面&色彩が67あるのだ。
見て行くとそのまま風景画を見ているように感じ始める。
ヴェスヴィオス山
「図15ヴェスヴィオス山
力学的な表現。
131色。
ここでは火山の岩石だけを観察している。
(火山の麓にはちらほらと植物が生えている。いくらか畑もある。さらにワイン用の葡萄が栽培されている。「ラクリマ・クリスティだ」)
硫黄の黄色の様々なニュアンスは、とくに山頂の火口あたりでは、ここに暗示することができたものよりもずっと豊かだ。
色彩のフォルムの配置によって、かつては燃え立つ液体であった石と溶岩の塊の押し合い、混じり合う様を暗示しようと試みた。」
数えると色面が100を越えて数十ある。
カモーリの漁港
リグーリア(州)
とてもロマンチックだ。
色彩の穏やかさ、自然から取り上げた色の組み合わせ。
色と色のすきま。
直線が木立の様に感じ始める。
感じようとすれば、
空気や温度のようなものまで。
健康診断で体をチェックする。体に負荷をかける過剰な検査(バリウムを飲んだりすること)をせずに、どこまで体を管理できるものか。そういうことに敏感な年代になって久しい。
なるべく泳ぐ回数を増やし、体力も維持する。入浴や散髪をきちんとして、いつも身ぎれいにしておく。
家財の不具合もいろいろと出て来る。自分で出来ない工事はプロにまかせ、家電などはなるべく日曜大工で直してしまう。
機械式腕時計も修理の店をいくつか見つけてある。靴も近所にすごいプロ集団がいて、ソール全体を取り替えたりして大事な靴を生き返らせてくれる。生まれ変わった靴を受け取る時の歓びはなかなか他では得られないものがある( 東京修理センター)。
問題は衣類や食器の部分的な痛みだ。ぼろにしたり破棄するには忍びない。それで少しずつ裁縫と金継ぎの技を身に付けようとしている。
裁縫は小学校の時の家庭科の素敵な先生(西村先生)に習った。授業も楽しく成績もよかった。針仕事はこれからきちんと身に付けたい技のひとつだ。どんどん家族の衣類(シャツ、パジャマ、靴下・・)を直して行くうちに手応えを感じる様になってくる。デザインの仕事と似ていて、なにかしっくりくるものがある。衣類を大事に扱うのは、昔からしてきたことだ。20代の時のシャツもまだ何着も使用中である。
下の写真のような修復はいくつかの本で写真を見て、「こんな直し方がある」ことを知った。あとは色味の合う刺繍糸を買って来て、自分で創意工夫する。「こんな直し方がある」ことに気付けばだれにでもできることだろう。この直し方が今の自分にとってのベストではあるが、時が経てば新たなやり方を知るかもしれない。それはこれからのお楽しみだ。
金継ぎは会社勤めの時の先輩が最近、伝授してくれた(小松先輩)。いい先輩だ。こんなことを教えてくれる先輩はなかなかいない。この先輩と出会えただけでも、長く勤めた会社に入った意味があるというものだ。
金継ぎにしても、欠けた食器を美しく使うためのこんなやり方があるということにまず気付くことだ。その後で、その先輩との出会いがある。
世界は広く、知っておくべきことはまだ沢山ある。
こういった個人の運動(生活の中での考え方、行動の仕方)が広まっている背景には時代が色濃く反映されている。そこには、どんどん消費していくことへの根本的な疑問がある。新しいだけのものには価値を感じず、何か「出会い」のようなものがあって初めて新しい物質を自分の生活圏へ受け入れていく。またはあらかじめ身の回りにあるものを再発見し価値を見い出していく。今の時代は、そのような運動がわれわれ生活者の心の安定になり、ゆたかさや充足感のようなものを日常の中にもたらす時代なのだろう。
ジム・ジャームッシュの映画「パターソン」を見た。
映画では、バスの運転手である主人公が平凡な生活の中で詩作する様を描く。そして、町中でいくつかの詩的情景に出会っていく。
ある日、仕事からの帰り道。一人の少女が作った詩を読んでくれる。この詩には映画のテーマである日常を詩的に感じること自体が、また感じる方法が描かれている。少女の表情や率直なおしゃべりと、風に揺れる髪の描写とも相まって美しいシーンだ。そして、これは詩が生まれる瞬間を描き出している。
少女の読む詩。
WATER FALLS
Water falls from bright air
It falls like hair
Falling across a young girl's shoulders
Water falls
making pools in the asphalt
dirty mirrors with clouds and buildings inside
It falls on the roof of my house
It falls on my mother and on my hair
Most people call it rain
思うに毎日最初に発する言葉「いい天気だね」「どんよりしてるね」などの挨拶も、もともと詩的な表現なのだろう。朝、このように挨拶されると、「いい天気?うまいこと言うなぁ」「どんよりかぁ、いい表現だね」となってたのかもしれない。
さらにそこに「霧のような」「うっとおしい」「横殴りの」などの主観の入った言葉によって感情を入れて行くことから始まり、「町を流してしまうような」「町をすっぽりと覆ってしまうような」「永遠に続くような」など表現を広げていくとそれは詩の領域にどんどん入っていくのだろう(ちょうど今、大きな台風が近づいて来ている)。しかし、そのような表現は昔から使い古されてしまっていて、陳腐な表現になっているので今や詩的には感じられない。単なる挨拶だ。そこにその人独特の新しい視点が入れば、新たな詩が日常に生まれてくるのだろう。または、様々な日常が詩になるのだろう。この少女の読む詩の様に。
それほど分析的に映画を解釈はしない。体感として感じるのは、この映画はひとつの音楽のようだということだ。
映画では、毎日の平凡な生活が繰り返し描かれる。その繰り返しが、音楽のようだ。音楽とは繰り返しだ。繰り返すことでグルーブが生まれ、体が動き、ステップを踏む。そんな映画はめったにはない。観終わって何日もこの映画の余韻は続く。穏やかなテンポで、時を慈しむように繰り返される音楽。
それにしても、この映画が始まる前の沢山の予告編には胸塞がる思いだった。いつもはこれほどではないが10本中の8〜9本の映画が暴力、銃、爆発、ディストピア、差別などで満ちている。もちろんこれまでもそんな映画は無数に作られてきたが、昨今その表現のリアルさが増したせいで、目を背けなければ堪え難い映画が増えた。ここの映画館はハリウッドの映画が中心だからということもあるが、メジャーによる映画作りがいかに単細胞的になっているかがわかる。話題性やショッキングなことを第一に置いているせいで短絡的にそういった方向へ向かう。しかし、人の欲望が映画に現れ、映画に描かれた方向に世界は進んで行くからこれから先が心配だ。
そういった中でアメリカにジム・ジャームッシュのような映画作家がいることがとても重要なことではないだろうか。久しぶりで観た彼の映画は、以前の作品公開時とは変わってしまった世界の中にあって、彼はより強くひとつの願いを描いているように思える。
長く生きていると、何度も出会う絵がでてくる。今回は、懐かしいおじさんと再会したような時間を経験した。
ジェームス・アンソール作「1889のキリストのブリュッセル入城」(1888)という絵がある。
この作品は1984年に東京都庭園美術館で出会った。左右が4m30cmの大作で、モティーフ、マチエール、色彩、どれにおいても心に残る傑作であった。その時、この作品は個人蔵であったが、後に売りに出されてアメリカのL.A、ポール・ゲッティミュージアムというあまり品のよくない美術館に収蔵された。石油王ゲッティが作った美術館。彼が女性に囲まれた肖像写真などを見ると、印象はあまりいいものではない。
そんな気乗りのしない美術館だったが、2005年の春、仕事でロサンゼルスを訪れた時、撮影の合間、オフの日に出かけた。そこでこの作品と再会した。あまりにも絵と美術館の世界が異なるため面食らった。確か絵が2段掛けになっていて、近づいて見ることができなかった様に記憶している。この作品の展示のために、特別室があってもいいくらいに思っていたから。それでもこの絵の命のうごめきのようなものは20年振りに再び伝わって来た。
これが、その時の写真。↓
先日再会した絵は、その絵が掛けられた自室のピアノの前にいる作者を描いたものだ。その作品は左右1m、小ぶりでキュートな作品だ。アンソールはこの部屋と、「1889のキリストのブリュッセル入城」がとても気に入ってたんだろう。自分の宝物をそっと見せる子どものような表情だ。自画像としてもう一度同じ絵を描きたかったくらいこの絵を愛していたんだろう。
「オルガンに向かうアンソール」(1933)
作品の中には沢山の仮面をつけた醜い、滑稽な群衆が描かれている。これは彼の絵を否定していた当時のブリュッセルの人々なのか。なんにせよ、とても尋常ではないパワーが画面に満ちている。軽やかな筆の動きが、色彩をともなってダンスの様に踊り、画面に定着した様子が見て取れる。とりわけ白い絵の具の使い方が独特で、幻想的だ。この絵は描かれてから40年以上も屋根裏部屋に巻かれて置いてあり、展示されたのは1929年であったという。
東京、ロサンゼルス、そして今回はそれをモチーフの一部として描いた「オルガンに向かうアンソール」の中にその絵が現れた。
こういった絵は、ひとつの生命を持っていて、人格のような絵画格と呼ぶようなものを得、海を渡り、空を駆け、あっち行ったりへこっちへ来たり・・・。もう作者とは離れて独自に生きてしまっている。
1937年のアンソール
ベルギー奇想の系譜/ボスからマグリット、ヤンファーブルまで
2017/7/15(土)-9/24(日) Bunkamuraザ・ミュージアム
レイ・デイヴィスのトリビュートアルバムで懐かしい曲に再会した。
以前、映画の中でこの曲が流れて来て、とても印象に残っていた。かき鳴らすギター。ばたばたとしたドラムス。
それはフランスのフィリップ・ガレルという監督の2005年の作品。モノクロ映画のトーンで、若くて切ない時間が描かれていた。悲しくて素晴らしい青春。
こんな風に、曲によって突然時間が過去へと戻される。今に過去がそっと侵入する。今と明日の境界が溶けてしまう。
歌は問いかける。
明日のこの時間、ぼくらはどこにいるだろう
からっぽの海を航行する宇宙船に乗って
明日のこの時間、ぼくらは何がわかっているだろう
相変わらずここで、機内映画を見ているだろうか
ぼくは太陽を後にし
悲しげに通り過ぎる雲を眺めよう
7マイル下に見える世界はなんてちっぽけなんだ
さあ、明日のこの時間、ぼくらは何を見るだろう
家が建ち並ぶ平野、果てしなく続く渋滞の道だろうか
上野の不忍池のハスが沢山の実を付け、大きく広がった葉がまだ太陽から光の滋養を吸い込んでいる。池の中の蓮根は、成長し続けているだろう。
マテバシイの並木道を抜けた今朝、沢山のドングリがばらばらと音を立てて落ちて来た。アスファルトからまろび落ち、運良く土に届いたドングリは芽を出すだろう。
アゲハの幼虫の遅生まれのメンバーが、まだ一齢〜二齢くらいの状態で葉を食べている。サナギまで変態するとそのまま冬を越し、春を待つだろう。
誰かがどこかで言う。自然の小さな変化に気づく人は思っているほど多くない。だから、それに気づく人は気づかない人に教えてあげなくてはならない。
「あ、二平君がくる
いくぶん秋のけはい
わたしの
胸のひとつの扉が
ハ長調でも
イ長調でもない
独断によれば
ト短調の
ラッパの調べで
開きはじめた」
表題作のラストのセリフが昔から不思議だった。
沢山の音楽を聴くようになった今でもはっきりとしたト短調イメージを持ちえていない。
ジェーン・バーキンのコンサートでお盆もないだろうと思われるだろうが、これが実にお盆のようなコンサートだった。
この時期に彼女がコンサートをやるのは初めてだ。たいていは秋から冬にかけて風景も物悲しさが増す時期が多い。今回は8月19日(土曜日)という真夏。休日のコンサートは6時始まりでなかなかいい。直前に大きな雷の音と同時に強い雨が降って来た。雨宿りの後、早足で会場に駆けつける。雨を含んだ上着はこの夏の日を記憶しただろう。渋谷のオーチャードホールは街の喧噪とは別世界で、大きすぎない会場規模やこざっぱりとした設備など申し分ない。
今日一回きりのコンサートだ。来てる方々も気合いの入った年来のファンや大人が中心である。オーケストラをバックに歌うので料金も13,500円と高い。特別席は25,500円。年々増えていた興味本位の若い女性客は今回はさすがに見かけない。
このコンサートは彼女がこれまでずっと歌い続けて来たセルジュ・ゲンスブールの曲を、その作曲のベースになったクラシック曲のもとに戻し再構築するという試みだ。
東京フィル(指揮:栗田博文)とピアノ&オーケストレーションの中島ノブユキがステージに現れる。イントロが始まりジェーンが現れる。病後初めて見る。以前と違い体は少し悪そうだが、表情は変わらず美しい。慈愛に満ちた彼女独特の表情が健在でほっとする。2009年に来日中のホテルのエントランスでばったりと出会い、話し、写真を撮らせていただいた時の温かい雰囲気そのままだ。
中島ノブユキ氏によってオーケストレーションされた曲たちはこれまでのアレンジとは違い、ゲンスブールの楽曲に新たな色彩や風景を与え、彼の内面世界を表出していく。美しい響き、物悲しい響き、ノスタルジックな響き・・・。ショパン、グリーク、ブラームスなどの古の作曲家が次々に顔を覗かせ、スラブやヨーロッパの世界がステージ上に蜃気楼の様に現れる。朝焼け前の空、シルエットになった木々。夏の夕刻の匂いや切り立った崖。タチアオイの花、キョウチクトウの色、亡き王女のパバーヌ・・・。
彼女がローマ字の文字を読み、「セルジュガ、ヨロコンデ、イルト、オモイマス」と語ったり、観衆やスタッフにお礼を述べる感極まった彼女の姿に何度か涙が出た。にぎやかな曲ではジェーンが指揮台に乗っかって指揮者の方に秋波を送りながら歌ったりして、泣いたり笑ったりの時間であった。
昔は囁くようなへたうまボーカルなどといわれ、それほど彼女の歌唱の評価が高かったわけではない。今オーケストラを携えた彼女の歌は、しっかりと歌の髄を伝えて来る。昔から最高のボーカルだと思っているが(もちろん私にとってという意味でだが)、年を経て歌っていくにつれ、その味を無くさずに安定感を増している。決して歌に溺れない。意外に音程がしっかりしているのだ。
死んだ者のために何かをすること。死んだ者を思い出すこと。死んだ者に礼を言うこと。死んだ者の気持ちを辿り涙すること。死んだ者とともに在ろうとすること。
懐かしい弦と弓が擦れ合う音に耳をすますこと、古来から在る真鍮の管の響きに身をゆだねること。歴史の中で進化を遂げて来たフェルト付きハンマーが鉄の弦をたたく時に発する波をとらえること。その楽器たちによって亡くなった者が作った曲を今に蘇らせること。そして人々が集い、その音に魂を預けること。そのすべてが日本で言うお盆の行為と同じである。この時を選び、この会が行われたことが、ジェーンにとってもセルジュへの大きな、今までのコンサートとはまた違った鎮魂になった様に感じた。
私にしてみれば、高校生の時からずっと彼女を見続けてきたので、いまや本当の親戚のような感覚になってしまっているという個人的な事情もある。客観的に見れば、彼女は何人も孫のいる老人だ。
セルジュが亡くなった年のコンサートは葬式のようだった。今回はこの時期にコンサートを開催したことで、彼の26回忌になった。
セルジュ・ゲンスブールの霊と出会う場に参加した夜だった。
こちらはフランスのTV用に中島ノブユキ氏がアレンジを変えたLa Chanson De Prévert。
ホルンの響きが懐かしい。
洲本の初盆(ひとぼしと読む。灯灯しが語源)は昔の人々の故人への思いを伝える風習が生きていた。
洲本・遍照院では7月15日から8月6日までの間に各家庭で初盆法要をする。
それには、3つの道具が必要になる。
招き幡(まねきばた)と施餓鬼棚(せがきだな)と灯籠。
事前に用意し、住職を招く。
招き幡で祖先にこの場所を知らせる。家に届いた竹の棒は長く4mはあった。
施餓鬼棚の下で迎え火を焚き、お経をあげていただいて故人をお迎えする。施餓鬼棚には水皿とお米に野菜を混ぜたお皿を祀り、成仏できない餓鬼さんたちをそこに迎え、成仏できる様に取りはからう。仏前のお供えと合わせて毎日それを祀る。祖先の霊だけでなく、無縁仏や様々な成仏できない精霊たちにも施しをし、供養するのだ。仏教は懐が大きい。
戻って来た霊は灯籠の中でお盆までの時間を過ごす。
そして法要後、帰って来た父も含めて親戚やご近所さんたちと食事会をした。夏の集まりはいいものだ。
数週間後の8月15日にはお寺に檀家が集まり、夕刻になると各自が持参した3種の道具を燃やし、送り火を焚く。住職のお経と龍華の会の女性の御詠歌にさらに蝉の声が混じり、実に夏のお盆の風情たっぷりの場が生まれた。仏事の場を全身で感じる。幼なじみもその場の運営をしている。
住職によれば、このようなやりかたは全国的にはだんだん少なくなっており、淡路島はまだそれがよく残っている場所だと言う。参加して初めて分かるが、亡くなった人々を迎え/送る場を、見える/見えない形で眼前に生み出している。そのような時間を大事に思い、それを受け継いでゆくだけの場所が、ここ淡路島の人の心と環境の中にあるのだろう。昔から続けられて来たよきものがここに残っている。この世の時間に、あの世が混じるお盆という行事ができた訳がよくわかる。祖先に混じってあの世の時間を感じるお盆の時。人の生み出した古来からの知恵だ。日常の時間から離れた、死者といっしょの時間をこの夏は自然に持てたようだ。
夏が終わる。
6月の末に東京都美術館で行ったワークショップのブログがアップされた。1月にリポートしたトビラプロジェクトでの活動。
沢山の仲間や、美術館のスタッフといっしょに作っていく場。多くの熱量が発生し、その中で子どもたちやお母さんも着火させられ、奮闘する。人の集まりとは、かくも楽しい。
http://tobira-project.info/blog/20170625_original-monster-2.html
ワークショップとは限られた時間の中でやらざろうを得ないものだ。この日も賞味3時間半。それを越えると、こういうパブリックな場では小学校低学年の子どもは飽きてしまう。
本来なら絵を鑑賞した後、素材探しからみんなでやり、各自が様々なものと出会うところから始め、翌日その材料で作品作りをする。みんなでごはんを食べたりして、また翌日写真撮影をし、合成なんかも子どもと一緒にできると楽しい。いい材料を予め用意してしまうところは過保護過ぎる嫌いがあるのだが・・・。
ブログの最後のところで上から5つ目の作品が洲本のユーカリを使ってできた。主婦の方がその素材を選択し、自分のモンスターに仕立てた。そして、この部分に自分はこんなポーズでくっつきたいというリクエストをお聞ききし、撮影・合成した。とてもキュートな作品ができ上がった。お母さんの服の赤が絶妙に効いている。
数奇な運命のユーカリ。洲本で土にならずに、今頃その家族の家でまだモンスターのポーズを取っているのか。
こういった事業の運営を報酬ベースでやると、全く合わないだろう。そんな安いギャラでとなる。しかしこれは無報酬だから合うのだ。そこがトビラプロジェクトの不思議なところ。
この事業はこんなパラドックスに満ちている。
2017年のあの日、沢山の大人がわいわいと集まり、子どもたちに何か面白い事をさせようといろいろ工夫を凝らしていた。大人ってなんか楽しそうだな、子どもの世界よりなんか自由そうだなって、だいぶ後になって思い出してくれたらいい。
unauthorized use of photo
今月は長女のおめでたい行事で信州へ。子どもは親を色々な局面に導き出す。これもまた、ひとつの節目だ。
会は両家20数人だけの小さな集まりだった。その分、終始神聖な雰囲気に包まれ、温かく心から楽しめる会になった。
披露宴のコース料理が終えるまで、スピーチもなく新郎新婦が親戚のテーブルを回っていく。ゆっくりと食事を味わい、この会の意味を感じていた。外にはまだ初夏の陽があり、木々を通った風までもが穏やかな日を謳歌しているようであった。
結婚する事で子どもが遠くへ行った様に感じるのじゃないかと思っていたが、そうではなかった。むしろ、より近づいてきた感じがする。距離的には遠いけれど、近く感じる。それは子どもの器が大きくなったからだと気付いた。地図上の小さな点だった彼女の場所が、いままでの何十倍かに拡大し、こちらの場所に近づく。そんな感慨にとらわれた一日だった。
それにしても自然が穏やかにその豊かさを差し出すような場所はいい。いまは何でも手に入ってしまう時代だから、訪れた場所でしか体験できない事や、そこでしか味わえない料理がなによりのごちそうだ。全国から選りすぐりの食材を集めて、というようなものは興味をそそらなくなってしまった。その土地ならではのものを、その場所で感じたいんだ。
人もまたそのように、何かに生かされているかのように生きていくのが望ましいのかもしれない。
先週末、帯広を再訪した。
4年ぶりの帯広は、次女のおめでたい行事での一泊旅行となり、前回とは違う気持ちで新緑の町を巡る。
北の緑は繊細で、その葉を透過した光で森は明るい。
エゾハルゼミの遠慮がちな鳴き声が聞こえてくる。
カシワの木のキツツキの巣。中でひなの鳴き声がずっとしていた。人が屈んで中を覗けるような穴の位置だが、外敵が来ないのか。
蝶がとまっている様に見えるアヤメ。何かを誘っている。
新緑のカシワの葉。ここはカシワの木の森。
スズランが森を縁取る様に咲いている。
様々な葉の形、花の形。森はデザインの宝庫。
フキと九輪草。フキは道路脇など至るところに生えている。
広大な畑では秋播きの麦が大きくなっている。ビートやジャガイモの葉もどんどん伸びている。ブロッコリーは本州での生産が終わった今からが収穫時になるという。産地が全国にあると、野菜の旬がわからなくなる・・。
然別湖。シカリベツコ。大雪山国立公園にある湖。標高810mの位置にあるため、冬場は堅固に氷結する。前回訪れた時は、氷結した湖上に氷のブロックを積み上げて作ったかなり大きなバーが建っていて酒やコーヒーなどが飲めた。毎年冬場だけ然別湖コタン(コタンはアイヌ語で集落の意)として様々な自然体験の活動拠点になる。ここまで変わるものか、と思うくらいこの風景とは全く異なる世界であった。
http://munehiroyamada.com/8_profile_diary/8_profile_diary.html#s_20130401
http://http://www.nature-center.jp/kotan/index.html
この世界はここに居を構える娘の中にも入り込み、その佇まいを変えていくだろう。
そして新しく親戚になる方々/家族との出会いは、不思議な繋がりを感じさせる。それは東京との距離感のせいか、風土のせいか、ここに至る足取りの違いのせいか。心地よい目眩のような二日間。これから何度も訪れる事になるのだろう。新しい出会いに心がにっこりと微笑んだ。
五月は新しい色が生まれる月だ。
使われてない柑橘類をマーマレードにするプロジェトに共感してくれた方からいただいた庭で穫れたレモン。
切り口がミルフィーユのようになり美しいストライプが表れる。
ベランダでは新しい緑が生まれ、バラが咲き始める。
洲本の友人は入手が難しい鳴門オレンジを送って来る。光沢のあるオレンジの皮をまとい、ここまでやって来た。
色が、今は5月だと伝えに来る。
工夫したような気配はなく、わざわざ持って来た風でもない。あらかじめ前からそこにあったかのような。ただ美しいから何度でも見てしまう、ふつうに咲く季節ごとの花のような。さえずる鳥のような。そんなものが作れるといいのだが。
新緑と春の花が次々と生まれて来るこの季節に、自分のデザインしたものが仕上がってくるとそのような思いになる。自分の周りで美しいものが生まれているこの季節の一部に、自分の生み出すものがなっているだろうか。
淡路島での仕事の印刷物が出来上がって来た。
淡路市で長い生産の歴史のあるキンセンカを「カレンデュラ」として新たに売り出そうという試み。インドのバラナシに行くと町中でこの花が売られていて、人を弔うのが普通の日常だという気分で満ちていた。何もかもを清浄にする雰囲気のある花。これをハーブティにしたり、石鹸やハンドクリームに練りこんで保湿効果を高めたりする。昔ながらのキンセンカを使い、新しい産業として根付けばうれしい。
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ナビ派と日本人の関係は歴史上双方向で影響を与え合っているのだが、自分がまさにそうなんだと思わされた絵があった。上がビュイヤール、下が私の絵。
対象の簡略化の仕方には似たものがあるが、こうやって比較してみるとビュイヤールがいかに装飾的に絵を描いて来たかが分かる。そして私はビュイヤールから絵を学んだ事は無いし、馴染みのない画家ではあったが、すでにものすごく大きな影響を受けている。
あと一歩のところで、春が足踏み。いつになく落ち着いた心持ちが続く春の始まりだ。
ここのところ毎年春は駆け足で過ぎて行き、あっという間に初夏になってしまっていた。だから、こんな春は好ましい。
春を待つ都会の公園は様々な人の知恵を集め、沢山の植物が植えられている。自然のままであるより、人にとってより大きな喜びを与えるべく季節ごとに咲く木を植え、それらが毎年成長し共生しながら四季を彩って行くようにする。だから、そこでは公園を作る人たちのセンスが問われる。あからさまではなく、派手さだけを見せるのでもなく。
昔ならば、権力者が独占していたような大きな庭園を現代の権力者である企業や自治体がパブリックスペースとして市民に開放している。俯瞰してみればそういう図式であろうか。
そんな現代の公園には特別なところへ出かけて行って初めて見る風景から得る歓びとは別の、日常の中の歓びのようなものがある。そこに住んでいれば、そのことに気付かずに過ごしてしまいそうな歓び。そんな歓びの設計がなされている公園へ行くととても楽しい。外連味の無い人の思いのようなものが感じられ、それが予想もしないような自然の持つ力でアレンジされて行く。そこには圧倒的な巨木や銘木がまだあるわけではないからこそ、そこを訪れる人ひとりひとりが違う思いを持てるような場所だ。各人それぞれの思いが育つプライベートな庭のように。そんな場所を愛している。
淡路島の新玉の一番穫り。
切った後で水にさらすのは御法度。
空気にさらしてそのままいただく。
レタスと合わせて、シンプルなドレッシングでタマネギの味そのものが楽しめる。
これが出回るとすぐそこの通りの角までもう春はやって来ている。
父の死に際して訪れていただいたたくさんの方々。
その方々から伝わって来る気持ちによって
死ぬ事はとても豊かなことなんだと感じた。
そして日本の年齢層による人口比率とは逆に参列者に成人した若者が多く、
次から次に焼香をする彼らの命の息吹に気持ちが高鳴った。
よもや葬儀でこんな気持ちになるとは思わなかった。
新しい命に対面する老いや死がもたらす可能性に気付かされた早春。
(画は葬儀を執り行った洲本市遍照院蔵の釈迦涅槃図)
葬儀の準備も一段落。 住職の子どもたちが境内で遊ぶ。その後の通夜では二人そろって焼香をしてくれた
保育園児が散歩でやってくる。ここでは生と死が自然な形で交わっている
遺影と花だけの祭壇にした
真冬の散歩道を行くと
彫刻が立っている
葉を落とし露になった肢体を曝し
ポーズを決めて
ぼんやりした風景の中にある
生命の形
身をくねらせ
腕を伸ばし
北の歌に踊りながら
冬空に立っている
去年、東京都美術館と東京芸術大学の連携事業「とびらプロジェクト」に参加した。
このプロジェクトは、2012年の東京都美術館リニューアル時から始まった社会実験だ。
毎年50名位を一般公募。参加者は美術館の中で様々な講座を受講し知見を深めると同時に、美術館を訪れる多くの小中学校の鑑賞授業をサポートしたり、親子のミュージアムデビューに伴走したり、お年寄りへの無料の特別鑑賞会の会場で案内をしたり、今年からは生活保護を受けているような家庭に対してアートが精神的な助けとなるためのプログラムのサポートをする、というような一般には知られていない数多くのプロジェクトに参加して行く。
事業のヒントはニューヨークのメトロポリタン美術館やヨーロッパの美術館の新しい展開にあるらしい。
ここ東京都美術館で我々が受ける講義は芸大の日比野克彦氏や働き方研究家の西村佳哲氏、美術館の学芸員の方々、鑑賞のファシリテーターによる連続講義、また時には芸大の授業に参加したり、都美術館設計者である前川國男に関する青木淳氏のレクチャーがあったり、沢山の美的・知的好奇心をざわつかせるようなプログラムがある。そして単に受講するだけではなく、実際に来館者に対し鑑賞のファシリテーションを行うのだ。
つまり、無料で講義を受け個々人の知見を深める一方で、受講者が美術館をサポートしていくという通貨に頼らない交易が行われているとも言える。交通費も出ないし、もちろん日当もない。
私は去年の4月から登録し、まだ事業の全貌が見えてない状態であるが、新しい考え方と旧態依然ではない倫理性を持った組織であることは美術館内の講義室(と言うか作業場所というかミーティングルーム)に行く度に、また都美術館&東京芸大のスタッフや我々参加者(とびラーと呼ばれている)と話すたびに感じる。都の組織というととても官僚的であまり近づきたくないイメージがあるが、ここはそのイメージから格段に外れている。
最長3年任期なので、多いときには100名を超える人が集まる。様々な人がいる。
定年退職したおじさん方、美術好きの主婦、幼稚園の先生、退職した小学校の図工の先生、現役の20〜40代のOL、出版社勤務の女性、携帯電話のアプリデザイナー、外資系企業の秘書、企業研修を請け負う会社の社員、芸大生を始めとした大学生も多く参加している。年齢層は18歳から60歳代後半までというところか。
ここでは美術館、もしくは美術作品が人の心の希望として機能する事を目指し、そこへの市民参加を促す仕組み作りをしているのである。
そして講義やサポートとは別に、とびラーは自由に企画を立ち上げ、美術館の中や講義室などで客を巻き込んで様々なことができる。
去年私が初めて企画・制作にかかっわたのは3年目の方が立ち上げ、15人くらいのとびラーで運営したワークショップだった。
その時に美術館で開催されていたのは「木々との対話」という船越桂氏を始め須田悦弘氏、土屋仁応氏ら5名の日本の現代彫刻家による企画展。展覧会自体、すごく刺激的な展示であった。その展示を参加者といっしょに見て、触発された状態で仮面を作ってもらうというプロジェクトだ。普通に美術作品を見ているだけではできないような体験ができる。このワークショップは都美術館のウェブでレポートされているので、下にリンクをつける。
「トビラボ/みんなで森のいきものになろう」
http://tobira-project.info/blog/morinokkimono.html
このレポートを書いたのは企画者である先輩とびラーで、彼は大学の先生でもある。とても濃密なレポートで、このワークショップの意味性にも触れ、また詩情ある文章でこの文化事業の雰囲気を伝えている。お時間のある時にご一読を。
父や家族と30年以上に渡り毎年の様に訪れていた都美術館。そこでこういった関わり方ができる事は新しいひとつの旅のようだ。
今年もまた希望を求めて上野に向かおう。
家を出た二人の娘へのクリスマスプレゼントにと思いマーマレードを作った。今年はこれで9回目のマーマレード作りだ。年始に手作りのものを三女のピアノの先生のお母さんからいただいた。これがあまりにもおいしく、朝食がとても豊かで楽しみな時間になった。ブランドを選んだり、添加物を心配したりしながらやっと買ってもこの味には到底及ばない。だから買うのが馬鹿らしくなった。
ちょうどそのころ四国の姉から自宅の庭で穫れた文旦と橙が大量に届いた。それから手作りに嵌った。手作り品の在庫がなくなると、生活クラブ生協のその季節ごとの低農薬・防かび剤やワックスなしの夏みかんやレモンなどで作った。甘さは砂糖の分量を工夫し、粘り気は様子をみながら煮る時間を調整する。冷やすと硬くなるので、緩めの状態で仕上げ瓶詰めにするのがコツだ。
今回は放置されている近所の庭の夏みかんをいただいた。夏頃から「庭の蜜柑をいつも穫ってないようだけど、使わなければマーマレードにしますよ」と頼んであった。そして先週、剪定の時に収穫した物を10個ほどいただいたのだ。すぐ目の前にある木で穫れたものから作るのはなかなかいい。木からその命のお裾分けをいただくような感じがする。食べ物とはもともとそういうものだった。
今回はクリスマスプレゼントなのでラベルも作ってみた。自分の名前も入れて。即興で作ったのでまだ40点くらいの出来だが。
内容物を作り、その外側のデザインも作る。これが一番理に適っている。
というわけで、今年はマーマレードの年として私自身の歴史に記す。来年はどんな年にしようか。
それぞれ20–30ページの短編小説が11編収められている。私は何の予備知識も無くその世界の中に入っていった。制作年代や作者やそのバックボーンなど何も知らずに読み始めたらいいなと思い、ここでもその辺りの解説的な文は書かない。この表紙絵に導かれ、北の世界にゆっくりと入っていく。そしてそれを読む時期が真冬なら言うことなしだろう。温かいココア等を淹れ、冬枯れた景色を窓外に時たま眺めながらこの小説を読むのは、人生の中でも最も幸せな時間だと感じるかもしれない。この本がこの絵によって包まれていることの影響はとても大きい。
ブラジル大使館での「サンバ100年の歩み」レクチャーの帰路、ぶらぶら街を歩いていた。有楽町に来て、フォーラムの方から丸の内の仲通を眺めるとなにか光る物体が浮かんでいる。大きなビルが取り壊され新しく建設中らしい(年中そうだが)。その近辺に光りながらお辞儀をする人のイルミネーションが浮かんでいる。
その敷地近くの交差点や三菱一号館美術館前の交差点にもある。「工事中ご迷惑をおかけします」貼り紙の立体版。そのうえサンタまでいる。日本のカワイイ文化。やる気があってお金が集まり何かの思惑のある所には変わったものが自然に生まれる。
夜を徹してお辞儀し続けるおじさんのオブジェ。
先日訪れた写真家ロバート・フランクとドイツのシュタイデルという出版社とのコラボ展。新しい見せ方が強く印象に残った。
Robert Frank: Books and Films 1947-2016 in Tokyo
会場は東京藝術大学大学美術館 陳列館1階、2階。この展示の運営は東京藝術大学の松下計研究室。会場の設計はゲルハルト・シュタイデル氏と芸大の助手や学生たち。観覧料は無料。
展示が興味深くて丁寧に見て行くと2~3時間はかかってしまう。われわれも一度外に出て、昼食をとり、もう一度入り続きを見た。沢山の人が押し寄せ、入場制限の長い行列ができていた。
展示はロバート・フランクが作って来た沢山の写真集の流れがわかるように、大判の荒い用紙にそっけなく写真がプリントされている。写真の間に、映画作品が挿入されていたりする。その映画は裏から投影され、紙の繊維が透過され映像の粒子に混じっている。
どうやら彼の写真は現在非常に繊細な扱いが求められるため、そのほとんどが公開されていないらしい。ギャラリーや美術館や投資家たちが、彼のオリジナルプリントの展示に厳しい条件を課し、貸出には法外な保険料を求められる。そのため従来のスタイルの展覧会を行うことはきわめて難しい状況なのだ。どういうこと?、と思うがそうなっているようだ。それを逆手に取り、このような展示になっているのだが、それがいい方向に出ている。彼の写真の世界観が、写真集のページを繰ってみる形式よりもこの様な一覧/俯瞰形式の方が、より感覚に訴えてきた。
この展示会場では、新聞紙型のカタログのような薄い冊子が売られているだけで、既存の写真集等の販売は無い。その代わりにシュタイデル社から出ている彼の写真集の全てが閲覧でき、その制作プロセスや、契約書、トリミングの指示、新しい"The Americans"の印刷時に83枚分のオリジナルプリントに1億円の保健を掛けた書類、"The Americans"のこれまでの様々な時代のバージョンの表紙など、見所は沢山ある。
運営している芸大の学生と話すと、この展示は商業施設でやらずに教育機関を使い世界を巡回しているという。日本ではこの後、京都へ。キャノンや資生堂などのスポンサーもしっかり付けて教育モードとして考えられた企業活動である。しかし思うにこれはロバート・フランクに関する教育目的の展覧会の様ではあるが、シュタイデル社のプロモーション活動でもある。無料であり本の販売がない点でそのあたりがわかりにくい。もともとヨーロッパはスポンサーが前面に出ず、参加者へのメリットだけが謳われる形が多く、よく見ないとそれを支える部分が見えないくらいなことが多い。ダイレクトにスポンサー臭を出さずに、後で考えるとじわじわと効いて来るような時間をかけたヨーロッパ型の企業活動がこんな形で見られる時代。そんなことを考えた一日だった。
それにしても伝え聞くロバート・フランクとその家族の人生はあまりにも明暗が大きく、とても自分なら送りたくない人生だ。作家の作品を見て何か歓びのようなものを求めたくなるのが人情であるが、彼の作品世界はその苦楽の幅がものすごく大きく、それが作家としての強さになっている。その辺りは作家のバックボーンを知らずとも作品を見て直感的に感じられるだろう。そういう意味で、私の好みとしてはロバート・フランクより彼の映画製作の助手だったラルフ・ギブソンの方だ。しかし彼にしても幸福感溢れる写真は多くあるが、その人生はかなり複雑にぶっ飛んでいるようだが…‥。どちらにしても、そうなりたいと思えるような方々ではない。
では、アートとは、アーティストとは一体なんだろう。これほどの人が集まり、その作品や人を見つめる。
人の気持ちをざわつかせる作品や作家が存在する一方で、次の言葉を述べたマティスのようなアーティストがいる。
「私が夢見るのは、いわば肉体的疲労を癒す座り心地のいい安楽椅子のような芸術である」。また、サティが提唱した「家具の音楽」。それを受け継ぐようなサイモン・ジェフス(ペンギンカフェ)やブライアン・イーノの音楽もスタンスは近いかもしれない。
これはほんの一例だが、アートやアーティストにはそれぞれ異なった形がありそれがその作品を体験する者の中に個別の深い記憶となり残っていく。言い換えれば、拡散し無限に新しく広がり行くものが、誰かの中に侵入し何かの形になりひっそりと留まり続けるもの、それがアートと呼ばれるものの正体か。つまり、表現する人の数とそれを体験する人の数を掛け合わせただけの数のアートやアーティストが存在するのだ。
そんなことにも思いを馳せた日でもあった。
私が住む集合住宅の敷地のまわりに通りに面し、土が露出して冬にはよく霜柱が立つ細長い20mくらいのスペースがある。霜柱はとても風情があり、見つけた朝はいい朝だという思いになる。しかし、他の季節があまりに殺風景なので、今年の春の植木のリニューアル時になにかを植えるよう頼んでおいた。春に植え付けてくれたのはポリゴナムPolygonum capitatum(ヒメツルソバ)で今それが満開になった。
夏頃は暑い路面に近いので、そこそこの生育だったが、ここにきて涼しくなると俄然元気で満開になった。リズミカルに弾むような花の立ち上がり方がとても楽しい雰囲気を醸し出している。
小さくてだれも気にしないような花だけど、野生の息吹を感じる。こんなスペースは見向きもされない場所だけど、これだけの小さな命のエネルギーがあると、だれかの心に訴えたりしているかもしれない。
小さな花が道ばたで誰の為にでもなく歌を歌っている。その歌声を聴きながら出かけよう。朝、出かける誰かの気持ちの助けになればいい。こんなスペースでも毎日何かが起こっている。
まあそもそも、ここにこんなスペースがあるのがいい。土があって放っておくと雑草が生えるようなスペース。今だとコンクリートで埋めてしまうか、道まで目一杯建築物を建ててしまうのかもしれない。この場所を気にして種を播く方も播く方だけど‥‥。
東京都庭園美術館のクリスチャン・ボルタンスキー展を見た。見たというか、無いものを感じたというか。もちろんインスタレーション作品として展示はあるのだが、展示以上の思考の豊かさがある。目に見える哲学と、目に見えない哲学が縺れ合ってえも言われぬ創造の世界が作られている。見て想像力を掻き立てられるのがアートの展覧会だが、見えるものと見えないものの両方が展示されているという展覧会なのだ。
庭園美術館になっている旧朝香宮邸の部屋に男女の会話だけが聞こえている。この部屋で半世紀も前にかわされていた会話か、ガス室で死んでいったユダヤ人の幸せだった日常の中の会話なのか。
香川県豊島やチリのアカタマ砂漠で揺れる沢山の風鈴のインスタレーションの映像がある。ここには行けなくても、そこにそれがあると知っていることがとても大事だという。人々の間で、そういう場所があると言い交わされることが作品であること。ある種の巡礼地になること。
会場の説明には無かったがアカタマ砂漠は人が寄り付かない土地であり、乾燥し空気が澄み切っているため今では世界中の天文台の集積所であるとともに、それ以前はピノチェト独裁政権時に強制収容所があった場所(1973–1990)。今でも遺骨を探すために遺族が訪れる地であると聞いた。香川県豊島は1990年代に産業廃棄物不法投棄で、再生が不可能という所までその環境が荒れ果てていた島である。
会場にあった彼の言葉からー
誰もが唯一で他の人とは異なっている。
でも、三世代で忘却されるのです。
作品の大事なことは必ずしも見ることではなく、そこにあると知っていて
いつか行くことができると知っていることが大事なのです。
何かに思いを巡らせるとき、本人が知らないことを先人から貰い受けているのです。
母親のことを思い出すことができるのは、今となっては私しかいません。
私が死んだら、彼女の存在は完全に失われます。
文明は人類が死者を葬る様になって始まったと言われています。
私は埋葬者です。死者の為のセレモニーを司るのが私の仕事です。
身近な人が亡くなると、これまでよりもその人の存在感が増すんじゃないかと感じていたが、
このような作品を見ると(感じると)そのような思いが一層強くなる。もともと芸術は亡き人を思い生まれることが多いが、この人は亡きことそのものをテーマにしているから普遍性がより強いのかもしれない。
目に見えないものに寄り添う時間は心休まる時間であった。
クリスチャン・ボルタンスキー アニミタス-さざめく亡霊たち
しばらくこの美術館に来ていない間に、新館が建っていた。本館とは違う今時のホワイトキューブだ。この新館が建っても敷地には広い広い空き地がまだまだあって、この空間が豊かさを醸し出している。正門から本館までの100m位の遊歩道がアスファルトじゃなく、もっと風情のある道になれば楽しいのに。
高さ133mから見下ろす風景は空と海の青。その色を全体に浴び青みがかった町並みが左前方に広がりそのまま山並へと繋がっていく水平の大地が伸びやかな気持ちを誘い出す。
さっきまでその懐で泳いでいた海は上空から見ると波打ち際から沖までの海底の様子が100mを超える距離の離れたこの場所からも水を通してはっきりと見て取れるくらいに澄んでいる。人が立てるほど水深が浅いまま少し深くなったり浅くなったりしていることを表すまだらなベージュの砂の色が続き50m以上沖に出て初めて水底の砂の色が消え少し深い海を暗示する緑がかった海の色になる。
そこにいる人々はさっきの自分を眺めているようで時間概念が前後した世界に引き込まれた。その緑がかった辺りで泳ぎ魚を追い仰向けの姿勢で波に浮かび今いるこの場所やゆっくりと動く雲を仰ぎ見ていた。今年は海の塩味が塩辛く感じるのは近年食べる料理が薄味になってるからなのか海の水の量が減っているからなのか泳いでいると口のまわりが塩だらけで塩せんべいを次から次に食べているように感じるのは年のせいで粘膜が弱くなっているからなのか云云かんぬん。海に浮かびながら考える。
奥の山並みは海から駆け上がる様になだらかに隆起して海岸線から始まっていて少しぎざぎざとしながらも瀬戸内のあのなだらかな稜線を描き出しつつそれが西へと延びている。遥か西の彼方までその山並みは続き途中の目立って高い先山を形作った後でさらに西へと連なっている。その山々に囲まれる様に横たわっている平野には県立病院以外さほど高い建物はなくおとなしい動物が静かに眠りについているかのようだ。人々が住む場所の中心辺りを商店街のアーケードの白く光った直線が貫いている。横たわる動物の丸まったしっぽが西側から時計逆回りに手前にせり出してきて今われわれがいる小さなお城の背後の山を緑なす毛並みでふわふわと造形している。
島外の大学生らしきグループが写真を撮っていて遅れて到着したガイドのような先生のような人がその学生たちをまとめて撮影しようとしているその彼らの背後には今日の青い風景が写っているだろう。彼らにとってその風景はどんな意味を持つだろうか。
この夏見たこの風景は魂の深いところへ達したようで空と海と山と住宅街の全てを染め上げてしまうような穏やかな青い色が染み入るように私の中に侵入し今もその余韻を残している。
今年は蝉が多い。夕立はそこそこ、入道雲も見事だ。住居の前の敷きたてのアスファルトが黒く、毎日燃えるようなフライパン状態でいっそう夏色国(=夏色濃く)。大通りの街路樹は小さすぎて、この東アジアの強さを増している太陽から住民を守るほどの力はない。樹木の剪定をしすぎずにもっと大きく育てなきゃ、夏色国。それでも、夜明けから蝉が鳴き始めるまでの一刻はこの上なく涼しい。
ドーピング疑惑にもかかわらず、IOCが無理やりで押し切ったリオ・デ・ジャネイロオリンピックも始った。高校野球も今日から始まるので、余計に夏色国。様々な人気スポーツの組織が大きくなり肥大化の様相を呈している。いまやスポーツの光の部分だけでなく影の部分(ドーピング、膨大な放映権料ビジネス、環境破壊、スポーツ利権、指導者による虐待etc.)をも知り、勝ち負けに留まらないその本質に回帰しなければ本当の意味でスポーツが賞賛すべきものとはならないだろう。昔ほど牧歌的な世界ではないのだから。(8/9 パラリンピックはロシアの選手を出場させないことで落ち着いた。それはオリンピックだとロシア排除によってTVの放映権料やスポンサー収入の低下につながるが、それに比べてパラリンピックはロシアの選手団は大きな存在ではなく排除する影響は少ないからだと臆面もなく新聞に書いてある。)
私が住む集合住宅は植栽をこの春リニューアルし、その時植えた新しい草花が今順調に成長している。思わぬところに小さな花や新芽、様々な雑草が頭をもたげてきて驚かされる。ここも夏色国。草取りや水やりをしていると、ベランダでのガーデニングでは感じなかった植物の力強さが伝わってくる。世話をしているようでこちらの気持ちが充実してくる。そして、ビールがうまい。友人やこどもが訪ねて来るたびに喜ぶと思っていっしょに水やりや草取りをするのだが、そうではない人もいるようで、世の中はなかなか複雑である。
蝉が這い出してきた沢山の穴、強い光と影のコントラストが毎日懐かしい夏を感じさせている。今年は夏色国。
おとといのバングラディシュ、ダッカのテロは去年公開されたドキュメント映画「ザ・トゥルー・コスト」へのあからさまな返答のような事件に思える。
この映画は、2013年にダッカの衣服生産ビルが倒壊し、1,100人以上が亡くなった事件をモチーフとして、劣悪な工場で働く貧困層へのファッション業界およびグローバル企業の支配構造をあぶり出している。このような搾取構造は雇用者と労働者の問題として昔から存在するが(問題を起こしていた企業は化学系や重工業系でファッションではなかった)、近年はその内容にモラルのかけらもなく犯罪にも近い様相を呈しているように思う。ファッションが文化ではなく、単なる経済のツールになっているからである。
だから洋服の生産国では、様々な感情、特に服の発注国への憎しみが増してもおかしくはない。生産工場の死亡事故がうやむやにされているのだから。
今、日本で売られている服の値段を見ると、依然として安くなっており、そのしわよせがバングラディシュやカンボジアなどの貧困国へと向かって行く。かつては中国、ベトナム、中南米だった生産地がもっと安い労働力の国へと向かっているのだ。服のタグの生産地を見るたびに首をひねり、昔のようには服を買えないでいる。
この映画では,ファストファッションが破壊する貧困国の人々の生活や自然、また豊かな国からの寄付によって貧しい国の産業が破壊されている現実が描かれている。
そして,その国で富める者が利用するのであろう高級レストラン「ホーリー・アルチザン・ベーカリー」で、今回のこのテロが起こっている。バングラディシュにそういう店があることに驚いたが、これは繊維産業に留まらず、様々な産業や政府がらみの開発援助などに関わる事でバングラデシュの国内に住む富裕層が生まれている事を示している。日本人は普通の店として使っていたのかもしれない。
洋服一着の些細に思えるような事項から、格差問題が生まれ、世界を分断するような政治問題につながっていく。とりあえずそのことに気付く事が手遅れにしないための方策だ。
映画「ザ・トゥルー・コスト」トレーラー
アンドリュー・モーガン監督のメッセージ
追記7月8日(金)
バングラディシュテロに関して、詳細な情報が出始めており、今日の毎日新聞朝刊には以下のような記事があった。
「イタリア人を標的か」という見出し文の中に
「バングラディシュは『プラダ』や『ベネトン』などイタリア主要服飾ブランドの生産拠点の一つとなっている。殺害されたイタリア人9人中8人は,繊維業界で働いていた」とある。前述したように、企業がグローバル化し売り上げだけを追求するようになると、文化産業である服飾業でさえこのようなことになってしまうということではないのか。(バングラディシュには、新しい低賃金生産拠点を求めて、すでにユニクロなども進出している。)しかし、このような原因の掘り下げは新聞には書かれていない。
やってくれる人との出会いを待ってみるものだ。
10年以上前に作った眼鏡の鼻盛が低くて、すぐに使わなくなり放っておいたものがあった。デザインは気に入っていたのでその部分だけ金属の足付きパッドに直したかったのだが、そのようなことをやってくれる店が見つからなかった。買ったメーカーでも直してもらえず、また放っておいたら、福井県・鯖江の眼鏡協会の直営店が青山にあるという噂が最近になって聞こえてきた。鯖江と言えば国産眼鏡の最大の産地で、歴史もあり期待できる。そこで、直接店へ眼鏡を持っていった。
店はおしゃれな青山通りをひょいっと入った所にある、新しく,明るく、とてもモダンな今時の店の佇まいであった。鯖江産の眼鏡がずらりと並んでいる。そこでフレームを買わないのは申し訳ないのだが,事情を話し,持っていった眼鏡の状態を見てもらった。とても気持ちいい対応をしてくれたおかげで、こちらが抱いていた申し訳なさを払拭してくれた。しかしまあ、持ち込んだ眼鏡が鯖江産である確率も高いのだけれど……。
「加工を福井県の職人がやるのでできる」という返事をもらったときは踊り出したいくらいだった。古い眼鏡なので加工中に壊れたりするかもしれず、受けてもらえないかと思っていたからだ。長年の経験から見立てができるのだ。すごい。
眼鏡が仕上がり使用し始めて1週間、コンディションは順調のようである。黒いセルロイドから飛び出して付いていた透明の鼻盛りは見事に取り除かれて跡形もない。そこに新しい金属の足の付いた鼻パッドがきれいに埋め込まれている。これだと耐久性も大丈夫に思える。スタンダードな商品でも、少し前のものの方が上質なものが多かったように思う。安売り競争に走らず、きちんと物を作っていたように感じる。
こういった物のリサイクルができると、これはもうアートの領域だ。安い修理ではないが,それは職人の技への対価である(でも、けっして高すぎることはない)。これはこれからいろいろなことをやっていく上での多くの示唆に満ちた買い物→リサイクルであったように思う。そして、あきらめずにその時を待っていれば、何かしらの打開策は見つかる、という教えだろうか。
Glass Gallery 291
冒頭の写真はこの写真のリサイクリング。Mondorian's Glasses and pipe, Paris,1926 by André Kertész
先日、KINFOLKを買った。最新号では、ライフスタイルを大事にする者にとっての今日的テーマが分かりやすい形で扱われている。
目次にある5つのテーマ。
Community
Home
Work
Play
Food
とてもシンプルだ。これだけあれば十分豊かに暮らせるというスタンス。だけど、この誌面の中で見るとミニマリズムという印象はない。
面白いのはこれらのテーマが5つのパートに別れてページ立てされているのではなく、その中のトピックがごちゃまぜになっている。たとえば、コミュニティには7つのトピックがあり、160ページの本の中の22ページ、28ページ、30ページ、48ページ、72ページ、148ページ、156ページ目という具合にランダムにページ立てされている。だから、それぞれのテーマのさまざまなキーワードが本全体の色んな場所から聞こえて来る。
レイアウトが少し変わったように思う。以前は見出し文字の斜体やフォントが強く、あまり感心しなかった。その部分が自然なレイアウトになったように感じる。
この本には派手なファッションブランドやインスタグラムやエンターテインメントやテクノロジーの話題はない。本、映画、スポーツの情報もない。むき出しの人間の本質だけがある。誌面に登場する人々が皆おしゃれでファッション誌のような体裁をとっているが、とても本質的な知的提案に満ちている。こんな思想書を生み出したアメリカの西海岸,ポートランドに興味津々だ。コーヒーもクラフトビールもおいしいらしいしね。
写真家藤原新也氏が主催する会員制ウェブサイト"Catwalk"の中で写真コンテストがあり、私の作品がPhoto award/Catwalk賞を受賞した。その表彰式を兼ねたオフ会が先日代官山で開催された。会員100名以上が集まり、中華料理店での賑やかな会となった。そこで副賞として特装版写真集やリトグラフなどをいただいたのだが、おまけとして藤原さんが使っていた一眼レフカメラCanonEOS 20Dをもらった。今年出版予定の「大鮃」で使用したカメラらしい。解像度が850万画素で最近のカメラと比べるといささか心もとない感じもするが、カメラの価値は画素数ではないと言う。躯体やレンズも良くできているようで、手にした感じがとてもいい。私がこれまで使っていたカメラよりかなり大きくどっしりとしている。「大鮃」の撮影場所アイルランドの埃を纏っている。明らかにこれから撮る写真の質が変わるだろう。新しい画材をもらったようだ。
それにしても、豪快なプレゼントである。彼の事務所には、様々なタイプの新しいカメラや、古いライカM5のボディやカメラアクセサリーなどが無造作に置いてある。彼のようになると、色々なメーカーから声がかかり、新しいカメラを次々と使えるようになるのだろう。人としての位置が上がると、そうやっていろいろなものの流れが変わる。人生という川の流れがより広大になり、さまざまなものを巻き込みながら流れていくのだろう。
学生時代に親からカメラをもらい、写真を撮り始めたことを思い出した。子どもがカメラを始める時、わざわざ新しいものを買うのではなく型落ちのものを親からもらうのが一番自然だ。今回のEOSはそんなもらい方だ。父性を感じるプレゼントを誕生日にもらった感じがした。
「久しぶりにファインダー付きのカメラで写真を撮りたいな」と最近よくつぶやいていた。思いは意外な形でかなうようだ。
追記:藤原新也氏の会員制ウェブには以前にも、飼っていた猫の写真が掲載された。会員数2,000名のウェブに2回も掲載されるのは、きっと何かの縁があるのだろう。この時、ダイレクトにこちらに投げかけられた氏の言葉の輝きは計り知れないものだった。
その時の写真と藤原さんの文章
美味しくなってきたキュウリはこの季節ならではの緑だ。それを見ると夏に食べていたチャーハンが食べたくなる。
幼い頃、我が家には料理や洗濯など家事をやってくれるお手伝いさんが来ていた。商売をやっている家では割と普通にあったのだが、昼と夜の食事は毎日そのちづさんが作ってくれていた。中学生くらいの時だろうか、夏になるとチャーハンにキュウリが入っていることに気づいた。キュウリは酢の物など冷やして食べると思っていたので、最初はあれっと思った。それが夏という季節の印だと気付いたのはもう少しあとになってからであった。ちづさんの作った夏のチャーハンはその季節の気温や湿度、太陽や雨を表現しているようで懐かしい。それは、アジアの国で暮らしていることを確認させてくれる。
田舎ではその時期の旬のものは食べきれないくらいもらうので、様々に工夫して食べる。釣ったばかりの色んな種類の魚、掘りたてのタケノコ、松茸。スイカやイチジクなどの果物。八百屋で売られているキュウリの一袋の量も安くて多い。そして、それが痛む前に何かを作らないといけない。主婦はそこで、料理の腕を磨く。作物のそれぞれの旬は、それぞれに忙しい。
成人して東京で真夏にベトナム料理を食べた時、温かいフォーのスープの中にいくつかのミニトマトが沈めてあった。タイで食べた生野菜は、裏の畑でたった今とってきたような瑞々しい味がした。インドの夏は暑すぎて、生野菜はごつごつしている(食べて、お腹をこわした)。ウィーンのパプリカは、イスラエル産。とてもジューシーで真夏の国の味がした。ロス・アンジェルスの夏は、沢山の種類のベリーが朝食メニューにある。様々な赤が華やかに朝食を彩る。そして、空には雲がひとつもない。帯広や洲本でもついさっきまでそこに生えていた感じのする生き生きとした野菜が多い。自然に生えてきた、その時いちばん美味しいものを食べるのだ。そして、農地が隣接しているのでとても新鮮だ。家ではキュウリやトマトは夏以外には使わないので、これからしばらく食べられるのが楽しみだ。
捨てがたいものは日常の中で時々現れるが、それを捨てないで生かすためにその転用を考える。
お菓子などの美しい箱は手紙などを入れる場所に、きれいな瓶は一輪挿しに、ワインのコルクは張合わせて鍋敷きに、ショップのネームカードは本の栞に。
そのなかで、どうしても転用先が決まらず台所で眠っていたものがある。オイルやキャンディの缶である。
どうしても内側に粘りが残るし、洗うとサビがくる。かといって捨てられない。
先日、ついにそれを転用する事ができた。
とりあえず、洗剤で中を洗う。サビが来ないよう、良く乾かす。そして毎日5cmくらいづつセメントを流し込む。一気に流し込むと、乾きが遅いように思ったので少しづつにした。
見るも麗しいウェイトが出来上がった。
文鎮にしては大きい。
左の500mlのオリーブオイル(高さ13cm)は1.2kgに。これはかなり、ずっしりとくる。真ん中のバジル入りオリーブオイル250ml(高さ10cm)は650gに。右のキャンディ65g(高さ6cm)は300gに。
それぞれ立派なウェイトとして生まれ変わり、作業テーブルの隅でこちらを見ている。
重さというのは不思議なもので、ほどよいサイズで通常のイメージよりも重いものはなぜか時々手にとりたくなる。鉄の球とか、石とか。
台所の片隅にあったものが、居間に出てきたのもうれしい。そして、中にオイルが入っていないので、開封されていても余裕を持って扱えるのもいい。液体が入っていた時よりも固い。コンクリートが入ってるのだから、かちかちである。その質感の変化がいい。オリーブオイルのスクリューキャップは使用時と同じように取り外しができる。キャンディのキャップも開ける事ができる。開けると中の白いセメントが見える。
重さを味わえる美しいオブジェができあがった。
アイビーが賑やかに語りかけてくる
あらゆる場所から呼びかけてくる
いつも生き生きと輝くような表情のアイビーが好きだ
しなやかに、うごめいて、1秒1秒生きている
ヘラクレスオオカブト、ゴライアスオオツノハナムグリ、コーカサスオオカブト、アトラスオオカブト、ネプチューンオオカブト……。
書き出せばきりがないくらい、子どものときに憧れたカブトムシは多いがそれを日本で飼いたいとは全く思わなかった。その気持ちのおおもとには環境の違いがあって、それをわざわざ持って来るよりも、その生息場所へ行って環境ごと見てみたいというのが憧れの大きなポイントであった。 そのカブトムシの潜むジャングルを想像し、わくわくしたものだ。冒険小説を読むよりも、一枚のカブトムシの写真にときめいた。
先日、売買が禁止された特定外来種を売買したとしてテナガコガネの業者が摘発された。ヤンバルテナガコガネとの交雑の恐れがあるとしてテナガコガネの販売者を摘発しているが、テナガコガネを禁止するのなら先述のオオカブト等も禁止して欲しい。この写真を見ても分かるように、テナガコガネでさえ大きすぎて日本の環境には合わない。
何でも欲しいものを手に入れたい日本人の哀れな欲求が見えて情けなくなる。自由な貿易が少年たちから憧れや、夢を奪い、想像力を育まず、お金があれば何でも手に入るということのみを教えてはいないか。欲しければ業者から買わずにその生息地へ行けばいい。少年はまだその場所へ行けないから、いっしょうけんめい想像し、勉強し、その時に備えるだろう。
大人になっても気持ちは持ち続けるもので、スケールは少し小さくなるが外来種への憧れから数十年を経て、私は沖縄で沢山の台湾カブトムシに遭遇し大騒ぎし、タイでは5ホンヅノカブトムシにときめいた。いくつになってもそんな気持ちに変わりはない。
子犬や猫等の販売にしても、ブリーダーの生育のモラルのなさから、購入者が動物虐待の片棒を担ぐような仕組みになってしまっている。哀れな末期資本主義社会日本。
先日の千葉大生による15歳の少女監禁事件にもそのような世相を感じる。手に入れたいものでも手に入らないものがあることが当たり前に感じられる社会になっていかないと、このような事件はなくならないだろう。そもそも本当にほしいものは手に入らないから、それに代わるもので折り合いをつけ、それを良しとして前向きに生きていく事に意味があるんじゃないか。そう簡単にものごとはうまくいかない。そのことを強く願い、心からの想いとともにその場所に赴き、相応の時間をかけてゆっくりをその時を待つ。そのものにはふさわしい時と場があり、しかるべき時にまたは全く予想もしないような時にそのようなものは立ち現れるんじゃないのか。それでもその上でなおそれが手に入るとは限らないのだ。
文旦を四国に住む姉からたくさんもらった。皮が見るからに美味しそうなので、マーマレードを作ろうと夕飯の準備の傍らで煮詰めていった。いい香りが部屋中に漂い、普段の夕飯支度の時間が違ったものになる。一緒に作っている夕飯までいつもより美味しそうに感じる。
一般の食品工場では様々なものを同時に作っているので、少しは影響を与え合っているように思う。隣り合わせに作られているものは、知らず知らずのうちに影響を受けるものなので、食品の裏面に書かれている上のような表記が必要なのだろう。この日、作っていたものは野菜と鶏肉の中華スープだったので、マーマレードの雰囲気を秘めた中華スープになっているんだろう。味にはそれほど影響しなくても、気分的にはそのように感じる。
同じようなことは、食材の買い物の時から始まっている。一応の目標のものを探してスーパーマーケットの中を歩いていても、値引きになったブリやレバーがあると微妙に今日のメニューが変わって来る。大いに影響を受ける。そんな影響を受けずにメニューを決めることもあるが、影響を受けざるをえない日もある。否、その影響を大いに受けてみる。その日こそ、新たなものが生み出される。サラダがブリサラダになったり、ホワイトシチューがローストレバーホワイトシチューになったりする。
手持ちのものだけで何かを生み出さなければならない時に取る手法を「ブリコラージュ」という。その人の野生の思考が試される。そんな行為をしている時には、本当の意味での物を作る楽しさがある。決められた手順で進める成功の間違いがない行為とは対極の、考えながら進めていく失敗するかもしれない初めての行為。こんな小さなささやかな工夫のある行為が大事なんだ。昨日の夕飯のブリと小松菜のサラダを作りながら、「こりゃブリコラージュだろう」と考えていた。
新しく2つの絵を描き作品数がまとまってきたのでHP上に載せてみた。
あの時のあの風景があったなと突然思い出して、写真等を引っぱり出してきて絵作りを始めるのでなかなか点数は増えていかない。
このシリーズは「風景画」と銘打っているがそもそも典型的な風景を描いてはいない。あくまで私的な風景画であって、一般的な風景画とは違うものだ。タイトルと比較してなんだこれはと思われても仕方ない企画である。しかし、これからもいつか知らない間に、心のどこかにひっかかって微かに残っていたものが、氷から解凍されたように姿を現すかもしれない。記憶のなかの地獄巡りのようで、本人としては何が出て来るか楽しみにしている。
2013年に洲本で個展を開いた時に、このようなシリーズがあると洲本の人の気持ちをひとつにたばねるとおっしゃってくれた前川先生の言葉や、沢山の人の言葉の後押しによってすこしづつ制作してきた。原動力というのは、小さな言葉から生み出されることが多い。
モチーフのベースになっているのは、幼い頃の体験に基づくノスタルジーなので、自分を投影した子どもが出て来ることになる。不思議なことは、現実に自分の子どもと洲本にいると、昔の自分と一緒にいるような錯覚に陥ることがある。自分の故郷で子どもを育てることはこういうことなのかと思う。自分と同じ幼稚園や小学校に自分の子どもが通うということ。不思議な感慨にとらわれるだろう。故郷とは違う町で自分の子どもが通う学校へ参観等で行っても、懐かしい気持ちになるが、それが故郷であればもっと複雑な精神作用が起きるのだろうと思う。この絵を描きながらそんなことを考える。洲本で知らない子どもを見ても、そこに過去の自分を投影したりして、イメージの旅は果てしない。
また、洲本は描かれる対象物が破壊されずに残っているのがうれしい。これは町の改変が行われるほど、経済状況がよくないということだろう。国際的な例でいうと経済の進展が止まっていたミャンマー(ビルマ)やキューバの自然が比較的保全されていることと似ているように思う。(だから、これからのミャンマーやキューバが心配だ。)
しかし、なによりもこれが心温まることで、故郷に戻りたくなるのも自然環境が保たれているからだ。無惨に破壊されただけの故郷なら誰も帰りたくなくなる。地方都市が守るべきものは、自然環境と過去の記憶ではないのか。
そして今、洲本では新しい人達が町をつくっている。そこで生まれた人、島外から入ってきた人、職場として通勤している人…。様々な新しい人達が洲本の風景を作り出していることが帰省するたびに伝わってくる。
家で使う器は少しくらい欠けていても家庭で使う食器の味として、そのまま好んで使うけれど、欠けが大きすぎたり何カ所にもなると使いづらくなってしまう。
金継ぎを習っていた先輩から伝授してもらい、飯椀やお皿等7~8種を自分でもやってみた。
修復した器は以前より美しく見え、愛着がわく。直したことが喜びを生み出す。それは、金色という特別な色がもたらすマジックかもしれない。日常の中にはない神秘的な輝きがそうさせるのか…。とにかく不思議な磁場がそこに生まれる。
洲本の実家の川向こうに路地街がある。いまでも帰省するたびにその路地を巡る。道の流れに水平・垂直がほとんどなく、道も歪んでいて何とも不思議な感覚に陥る場所だ。
モロッコのスーク(市場)の迷路に迷い込んだような非日常感とでも言おうか・・。方向感覚を失い自分の位置を掴みきれないような感覚に陥る。それほど広い面積ではないが、不思議な気分を味わいたくて出かける。
そこには住人がいて生活のある場所。もちろん昔のままではない。見知った家が無くなり、幼い頃通っていた絵の私塾も今はない。大きなお屋敷は取り壊され、石垣だけが残る。かつてたくさんの木が茂り、夏の蝉の声が最も大きかったお屋敷だ。門の隙間部分が上の方にあり、小学生には中がうまく見えない。蝉を捕りたくて、通るたびに背伸びして中を覗き込んでいた。今、その一画は動物の大きな群れが少しづつ間引かれ死んでいくような情景だ。しかしそれは自然なことで厳粛な生命の摂理のように見える。それはこの辺りの家々の佇まいの穏やかな表情から感じられる。そこに残された家々は、思い思いの方向を向き、息づき、今も命を生きている。
この一画は私の通った小学校のそばで、今にして思えば迷宮に隣接して小学校が建っていることになる。
小学校時代に読んだマンガで、学校の地下に全く同じ町が存在する、というお話があった。野球のボールを探そうとして校舎の隅の地面に近い小さな換気窓からその世界を見つける、という始まりだった。それはすごいインパクトで子供心に突き刺さった。今では「パラレルワールド」などと呼ばれ、一般的な思考の概念になっているが当時はそんなことは知らない。そのマンガを読んでから、小学校も不思議世界への入り口のような気がしたものだ。
この世は一元的に捉えられるものではなく、生きるひとりひとり、違う概念世界を生きているのだ。
わたしが通っていた幼稚園は少し前になくなってしまった。
しかしその取り壊しと同時に解体された付属の教会が新しく建てられていた。新しい建物は、赤ん坊が生まれる時のように心を明るくしてくれる。組まれた足場が力強い生命のエネルギーを発している。
飄々と生きている父の看護をしながら。
初泳ぎは人っ子一人いないプールで。
監視員もいない。
夏の高校生の部活も、ママさんスクールも、子供たちもいない。
無人のプールで。
自分の立てる音と、自分のせいで起こる緩やかな波。
意外に抵抗を感じる浄化した水の出口からの水の流れ。
自分のペースで。
これがやっぱり性に合っているのかな。
溢れる光、水の甘露。
液体の中の水平飛行。
飛び散るアニマ、跳ねるサウンド。
我が家に大きなプールを作って
自由に泳いでいるかのようだ。
光と色彩と音のトンネルを抜けると
横長の壁があって通過できない。
空中で前転して、もと来た道を戻って行く。
本人にとっては戻っているのではなく
進んでいるのだ。
距離は常に加算されていく。
水底には移動して行く青い地面があって
横になった体が顔を水に浸けた状態でその上に浮かんでいる。
若い頃、1コースだけの25mプールの付いた家に住みたいと思っていたことがあった。
でも、このような公共のプールで様々な人と袖振り合って生きていくのが一番だと今は思う。
それも会員制のプールではなく、公共のプールで。
そこには子ども連れのお母さんや泳ぐのがそこそこのお父さん、小中学校の子ども達がいる。
子連れのお母さんたちは美しく、子ども達はまだイルカ性(せい)を残しているので見ていて思わず頬が緩んでしまう。
残念ながら大人になるにつれて人の中からイルカ性は徐々に消えていってしまうのだ。
だから会員制プールのおっさんたちだけの中で泳ぐのはとてつもなく退屈である。
かつて国際的な競技に使われるプールで泳いでいたある日。
前方から、大きな水流の固まりが
ものすごい勢いでこちらにやって来た。
何千匹もが集まり、高速で泳ぐイワシの群れのようだ。
泳いでいる物体は見えず、
泡立つ水だけがこちらに猛烈な速さでやって来る
。
それはその後数々の世界記録を作ることになるオーストラリアの大きな若い選手だった。
そんな選手と比べるのもおかしな話だけれど
彼よりも長く、年をとっても泳いでいたいと思う。
自分の意志で、好きで。
50分泳ぎ終えると、日常に戻る。
家族連れや独りの男性が入って来る。
私のプールにようこそ。
映画の脚本の執筆に行き詰まった筆者が、フリーペーパーのリサイクル品の売買情報を出している人達を訪ね歩きそこでの出会いを文章化した作品。
筆者がインタビューし(かなりの主観が混じる)、友人のカメラマンが撮った写真が挿入される。この写真が素人っぽく、その場の雰囲気が映り込んでいてとてもいい。
アメリカ・ロスアンジェルスには多様な人が住んでるいる。訪ねて行く10家族、様々な人がそれぞれ問題を抱えて生きている事が表現されている。そして人と人の距離が遠いこの地では当然なのだろうか、筆者がリサイクル商品を買うのではなくインタビューをするために行くと、みんな堰を切ったように自分のことを話し出す。これが現代の孤独を投影してるように思える。
LAの町はショッピングモールに人は溢れているが、道路を歩いている人はほとんどいない。移動はほぼ車である。歩くと区画が大きすぎて飽きてしまう。人工的な町並みで、見るべき風景がないからだ。歩いて楽しい町ではない。あたかも点と点だけが重要で、その間の空間には意味がないかのようだ。
筆者が訪ねていく人々の生活は様々である。希望に溢れる学生がいる一方で、前科持ちのかなり危ない人も出て来る。(傍目から見ると)どうしようもなく行き詰まった人生を母と送っているように見える中年の息子が出て来る。仲良く穏やかな老後を送っている夫婦もいる。
そのようなリアルな人生に出会う事で、作家は自分の書いていた脚本の薄っぺらさに気付きひとつの結論に辿り着く。
その文章と写真の関係性によって新しいアート作品のようになっている。
しかしここまで各人のプライバシーを描き、写真も載せる事には制作者としての一抹の不安も感じさせる。あまりにリアルで、そしてポジティブな面だけではない、かなりダークな側面も記しているから。
もしかしたら、この文章自体がフィクションということもあるのだろうか?ノンフィクションの体裁を取ったフィクション。だとしたら相当捻くれものの作家だ。
そして、最後に訪れた幸せそうな老夫婦の生活から自分の人生や結婚を振り返り、美しい言葉を紡ぎ出す。
「この世界には無数の物語が同時に存在していて、ジョーとキャロリンもそのひとつに過ぎないのだと思うと、なんだか胸が苦しかった。きっと、だから人は結婚するのだろう。物語に足るフィクションを作るために。登場人物を誰も彼も入れる事ができないのは、なにも映画にかぎったことではない。他ならぬわたしたちがそうなのだ。人はみんな自分の人生をふるいにかけて、愛情と優しさを注ぐ先を定める。そしてそれは美しい、素敵な事なのだ。でも独りだろうとふたりだろうと、わたしたちが残酷なまでに多種多様な、回り続ける万華鏡に嵌め込まれたビーズであることに変わりはなく、それは最後の最後の瞬間までずっと続いてゆく。きっとわたしは一時間のうちに何度でもそのことを忘れ、思い出し、また忘れ、また思い出すだろう。思い出すたびにそれは一つの小さな奇跡で、忘れることもまた同じくらい重要だーーーーだってわたしはわたしの物語を信じていかなければならないのだから。」 岸本 佐知子 (翻訳)
フランス語の教科書の装丁の仕事が版を重ね三訂版を制作した。最初の仕事が1998年、2回目が2003年、そして今回2015年で新装版になった。長く使われる本にたずさわることができてとてもうれしい。
そもそも、この出版社の仕事は大学時代の友人が突然電話をかけて来た事から始まっている。
彼とは学部が違っていたが、所属した音楽サークルが隣り合わせのような関係で面識があった。合同の演奏会の時に言葉を交していた。そんな友人から突然会社に電話がかかってきた。
それが1986年、マルグリット・デュラスの本の装丁の仕事が最初だったから、もう30年に及ぶ。年に2、3冊をデザインした。中には箱入りの豪華なCDブックや、ハードカバーの学術書のような本、小説からこの本のような文法書等、またドイツ語、スペイン語などの教科書もありそれぞれの国の色や教科書のタイプを表現していくのはとても楽しい仕事だった。特に会社勤めをしているときには、ハードな日常の中でひょっこり空いた文化的でラテン的でバガボンドでジターヌな彼の性格を象徴するような自由奔放な時間を提供してくれて、とても救われる思いをした。
その旧友が仕事の依頼を持って会社のあるビルの敷地内のカフェにやって来る。内容を聞き、じゃあこういう風にしようかと話が弾む。時間に余裕のある時は、近況報告やアート、映画、音楽、女性問題等、沢山の話題が尽きなかった。さらに仕事がまとまり本が出版されると打ち上げと称して彼の会社のある神楽坂の色々な店で語り合ったものだ。気が合ったんだな。
30代から40代、毎日があっという間に過ぎて行った。新しい事が次から次に起こり、昨日を振り返る時間もなかった。彼は学会や営業で飛び回っていた。
企画したシャンソンのCD付きの教科書にジェーン・バーキンの曲を掲載していた関係で、彼女の日本でのコンサートの時、ホールのロビーでその本を一所懸命販売していた姿を昨日の事のように思い出す。
別の年、ジェーンのコンサートを一緒に見たその夜、彼女が泊まっているかもしれないと目星をつけたホテルへ行くと、確かにそこに泊まっているという事をバーにいた今日演奏したミュージシャン達に確認した。明日の朝、また訪れようと言う話になった。私と妻は朝早くからホテルへ行き、ちょうど出かける彼女に会い話す事ができたが、彼は寝坊してしまい会えなかった、ということもあった。
また、平日がとても忙しくて会えず、休日の打ち合わせになったことがあった。家のそばの海沿いの公園のカフェにお昼時に来てくれた時には同席した小さい娘を連れた妻に「マダム、どうぞ!」みたいなことをいいながらワインを一本取ってくれた。妻は今でも覚えている。
タンタンのキャラクターが使いたくて、ベルギーのムーランサール社まで行った事もあったっけ・・・。
やがて人生は緩やかに軌跡を変え、新たな時代を迎える。
生活から得られる歓びの質が変化し、これまでよりも細やかに世界を見つめるようになる。
そしてこの秋、時代は流れているということを告げるかのようにこの改訂版の仕事の依頼がきた。
彼は去年の夏から病に臥せっている。
この仕事をしている間、思いは彼との賑やかで心休まる時間へと及んだ。彼が健康を取り戻し、またいっしょにワインが飲めればと願う。
メディアが新しくなっていっても、捨てられないソフトは沢山ある。新しいメディアになると旧メディアで持っているソフトでも買い直したりすることもあるが、それも詮無い事で気が進まなかったりする。
2年前に高校時代の友人からカセットをCDにするためのセット(パソコンに接続するためのコードとDENONのカセットデッキ)をもらった。カセットをCD化する作業は一向に進んでいないが、おかげでカセットをまた聴くようになった。CDと比べると音が太くてかっこいい。数値的にはCDに劣るのだろうけれど、音の印象が違っていて新鮮だ。整えすぎていない音楽の生々しさのようなものが再現されている。
また、VHSのビデオデッキも妻が一時期仕事で使う必要があったために、10年くらい前に買い替えたのでまだ十分使用に耐えている。
そして、当時の沢山のソフトが家には残っている。30年以上前のソフトでも生き生きと感じるのはその内容が普遍的で説得力があるからだ。
先日来聴き直したり、観直したりしたソフトの多くは、その磁気テープに中でひっそりと今日の時を待っていたかのようだ。当時と同じようにその美しい姿を惜しげもなく現してくれた。そして、その磁気テープによって涙が流れ、心が動揺する。それがメディアというものの物性を越えたソフトたる所以だろうか。
また、自分の記憶の曖昧さがそのソフトにいい味を付け加えている。
「パリ、テキサス」のサントラ版ってこんなにセリフが多かったんだ・・・。「カオス・シチリア物語」の冒頭の老婆の事はすっかり忘れていたなぁ・・・などと以前経験した事との違いが新鮮な驚きに結びつく。これもまた、新しいメディアで旧ソフトを追体験するのではない発掘ソフトならではの良さか。全く同じ物体が以前とは違う感覚を生む驚き。
そしてカセットから流れて出し朝の食卓に漂う音楽は、昔聴いた曲がラジオから流れて来た時のような懐かしさをも感じさせてくれる。
さらにタイムカプセル的な要素はジャケットに書かれた様々な友人達によるタイトル文字である。長く会っていない友人達との再会のようで、沢山の記憶が蘇ってくる。様々な過去のシーン、表情、時間、匂い・・・若い時代、お互い様々な意識のやり取りをしていたんだなと思い起こす。
古いメディアは、失われた時を求めている人には最適なツールである。
どん詰まりの安保法案審議(参議院)に疲れて、東京現代美術館でオスカー・ニーマイヤー展を見た。
ブラジルの風土からしか生まれ得ないもの。西欧の文脈から大きくはみ出している。コルビュジェの流れがあるとはいえブラジルの地から発想していることで、全く別の世界が生み出されている。だからフランスで作った彼の建築は周りの環境や植生の違いからか、大らかさやダイナミックさが感じられなかった。
住宅の中にもともとその場にあった岩が入り込んでいたりする。また、周りの空間になにもないことや大きな熱帯の植物に囲まれていることで建築の過剰さが美しく納まっていたりする。ブラジル音楽にも通底するその伸びやかな感性に打たれた。何度も見たくなる人工物とは、自然に近づいているもののことだろう。とりわけアウヴォラーダ宮の柱の造形に見入った。本物の建築の前に立つとどんな気持ちになるだろうか。
館内で上映されているのドキュメント映画の中で歌手のジルベルト・ジルがスキャットと手話のような身振りでニーマイヤーの建築を表現していた。詩人のフェレイラ・グラールが「これらの建築が生まれたためにブラジルが突然現代的な言葉で話し始めた」と語っていたのがとても印象的だった。
作品というものが人の気持ちを明るくしたり勇気づけたりする。よき作品は人に自由さを感じさせる。その作品を体験することそのものが歓びとなっているからだろう。
閉館後、地下の講堂でブラジルカルチャーフェスティバルがあるというので参加した。PechaKucha Tokyoという組織が構成したブラジルに関するプレゼンテーションの会であった。
PechaKucha Tokyoはもうすでに有名らしくどんどん人が集まってきた。300人くらいいただろうか。外国人が半分以上。
今回はブラジルについてのプレゼンテーションが8つあった。各人写真20枚を各20秒以内でどんどん説明する。写真がかってに変わっていくのでおのずと限られたポイントだけを押さえた説明になる。これがなかなか秀逸であった。そして大きな役割を果たす写真の力というものをまざまざと見せつけられた。
ブラジル人デザイナーによるサンパウロの鄙びた公園を活性化させたプロジェクトの話や、恵比寿でバーテンダーをやっている日系ブラジル人のカクテルに関するユーモア溢れる話。駐日ブラジル大使によるアントニン・レーモンドや藤田嗣治などとブラジルとの関係のプレゼンテーション。
また、ワタリウムでこれから開催されるリナ・ボ・バルディというブラジルで活躍した女性建築家のプレゼンテーションを渡多利恵津子さんがしたり、今回の展覧会の大規模な展示に関わっているSANAAの西沢立衛氏による存命中のニーマイヤーを訪ねて行った時のプレゼンテーションなど、盛りだくさんで目が回りそうなくらい充実したプログラムだった。このPechaKuchaという会は世界中でやっているらしく今この場が世界とつながっていることを強く感じさせてくれる夜であった。
アウヴォラーダ宮の柱の模型
カノアスの自邸。岩が部屋の中に食い込む。
SANAAが作ったイリラブエラ公園の模型。でかい!
くねくねと這うような庇の中にいる人達の表情が楽しい。
このお二人がPechaKuchaを主催。建築事務所クライン・ダイサム・アーキテクツの創設者。
どんどん人が増えて来る。
ビデオ参加のアナ・ルイス・ゴメスさん。
駐日ブラジル大使アンドレ・ラゴ氏。ブラジルを訪れていた藤田嗣治。
西沢立衛氏はブラジルの自然等に触れた後でニーマイヤーのオフィスにあった写真に注目。新首都ブラジリアを都市計画したルシオ・コスタとコパカパ−ナビーチで寛ぐニーマイヤー。
平田マリさんは去年の伊勢丹ブラジル展の時にカフェで提供するメニューを作られた方。ブラジルの食に関するプレゼンテーション。写真がとりわけ美しかった。
今頃になってぶどうの花が咲いた。
5月に咲かないので心配していた。今年も夏は暑く、西側のベランダにあるこのぶどうの木もさぞかし酷暑が辛かったのだろう。
朝夕が過ごしやすくなり、やっと安心して花を着けたのだろうか。
ぶどうの生育には日中暑く、夜涼しいのがいいと聞く。さらに朝夕に霧が出たりするとなおいいということを、昔どこかで読んだ覚えがある。
しかし、夜は涼しくなったが、この秋の季節では昼の気温も下がってしまうし、昆虫の数も減るので受粉できるのか心配だ。
ぶどう君、どうなるだろう?
果たして実を着けるのだろうか?
ぶどう君、大丈夫か?
参照:
2013年6月12日diary
東京オリンピックのエンブレムが取り下げられた。
発表の席には遠藤五輪相ではなく、組織委の武藤事務総長という人が現れる。スタジアムの時は下村文科相。どこにも責任がいかないようにという、戦争責任不問から続く日本の政治の腐敗した一面だ。
佐野氏のアイデアに決まった時には、デザインの善し悪し云々の前に「涙ぐましいな」と思った。それは、彼がモチーフのTの意味付けとしてTommorow, Team, Tokyoという言葉を持ってきたからである。このオリンピックに対して初めて言葉を聞いた。彼が考えたテーマである。しかし、これではテーマにはなっていない。本来は、このオリンピックの位置づけを国民に対してきちんと訴える必要がある。グランドデザイン。それを一人のグラフィックデザイナーに決めさせてはいけないのだ。
しっかりとした新しいビジョン、このオリンピックをやる位置付けがないから、共感する人は減ってしまいしらけ気分がますます増えるだろう。
そんなお金があるのなら、福島に戻れない福島県の方々の新しい住宅建設に使った方がいい。誰もがそう思う。私は2020年の夏、東京を早々と離れ淡路島の海で泳いでいるだろう。
しかし、みんなが共感するようなテーマは今の政権下では決められないのではないか。今の政治を見ているとそう思う。それは新しい国のビジョンと同じようなものなのだから。
そんな大きなヴィジョンがあって、初めてエンブレムや会場が作れる。それなしにデザインには進めない。デザインの元は言葉なのだから。テーマすらないエンブレムのデザインの善し悪しを言うことはナンセンスだ。
1964年のオリンピックの時は、明らかに戦後復興の仕上げ。だから大きな日の丸を打ち出すのがぴったりだった。
今は違うだろう。これから日本がどういう国になりたいか、どういう方向に進むのか。そんなことを示唆する言葉が必要だと思う。
絵画の展覧会を意識して初めて見たのが1977年の"Peintres Naïfs"「素朴な画家たち」展というものだった。浪人時代に大阪の市立美術館で見た。その時に最も印象が強かったのがアンリ・ルソー。
大作「第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家たちを導く自由の女神(1906年)」の印象は圧倒的で、その開放的な構図と、浮遊する天使の楽園的表現、美しい色使いと牧歌的な人物描写にうっとりしたものである。その時のカタログの図版。
先日、東京近代美術館の展覧会でその絵画と思いがけず再会した。
この絵が日本にあるとは知らなかった。
その展覧会は「No Museum, No Life?―これからの美術館事典/
国立美術館コレクションによる展覧会」というこのルソーのタイトルに負けないくらい長いもの。
その入り口にこの絵が掛かっていた。
懐かしい友人に会ったような、昔聴いた歌が流れてきたような、時空の歪みのような時が流れた。あれっ、と思ってクレジットを見ると「東京近代美術館蔵」となっている。
そのときぴんと来たのが前述した大阪での展覧会のことである。
「もしかしてあのとき、近代美術館がこの絵を買ったのでは?」という思いが頭の上に吹き出しを作るように閃いた。この時の図版をいま見ると「個人蔵、チューリッヒ」と書かれている。
そうか、あのときスイスのこの絵の所有者がお金が入り用になり手放したんだ、と思った。
もしくは、絵の痛みが激しくなり持て余した所有者がこの展覧会をきっかけに近代美術館に売却を持ちかけた。
または、近代美術館の当時の責任者が相場より安い値段でこの絵を買うことができるルートがあり、うまくこの絵を手に入れた。
クレジットを見ると購入したのはその展覧会の翌年だ。
現在の近代美術館のコレクションクレジット
とにかく、日本にこの絵がある。自分が毎日眠ってる場所の近くにこの絵が存在している。
コレクションなので見ることができる機会は多い。
長く生きてると懐かしい絵との再会がある。
東京庭園美術館でみたアンソールの大きな絵とアメリカの美術館で出会ったり、宇都宮美術館のコレクションのマグリットに東京でばったり遭遇したり(他にもあるが多分気づいていない)・・・。
その度に、高い天井から降るように懐かしい思い出の歌が流れてきたような気持ちになった。
音楽を聴きにいく目的は何だろう?
何度もコンサートホールに足を運び、イベント会場を訪れる。
われわれは何を期待して行くのか。
先月のすみだトリフォニーホール。
ゴルトベルグ変奏曲の各変奏の後に即興の変奏が演奏される、信じられないような企画である。
曲数にすると(CDのトラック数にすると)62トラックにおよぶ。それぞれの変奏の後にその曲から得たインスピレーションによる曲が入る訳である。
素人にはその音楽の詳細はわかるすべも無いが、同じようなコード進行の即興であったり、リズムだけを踏襲して全体はフリージャズ的であったり、変奏全体が壊れたような体裁でもう一度演奏されたり、瞑想的で陶酔するような即興であったり。
一方で、バッハの楽譜に忠実なオリジナル部分は、端正で瑞々しく気持ちのいい演奏であった。
そしてその両方が混ぜ合わされる。それは饒舌でチャーミングなおしゃべりのように変化に富み、心を解放してくれる演奏になった。
ダン・テファーはもともとジャズのピアニストらしい(この日のアンコールは、マイルス・デイヴィス!)。1982年にアメリカ人の両親のもとパリに生まれる、とプログラムには記されている。
そのジャズの感性が、生き生きとしたこの日の演奏に反映されていたように思う。私は中央から少し左の位置から見ていた。ピアノの鍵盤が見え、演奏者の少し後ろからの横顔が見える。表情ははっきりとは見えないけれど、彼が表情豊かに笑ったり歌ったりしながら演奏していたことは見て取れた。また、テンポの速い曲では両足を揃えて膝を上下してとんとんとリズムを取り続けたり、中学生のピアノの上手な少年が休み時間にまだきちんとは弾けない何かの曲の物まねをするときのようなわくわくしたような雰囲気を全身から発していることは十分に伝わって来た。このような解放された精神、伸びやかな曲の解釈、自由さというものを演奏で表現することで、聴衆も自由な精神を取り戻していた。それは相当なハイレベルな戦いなのだと思うけれど、その戦いの成果を聴衆は感じ取ることができたのだと思う。
飛んで行く鳥を見るような、成長する植物を見るような体験だったのかもしれない。
彼がプログラムに寄せた文章が素晴らしかったので、ここに(無断で)転載させていただく。示唆に富んでいて彼の音楽を知る手がかりになる文章だと思った。好きなことを好きなだけやる、それも自分流に。それはとても素敵なことだ。彼の演奏からそのことが溢れ出ていた。
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私は「ゴルトベルク」とともに育ちました。11歳で初めてこの曲を耳にした時のことは、今でもはっきりと覚えています。友達とチェスをして遊んでた時に、その友達が親のCDの一つをかけました。それがグレン.グールドの「ゴルトベルク」1981年録音だったのです。もうアリアを聴いただけで興奮しました。これまで聴いたことのない、最も美しい曲だと思いました。(中略)
私は常に、自分は即興者であると思っています。ピアノを始めて間もなく、即興も始めました。確かにたくさんのクラシックの音楽を聴きながら育ちました。母はオペラ歌手で、私を育てながら、それより前、私がお腹の中にいる間さえも、ずっとオペラ座の合唱団で歌っていました。クラシック音楽は常に身近にあり、演奏することも好きでした。パリ・ポール・デュカ音楽院でも学びました。クラシック音楽はずっと私の美学の一部を成しています。それでもなお、自分自身は第一にジャズ・ピアニストであると思っています。
「ゴルトベルク」の即興では、私はただ純粋に、反応することを心がけています。バッハは「ゴルトベルク」全曲を通じて同じコード進行を用いています。それこそまさに私がジャズで行っていることで、特にスタンダードを弾く時はそうなのです。ですから「ゴルトベルク」を即興することは、私がこれまで行ってきた、あるコード進行からどれだけの多様性を引き出せるか、という挑戦と同じだということができます。私はバッハを手本として、多様性を導き出そうとしています。即興者としての私にとって最も重要なことは、声を持つことです。私はバッハに対して、自分自身の声、自分自身の色調、自分自身の語彙を用いて反応しています。
私たちは「ゴルトベルク」がもともと鍵盤楽器の練習曲として出版されたことを思い出さなくてはなりません。各曲は明らかに、私たちに何かを教えようとしています。そこには、バッハの音楽的なアイデアだけが陳列されているのではなく、ピアニストに身につけてほしい技術的なアイデアも散りばめられています。彼の時代、すなわちバロックの時代には伝統的に、楽譜にはその仕組みが示されていました。単に「この楽譜を買いなさい、そうすれば楽しんで演奏できるいい曲だから」ということではなく、「この楽譜を買いなさい、そうすればカノンやフーガがどうやって作られているかが分かりますよ」ということだったのです。(中略)
彼の音楽は数学的にも構造的にも完璧ですが、それだけではなく、人間のあらゆる感情をも表現しているのです。「ゴルトベルク」は単にまじめで劇的なだけでなく、愉快で軽くもあるのです。この音楽には全世界があります。バッハの時代、人々はおそらく音楽の実用的で教育的な側面を好んでいましたが、私たちの時代では、神聖化された精神的な側面を強調します。作品は、異なる時代においては異なる意味を持つようになるのです。これもまた音楽を素晴らしいものにしているのです。
私はバッハの「ゴルトベルク」は、最も深く感動的な傑作のひとつであると考えています。この小さな作品で、バッハは超高速スキーで山を滑り降りる時のような本能的な歓びから、内省的で瞑想的な哀しみまで、信じられないほど広範囲にわたる感情を表現しました。すべての変奏曲はみな大変に美しく流れ、それらの集まりが曲を完全な統一体にしています。これら全ての様々な感情は人生の要素であり、それらは一緒に存在するものであることを、バッハは伝えているのです。あなたは本能的な歓びだけの人生は望めないし、反対に悲しみだけの人生も望んでいないことは明らかです。このコントラストこそが人生を完全なものにし、芸術を完全なものにするのです。
コンサートへ向けてダン・テファーの短いコメント
5月22日から開催していた「旅する絵画 遠くへ近くへ 山田収男絵画展」が終了しました。多くの方に来場いただき病院から駆けつけた父も感極まるシーンが度々ありました。このような美術館と大通りがくっついたような(?)画期的な美しいスペースで個展が開催できたことをすばらしく幸せに感じます。これは当事者家族にとっては特に希有なことです。それを沢山の方と共有できたことを多としたいと思います。何度も無理なお願いを聞いていただいた洲本市文化体育館の清水さんとスタッフの方々に心から感謝いたします。
オープニング前日の夜、柔道練習の帰り道。
病院から初日の会場へ父は無事外出。
初日の昼頃出た環水平アーク。
訪れてくれた子供たちも熱心に記帳してくれます。
阿波踊りの葵連の提灯も通ります!
人形浄瑠璃の人形遣いの方々。
バスケットボール部。
仲良し。
リハビリセンターの方々も。
広いので電動車椅子も走れます。
わいわい歓談が始まります。
じっくり鑑賞の時間。
いつの間にかこんな所に椅子が。
再会。
広場のように。
人が出会う。
沢山来たよー。
子供向けに低い位置に設置した小品。
おしゃれでおいしいカフェが併設されています。
話は尽きず。
ホールではこんな講演もあります。
ドアの外はすぐ河口。時間によって、流れの向きが変わる。
一枚一枚立ち止まって。
絵との時間。
搬入&撤収スタッフ、お疲れさま、ありがとう!
父の絵画展を企画・制作中。
明日から始まります。
父は今入院中ですが、体調を見ながら時々は会場には顔を出せそうです。
お土産物(?)の絵はがきやDVDも制作しました。
散歩がてら絵を見に、遊びに、冷やかしに来ていただけるとうれしいです。
これから搬入です。
旅する絵画 遠くへ近くへ
山田収男絵画展 HP
きのう完成。
5年前から父に話を聞き録音したものを文章に起こしてきた。
絵そのものは今年の正月にアトリエで80〜90点くらいを複写し、色調整、たてよこのプロポーションの修正などをして掲載する絵をセレクトした。知らなかった色んなものが出て来た。
そして文字と絵との兼ね合いが大切な本の構成にした。
デザインフォーマットを決め、まとめていく。
印刷・製本の会社を探す。見積もりがなかなか合わない。部数が少ないので一冊の原価が高くなってしまう。ようやく出会ったのが少し前に知り合い時々小さな仕事をお願いしていた会社。
予算内に納まり、さらにすばらしい印刷と製本に仕上げてくれた。使いたかった紙。経本折という特別な製本。感謝という言葉しか無い。
心地よい手触り。絵が本の中に閉じこもらず外に広がり、こぼれ落ちそうだ。薄いピンクの色が紙と馴染み、心地よい音を発している。
美しくまとまり、父の記念すべき画集になった。
今はもう饒舌に話すことができない父が、画集の中ではとてもおしゃべりで、冗談も言いつつ力強く話している。
懐かしい父がこの本の中にいる。
A4横位置12枚折、24ページ。
伸ばすと3m50cm。気持ちの良い広がり。遠く離れたページの絵を並べて比較したりできる。壁に貼るとポスターに。額装も可。普通の製本だとできない離れ業。
この裏面にも絵と文字がたっぷり入っている。
今日は3つのゴルトベルクを聴いた。ライブふたつにCDがひとつ。
最初に聴いたのはラフォルジュルネ昼12時過ぎからのエカテリーナ・デルジャヴィナ。
ロシアの中堅ピアニスト。
何気ない始まり方をする。その気のない感じで変奏が続く。
こんなに簡単に弾けるんだ。
やる気のない弾き方が新しい。
ひとつの宇宙が作られていく。
淀みなく心地よく流れるようにバッハが息づいている。
落とし穴は26変奏あたりに訪れた。
感情と技量。
クールなだけに気持ちが遅れる。
性格か、テクニックか。
音楽の持つ分水嶺。
2人目はジュリアード音楽院で学んだマタン・ポラト。
夜の9時からのコンサート。
彼はまだ若いピアニストだ。
彼の演奏は高校時代の放課後を思い出させた。
誰かの家でギターを弾こうと集まった何人かの仲間の適当な演奏が始まる。
しゃべりながら、笑いながら冗談を言い合って。
そのギターを弾いている手は止まらずに32楽章全部行ってしまった、というような演奏。
演奏に季節がある。過去があり、現在がある。
ざわめきがあり、若さに満ち溢れる。
そして3つ目は4月発売を予約してなかなか取りに行けずに聴きそびれていたテナーサックスの清水靖晃氏とサキソフォネッツ+コントラバス4台のゴルトベルクのCDである。
この日にやっと手に入れた。
5年前にそのライブ演奏を聴き、発売を待ちに待ったCD。
この5年間はその演奏を熟成し信じられないほどのテンションを持ったものにしていた。
今日のふたつのライブとは違って、スタジオ録音なのでその音質やアンサンブルの完成度はとてつもなく高い。
一枚の精緻な織物のような原曲のその織り目が多層的になり、ところどころに新しい色糸が走ったりしている。
聴いていて気がつくと口笛で一緒に歌っている( 管楽器での演奏だからか)。
また、管楽器で演奏することで、バッハの他の曲との関連性も浮かび上がる。
そしてバッハの意味を遥か彼方へ持っていった。
これはじっくり何度でも聴きたくなる。
過去形で書いたのは、
父には今、手入れや水やりをするエネルギーがないから。
物事にかまう年代が過ぎたということか。
でも、ふわふわと健やかに毎日を過ごしている。
飼い主にほったらかしにされ
雨ざらしにされるがままの花は、
あたかも野生に戻ったかのようだ。
それでも花はこんなにも美しく咲いてくれる。
人にかかわってくれるその自然の豊かさ。
そして、この季節の花は格別に美しい。
洲本市の子育て支援にかかわるハンドブックの企画を小学校時代からの友人とした。
そしてそのデザインを大学時代の友人たちとまとめた。
それが先週末に完成。不思議で貴重な日々だった。長く生きていると楽しいことがある。
作りたい物の方向性が緩やかに重なり、言葉にしすぎなくてもお互いがその方を見ている。そんな仕事になった。とても幸せな出来事だ。
これは妊娠した女性に手渡すハンドブック。そしてこの地に生を受けた子供が中学校を卒業する頃まで、この本の内容は関係する。ここには様々な行政の支援が記されており、健常者や円満な夫婦には必要のない助成制度までもが全て網羅されている。シリアスな面がかなりある。事務的に作れば堅苦しく、辞書のようになってしまう。ここで伝えたいことを端的に表すとすれば、「市が妊婦や幼い子供のいる家庭への寄り添うという気持ち」である。お祝いの花束を渡すように、この本を渡す。そういう気持ちから、このような花と笑顔の表紙になった。O Amor, o Sorriso e a Flor
120ページ、220gはその内容に違わない重みがある。
アートディレクション、写真、イラストレーション:山田宗宏
デザイン&イラストレーション:山崎美佳子(Promotions Light)
葛西臨海水族館で25年に渡って100頭以上が展示されていたマグロが去年の年末から大量に死に始め、とうとうあと一頭になったという新聞記事を見てその姿を見に行った。
子供が小さい時にしょっちゅう来ていたので、この水族館は公園を含めその全ての施設を我が家のように熟知している。今でも毎週のようにその木々や鳥や海を見に訪れる。見たい木や鳥のいる場所を良く知っている。冬にはスキーもできる。
だから、あと一頭になったというニュースはある種の感慨があった。
そもそもこの水族館の成り立ちが、上野動物園で飼っていたマグロを展示するために作ったようなものだから、水族館の方たちの苦労や無念さは計り知れない。
近年頻発する鳥インフルエンザやそのもっと前の狂牛病。人間の効率のために、多くの命を無駄にしている。このマグロの大量死もそんな人間の指向性のひとつの結果と言えないか。都市にある自然を見せる施設のみがサンクチュアリ化してしまい、実際の守るべき本来の大きな自然がないがしろにされている。ますますその傾向が強くなっている感じがする。大海原でのマグロの大量捕獲による死が、この水槽に影響し、死の連鎖が起こる。
人がいなければ、自然の生はより活性化する。
仙台の震災の被害があった海岸では、多くの樹木が復活し、倒木地点では地表に日光が当たりやすくなり、震災前よりも生育しやすくなった種もあるらしい。そして、木が抜けるなどして地面の凹凸が大きい所ほど植物の多様性が高くなっているという報告もされている。
人間が生きていくということは人間の愚かさとの戦いである。このことは地上に人が住み自然がまだ豊かな間は続いていくのだろう。
マグロが一頭で泳いでいる光景からは、その一頭の生の力強さが伝わってきた。沢山いた時とは全く違う。
群れがいなくなり最後に残されたマグロは心細いだろうか。それとも群れの中の方が孤独だっただろうか。
うって変わって外は春爛漫。様々な生の響宴。
去年の冬に植えた水仙が、今年もかわいい花を咲かせた。
その水仙は娘の受験対策に植えたものである。
受験対策に花を植える?と訝しく思われるだろうけれど、それは必要な対策なのである。
子どもの体調を気遣うのには、バランスのいい食事のメニューであったり、清潔な服やシーツや快適な部屋であったりする。そして、心が落ち着く家の雰囲気。それには親の態度や生活の仕方も含まれる。子どもに対する声の掛け方や、その日の話題なども大きな要素である。そんな中に花も含まれる。
部屋に流れるTVの音や音楽や台所から漂って来る香りと同じように、花もそこに住む人に大きな影響を与えている。ひとつの生き物の発するパワーだろうか。生命力を漲らせている花は、語らずして多くのことをわれわれに伝えてくる。人が知らないうちに、生活に影響を与えてくる。その力に支えられたり、後押しされたり。そんなパワーが人に宿り、毎日を動かしてくれる。そして、花を植えるというその行為がひとつのメッセージでもある。もうこれ以上なにもしてあげられない、そう思った時に人は花を植える。
また、その花はハレの花ではなく、ケの花でなければならない。特別な華やぎの雰囲気の花ではなく、日常の花である必要がある。何気ない日常の中の小さな輝き、思いやり、眼差し、親切のようなもの。
受験のような一人で生きていかねばならない日々においては、特に大きな力を授けてくれるように思える。
そんなわけで、去年は冬から春にかけて、山茶花やネコヤナギの枝を飾ったり菜の花の切り花を生けたり。子どもが大人になって行く時に、親ができるささやかな手助けである。
震災から4周年にあたって、東北の仏像を集めた展覧会が開催されている。
地震で転倒し京都での修復を終えた仏像等が、上野の博物館に集められ私たちの前で佇んでいる。
傷ついた東北の様々な思いを伝えるために、仏様自らが行う興行のようである。仏像群の前で人々がわさわさしている様子はあたかも、様々なアーティストが出演するロックコンサートのようでもある。多くの人が集まり、舞台の上の仏像を見つめている。
本来ならわれわれが新しい仏像等を作り(昔の人々が、災難が起こった時に鎮護国家を祈って作ったように)その地に納めなくてはいけないように思えるが、そのような話は一向に聞かない。もし、そんな場所ができれば、全国の人が祈りに訪れやすくなり、ひとつのモニュメントにもなるのに。昔はそうやって、寺院ができ仏像ができたはずである。
東北の仏像たちは慈愛に満ちた美しい表情と姿をしている。それはその土地と風土によるものか。
人の手によって作られたその仏の形は、素朴さや洗練、おおらかさと峻厳さ、豊かなふくらみをたたえ、訪れる者を包み込んでいるように感じる。
その前で手を合わせ小さな思いを捧げる。
いい年になると、きちんとした買い物をしたいと思うのだけれど、若者が数年しか使わずに破棄してしまうようなものを大人も買わざるをえなくなっている。
代表的なものは現代生活で必要な携帯やPC、それに付随する消耗品。愛着が出て来た時にはもう壊れてしまう。もしくは古くなって、使えなくなってしまう物たち。
かつては、直しながら一生の間使えていたもの。破棄するのがいやで、注意深く商品を選んだりしていたが、いまはもうそれもかなわない物が多い。
先日、10年くらい家に置けずに預けてあった妻のハモンドオルガンが帰ってきた。子どもたちが2人家を出たので多少のスペースができたから。
1960年頃につくられたBー3。その家具のような作りや、内部のゆったりとしたあしらいを見ていると、本当におおらかで美しい。美しさは大きな美徳であることがよくわかる。そして何10年も使い続けられる。そんなものに囲まれて暮らすことは、人間に備わっている精神的、身体的な美的受容体にとってもいいことのように思える。
チェンバロのような佇まい。中はトーン・キャビネットと呼ばれるスピーカーの内部。下はトーン調整レバー。
もうひとつのスピーカー、レスリー。上部の影の中に隠れているトランペットのような二つのツイーターが回転する。下を向いたウーファーから出る音をメッシュ状の回転するローターを経由して、キャビネット下部から発声する。恐ろしくも天才的なレスリーさんが作ったスピーカー。トーン・キャビネットとレスリーを繋いで、両方から音を出せるらしい。うまく接続できるか。
神戸の親戚の店が映画のロケに使われた。日常的に遊びに行ってる場所が、それも開店時からずっと身近な場所が非現実の映画の中に現れると不思議な感じがする。その映画が現実味を帯びて来るというか、現実がフィクションの空間になってしまうというか。人間の感覚はとても鋭敏でいて曖昧だ。
テレビの映像で見るシリアなど中東の現実をわれわれはリアルな現実として感じていたのか。大規模な空爆によって命を奪われている多くのイスラム教の人々の親族や友人たちからISという組織を生み出してしまったことを、どこまでイメージできているのか。
映像を見ることは、個々人のイマジネーションが試されることである。
http://tsukuroi.gaga.ne.jp/
「6歳のボクが、大人になるまで(原題"Boyfood")」を新宿の小さな映画館で見た。
開演前に小さな音で場内に流れている音楽やその歌詞が気になった。「これは、好きな曲だな、映画が終わったら係の人に誰の曲か聞いてみよう」と思いながら、本のページをめくっていた。間奏の不思議なハーモニーもとても気になっていた。
やがて映画が始まり、物語が進むに連れて、「さっきの曲はこの映画の曲なんだ」という思いが芽生えた。そしてその曲が流れて来た。
映画の素晴らしさはもちろんだけど、こんな風にこの曲との出会いも素敵なものだった。
こんな映画がアメリカでできたこと(アメリカには時々、ささやかで素敵な映画を撮る監督が現れる)、そして監督がこの曲を選び、それを見た観客がCDを買い、ネットでアーティストを捜しそのヴィデオに出会うということが、時と場所を越えて、世界規模で広まって行くこと。
自らその渦中にいることが、とても嬉しく思える体験だった。
この映画の中にあるように、人への小さな気持ちによってわれわれは生かされていて(小さくて時に見落としてしまう)、そこにこそ喜びがあるということ。そして、この映画やこの曲との出会いもまた、そんな小さな出来事のひとつである。
Family of the Year - Hero [Boyhood] (Official)
http://www.azlyrics.com/lyrics/familyoftheyear/hero.html
時空がひっくり返っている本。マンガのイディオムが解体されており、未体験の読後感を与えられる。最も単純な線で最も美しい世界を創出している。日本の科学者とその著書の紹介マンガである。その4人の著書を紹介する母子、とも子ときん子のキャラクターがとてつもなくいい。何度も彼女達に紹介されたいと思う。
第二次世界大戦を挟んで生きた人々の人生、やるせない暗さを孕みつつ希望を見い出した生き方の力強さに満ち溢れている。詩と科学と哲学の分岐点。
著書について多くを語っていないが、そのことで科学の本質のようなものが顔を覗かせる(?)。作者高野文子もまたひとりの科学者だ。
時々ロックがとても聴きたくなる。
昔はよく聴いていたけれど、最近はこれといった曲が耳に入ってこない。これは、時代のせいか、そういった情報に触れなくなったせいかはわからない。世の中が複雑化し、シンプルに物事を考えられなくなってるせいかもしれない。政治も。世の中に問題が多すぎるのだ。
だから、時にはロックが聴きたくなる。
力強くシンプルなギターのリフ。
地面を踏みしめるようなドラム。
声に形を変えたエネルギー。
顔を上げ遠くを見つめる視線。
恋の詩。
そんなロック特有の世界に触れたくなる時がある。
いつもそんな気持ちで生きていけたらと思う。
先週末に図書館でふと手にしたCDがそんなことを思い出させてくれた。
JAMES IHA"LOOK TO THE SKY"(2012)
https://www.youtube.com/user/jamesihajapan
昨夜、久しぶりに会った大学時代の友人達と酒を酌み交わしていた。ずいぶん長い間会っていなかったのに、時間は昔と同じように流れ、あの時と変わらない雰囲気になる。本当に何十年も過ぎたのか?今がその時なのか?そんな不思議な気分の夜だった。
彼・彼女らはカトリック教会の勉強会の帰りだったので教会の話になった(教会の話ができるのは本当にうれしいことだ)。土曜の午前中に面白い講義があるらしい。私も教わった懐かしい神父さんの講義だ。でも、あいにく土曜日の午前中はプールと決めている。どんな場所であれ、厳粛な気持ちになれる場所がその人の大聖堂になると思う。そこへ行く人の気持ちの持ち様で、行く場所が野球のグランドでもいいし、図書館でもいい。そんな気持ちでいるものだから、「教会での時間はとても好きだけれど、今の自分にとっての土曜日の朝の大聖堂はプールかも」というような会話をした。
そんなことを思い出しながら今朝泳いでいたら、プールが大聖堂のようになり、グレオリオ聖歌が流れて来たような気がした。
{ グレオリオ聖歌 }
こんなプールがあったらゆったりした気分で泳げるだろうか。ステンドグラスは水面にも映り込み、さらにそれが波で揺らめくので、もっと神秘的な雰囲気になるだろう。泳ぐ人の体にも様々な色が投影され、とても美しい空間が生まれるかもしれない。特に冬場は、太陽の位置が低くなるので、真横から光が差し込みステンドグラスも輝くだろう。その輝く光の洪水の中で、人々が黙々と泳いでいるのは美しい光景かもしれないな。クリスマスにもうってつけか。
わいわいがやがや
ざわざわゆらゆら
わんわんにゃぁにゃぁ
ぴーぴーバタバタ
てくてくりんりん
こらーコンニチハ
ナニシヨンノおひさしぶり
あらあら偶然バッタリ
ちょっとちょっと
ほー!
やあやあご無沙汰
こんなんしよったん
路上は楽し
色んな方が通りがかってくれました
私がいない時に
通りがかってくれた方々にも
ありがとう
このポスター達も
パワーを与え
与えられて
また眠りにつきます
[ヤマダレトロ Munehiro Yamada RETROSPECTIVE 1979–1984
Exhibition in Sumoto October 18&19, 2014 ]
マン・レイ、セルジュ・ルタンス、ミロ、横尾忠則、アンディ・ウォーホル、コム・デ・ギャルソン‥‥‥。20代の前半に大好きだったアーティスト達がそのまま画面の中に放り込まれている。シルクスクリーンの色んな画法を毎回試しながら、こんなポスターを大学時代に作っていた。
この時代は東西冷戦の時代。アメリカとソ連(今のロシア)の核戦争の恐怖があった時代。気分が思わしくない夜にはベッドの中で世界の最悪の時を考えた時代だ。
大学に入ったらシルクスクリーンをやりたいと思っていた。情報を色々集めてその時を待った。
制作が始まった大学の前半期は細かい文字までニス原紙をカッターで切っていた。その後、ツーシェを使ったり、写真製版を覚えたりした。感光用のライトなど当然ないので、下宿の外の道で秒数を数えながらガラスで挟んだリスフィルムを日光で印画紙に感光させた。それを台所の流しで洗い、シルク面に転写する。技法は、IZUMIYAで教則本を立ち読みしていた。ウェッブで調べるなど遠い未来の話で、ネット検索にはあと20年の歳月が必要であった。刷る日には、友人達が徹夜でつきあってくれた。毎回20〜30枚。夜食は近所のサッポロラーメン。狭い下宿の部屋で油性のインクを使っていたのでかなり強いシンナーの匂いがしていたと思う。それでも中野区上高田の下宿の大家さんには一度も咎められたことはなかった。
東京の空から降り注ぐ太陽が印画紙を透して、描いた絵や文字を版に変換してくれる。そして様々な人々に守られながら、新しい世界を垣間見ながら生活していく。その生活の中には果たせなかったことややり残したことに対する悔いも数多く残して来た。そんな驚きや喜びや悲しみをひとつひとつ積み重ねることで、美術の道を選び取る大きな力を得たように思える。
それぞれのポスターには、それぞれの思い出が定着されている。
遠い時を経て見るこのポスターのシルクスクリーンのインクは強く、退色は感じられない。精魂込めて選んだ紙はへたることなく強靭な腰の強さを維持している。
今回収蔵庫から取り出したポスターたちから得たものは、この上ない人生の恵みであった。
今週半ばから所用のため地元洲本に2週間ほど滞在予定。そしてこの週末にちょうど「城下町洲本・レトロなまち歩き」というお祭りがある。空き家になっている古い民家や町中の様々な場所で、市外からの出店希望者や町の人たちが工夫を凝らした手作りのお店やイベントを展開する。今回ポスターを担当したこともあり、きちんと見ておきたいなと考えていた。でもどうせ地元にいるのだから、レトロに因んだことが自分でもできないかとも思案していた。そして先日プールで泳いでいた時にふと浮かんだアイデア。これはまだ実現できるか未定であるが、帰ったらトライしてみたい。
自分にとってのレトロ、ということを考えた末に行き当たったのはレトロ=reto=retrospective=回顧展であった。そういえば、家の収納庫の奥の方で丸まったままの学生時代に作ったシルクスクリーンのポスターが沢山眠っている。これらに風を通す意味でも蔵出しして展示できないかなと考えた。とりあえず丸まっていたポスターを何日も掛けて平に伸ばした。腰の強い紙を使っていたのでなかなか平にならなかった。そして板段ボールをそのサイズに切ってもらい台紙にしてビニールでパッキング。35年ぶりに顔を見せたポスター達は心なしか微笑んだように見えた。
大学を卒業して働き始めると、新しいことを吸収することに夢中で、学生時代のことはどうしてもどこかにしまい込んだりして積極的には思い出さなかったりするものだ。
でも、そこには夢中になった時間が凝縮され、フリーズドライされて保存されていたりする。とてもかけがえのないものだ。そんな時間を、呼び戻してみたい。
レトロとは、わざわざ新しいものを作り出すのではなく、もともとあったものに新しい光を当てることではないか。新しい命を与えることではないか。
これらを町中にぶらさげたら、殺風景な通りに花が咲いたような感じになるような気がしている。花が咲いて、それで何の意味がある?と、問われても意味はない。ただ、そこに花が咲いているということでしかないのだ。花は意味もなく咲いて(種を残して繁殖する目的はある)枯れてまた咲いていく。花が咲くように、鳥が鳴くように、雨が降るようにそこにポスターが咲いてお祭りが終わって取り去られて行けばいい。そのことにとりたてて意味はないがもしかしたらなにかを心に残すかもしれない。
そんなわけで、とりあえずやってみようかな。でも、天候や様々な条件でできないかもしれないけれど、洲本ならではの乗りで実現できればと期待中。
告知ロゴ
正倉院(?)から蔵出ししたポスターの一部
城下町洲本・レトロなまち歩きのポスター
子供の学校へ行ったりするたびに、自分の少年時代の先生のことが思い出される。
小学校時代の家庭科の西村先生はアイロンの掛け方の授業の中で、「余熱の利用」について教えられた。アイロンの作業の終わる少し前に、電源を切りコードを抜いてもアイロンは熱いのでしばらくは使えるということ。先のことを意識して、今のことをする。その時、子供心にも「頭いいな〜」と思った。先生は生徒の知らないことを教えるので、先生の言うことは全て「頭いいな」と感じさせてもいいようなものだけれど、生徒はそうは感じない。
今でもアイロンを掛ける時、思い出す。また、スパゲッティの茹で汁を取っておいて、食後のオイルがついた皿を濯いだり。その教えは様々に形を変えて、生活にとけ込んでいる。そんな行為をするたびに西村先生の顔を思い出す。
また、同じ小学校の土手先生は朝、校門の前で生徒を出迎えていたのだが、ある朝車にはねられて死んだ猫を見つけた。その時、「死体をいつまでもそんな所にさらして置いておくのではなく、草の下に運んで土に返してあげるんだよ」というようなことを言われた。
これはこの一つのことで、死に対する人の気持ちの有り様、哀れみの心、小さなものへの慈しみの心、輪廻などをまとめて教えたようなものである。「それは大切なことで、学校に遅れてでもやるべきことなのである」という教え。
ついこの6月にも夜の町の道路で死んだ猫が横たわっていた。つぶれている。自転車で町中探しまわって、大きめの段ボールを拾って(どうもこれはツバメの糞をよけるために店頭に敷いてあったものらしかったが)、死体を脇に寄せ、猫に被せた。何年か前の夜には、学校の校門脇の生け垣のところで猫がきれいな姿で死んでいた。娘と一緒に段ボールを探しその夜学校にいた先生を呼び出し、その中に入れた。その先生は、「よかったです、明日の朝じゃなくて」とおっしゃった。「ん?」と思って聞くと、「明日の朝、生徒が見つけたらびっくりすると思ったので、今日処理できてよかったです」と言われたので、何も言えなかった。明日の朝、生徒と一緒に校庭の脇にお墓を作ってもらいたかったという、甘い考えが吹っ飛ばされた。すぐに保健所に連絡して取りにきてもらうのだ。本当は生徒に生と死を教えるとてもいい機会だったと思うのだが、そんなことをする時間は学校にはないのだ。
今でも私はカナブンや蝉の死骸を道路などで見つけるたびに、道路脇の植え込みなどの土の所に置く。
中学の時、いつも年下の若いボーイフレンドが車で校門まで迎えに来ていた山田先生。
性教育などというだれもやりたがらない授業を引き受け、おもしろおかしく授業を展開した津田先生。生徒にしてみれば衝撃的な授業。本職の国語では、めぼしい生徒だけ集めて自宅で夜文法を教えていた。今だと、えこひいきする先生として大いにたたかれるようなことを普通にやって人気があった。魅力あるおやじのお手本のような先生。
何かの約束を破った先生に反抗してクラスの有志が授業をボイコットし後で呼び出され大いに叱られた。その時の叱り方に威厳がなく、かえって人気が上がってしまった久保先生。
授業中に私のこれ見よがしな英語の内職を見つけるたびに机の脇でさらりと咎めるのだが、実際は黙認してくれていたように思える高校の古文の杭田先生。けっして大声を出さず、静かに生徒の成長を見守ってくれていたのか。その時代の少年は何を言っても聞かないものなのだ。
先生は、どんな形であれ生徒の中に教えを残してしまう。
プールで泳ぐ時はなるべく音を立てないように。特に朝早く、人影もまばらなプールでは。
クロールの指先が水面に着水する時、人差し指が水の表面を突き刺すように静かに入水したら、水中で水を押し込むように腹部の下を通って腿の方へ水を押しやっていく。力強い水流を生み出すように。
ビートは水面から少し下あたりでしなるように水を撹拌する。飛沫をなるべく押さえて、推進力を得る。
ターンにおいても、何事もなかったかのように(忍者のように、ブルース・リーのように)回転をしつつ瞬時に静かに壁を蹴って、水中で蹴伸びをする。推進力を得たまま泳ぎの流れに戻っていく。
平泳ぎに移ると、視界が水上と水中の半々に変わる。
水上の景色は泳ぐプールによって様々だ。大きな窓越しにきれいな木々が見える。テニスコートがあったり広い空と雲が見える場合もある。遠くに山並が見えたり、ビルの壁の場合もある。天井からの自然光のシャワーが降って来るプールもある。
水上にある様々なものが水面から顔を出すたびに目に入って来る。5mの印の三角のフラッグのラインはその色の組み合わせによって、ずいぶんと印象が違う。濃いイエローとブルー色合わせのフラッグはその色の組み合わせならではの音を発している。音のラインがそこに出来ている。それは、明るいブルーと白との組み合わせによる音とはまた違う音である。タイムを計る大きな四角い時計はたいていEVERGREENと書かれた紺と濃い赤の組み合わせの時計だ。紺と濃い赤が力強いスポーティさを表現しているのだろう。スポーティな音を発している。
水中の風景も、天候やプールのデザインによって雰囲気が異なる。国際規格のプールでは水深は深くあたかも海の底の崖の上を通過しているような錯覚に陥る。眼下には沢山の魚の群れ。なかなか前へ進んで行かないように感じる。そして水中はたいてい水色にペイントされていて、センターに紺色の太いラインが敷かれている。ラインがあることで方向性とスピード感を感じる。気の利いたプールならスピーカーが組み込まれていて、プールにふさわしい音楽が水中に流れていたりもする(そこでは決して
「ブラジル風バッハ」などは流れてはいないが)。水の中の明るさも様々だ。そして水面に浮かび上がる時に一瞬見える水面の裏側の輝きは、どんなプールでも美しい。現実が揺らめいて水上と水中のその中間にある、もうひとつの別の世界のようにも思える。
それにしても、何十年もなぜ週末に泳いでいるのだろうか。タイムを競うでもなく、だれかに勝つためでもなく。塩素消毒材をたっぷりと含んだプールの水は決して体には良くないだろう。冬場に泳ぐのは、自然な生活とは違う方向だろう……。
赤ん坊のいる世界に希望を感じるように、泳ぐという行為が何かへの希望を感じさせるのだろうか。あるいは、これは泳ぐ形をした祈りなのだろうか。
前川和昭先生には去年洲本で37年ぶりにお会いして、この日初めてご自宅のアトリエにお邪魔した。先生は私の高校時代と変わらず穏やかで、側にいる時間が本当に心地よかった。
母屋の横に建てた小屋。手作りのギャラリー。彫刻家の息子さんの作品も一緒に並ぶ。
洲本の町の端正なスケッチに混じって、逆さまになったメトロノームの作品。内部が金色に塗られて普段覗けない内部が覗ける。スカートの中の宇宙、もしくはマン・レイへのオマージュ。現代美術作家でもある先生の面影ある作品。
奥様がコーヒーを淹れてくださって藤棚のような木陰でクッキーと共にいただく。(藤棚ではなく、少ししゃれた木であった。名前を伺ったが失念。今度また聞いてみよう。)
ここに連れて来てくれた前田敏哉君と一緒に。彼はいま洲本の朝日新聞で記者をしており、私の知らないこの島のことを教えてくれる。とてもありがたい同級生。(最近地元で色んな人が色んなことを私に教えてくれる。おかげで今、淡路学を勉強中。)
こんな鳥のオブジェが飾られている。これも先生の作品。
庭へ出る。野菜やハーブ、栗、柿、山桃の木。昔の農家風の家のあり方が、とても自然で心地いい。庭の手入れをしていても、すぐに半日過ぎてしまうだろう。手作りの焼却炉も。
母屋へ入る入り口の所には、壊される学校から譲り受けたメトロノームやベンチ、ハンダ付けした金属の作品が飾られている。椅子の背もたれには、奥様が作られた鳥がいっぱい留っていた。
何もかもが自然でゆったりしていて無理が無い。これは先生の性格や育ったこの場所の環境によるものか。会話の端々から、先生が鳥や昆虫や自然を愛していることが伝わって来るからか。おそらくマチスやクレーたちアーティストも、人生の山を越えて生きて来たことをこんなところでだれかと語り合いながら晩年を過ごしたんじゃないか、なんていうことを思い巡らしてしまうようなとても羨ましく瑞々しい場所だった。
悩み多き高校時代に担任だった先生と(たぶん当時の先生にも生きていく上でのいろんな葛藤があっただろう。なにせ美術の教師が理系のクラスの担任をやっていたのだ。そう、私も理系だったのだ。)、長い年月を経て今こうやって語り合えたりしていることは、人生の中で最も嬉しいことのひとつなんじゃないかと思ったりした一日だった。
ギャルリBANYA
洲本の自宅から車で15分位のところにある由良小学校へ。新校舎に父の絵を寄贈した関係で竣工式に参加した。
4年くらい前に父がこの町の海辺を取り巻くような地形の成ヶ島の絵を描いた。去年たまたま私の学生時代の友人が校長として着任しており、その絵を寄贈しようかと持ちかけたところ、話がまとまったのである。
この島はとても面白い地形をしている。
港の前にある堤防という趣の島で、形がとても優美である。
新校舎からは、この島が目の前に見える。まさに横たわっているという感じ。成ヶ島の奥は、もう和歌山である。
市長さんを始め、沢山の方から父は労いの言葉を受けていた。年を取るのもなかなかいいものである。
絵があるべき場所に収まった、という感じがした。
絵というものはつねにあるべき場所を求めて彷徨っているものだ。描かれたモチーフが目の前に見える新しい校舎。こんなにぴったりと収まる場所をこの絵は得たと言える。絵の気持ちもさぞ安らかだろう。そしてこれからは、賑やかな小学生達と暮らしてゆける。なんとよき人生/絵生(?)を得たことか。
また、絵というものの持つ機能、役割。学校という建物だけではなく、その中に絵というものが入っていることで生み出される奥行きや深み、広がり。机や椅子と一緒に、絵がその中に入っている校舎。そこでは子供達の声が響き、音楽が奏でられるだろう。そうやって人の生活は彩りを帯び、生きる喜びを得てゆく。
それにしても先生や生徒達、この学校の雰囲気は本当にいいな。
親戚におめでたい行事があったので、珍しい季節に洲本に帰ってきた。
また、学生時代の友人たちが何やらわくわくするような仕事や遊びの企画をしてくれて、色々な部分を活性化する日々を過ごしている。五感、六感が動いている。楽しい。
この季節のこの町は本当に久しぶりだ。おおよそ35年間、真夏と12月〜1月にしか帰省してこなかった。あ、この木は6月にこんな花をつけるんだ。6月はこんな空の色や雲なんだ。こんな調子で色々と新鮮な暮らしである。
その一方、合物の服を着て、町を流すのは少し照れてしまう。思いっきりラフなTシャツでもなく、大人っぽい真冬のコートを着てるのでもない。中途半端な季節の子供染みた格好をしているように思えてしまうから。光も、夏のざわめきには少し早く、手持ち無沙汰な感じがする。お年寄りの額に流れる汗はそこそこで、まだ浅い季節に対して気持ちの余裕がある。
そして、この季節はツバメのひなが沢山騒いでいる。巣立ったやつも沢山いるが、巣立ちのトレーニングをしているひなや親ツバメで町はとても賑やかだ。
そんな季節が、目の前で展開中。
今年の我が家でのバラの咲き始めは4月29日(月)だった。
そして、今その盛りを過ぎようとしている。
3週間以上、毎日新しい花が開花し、ベランダを賑わせてくれた。毎朝おはようとこちらに話しかけてくるようだ。そして、次から次へと咲き乱れるようにその命を惜しげも無く差し出す姿は、どんなにばかばかしい王様の時代にあっても、全てを肯定し美しく生きて行く力強い生命の有り様を感じさせてくれる。
毎朝ベランダに佇み、その命の息吹をいただく。
花々は、時に何かを語ろうとしているように見える。
きのう終了した伊勢丹ブラジルフェアの店舗デザインについて。
私が制作したキャンペーンビジュアルを多角的にアイコン化し、店頭での賑わいとフェアの顔作りとしてとてもかっこよく展開していた。描いた絵やデザインしたタイポグラフィが自分の手を離れ、いい形で増幅されていくのを見るのはとても楽しい。
今回の場合、百貨店全館でブラジルフェアをやっている訳ではないので、「この区画でやってます」ときちんとアピールし、さらに色んなところでそのサインに出会うことで、相乗効果でお祭りを盛り上げるというアイコンの使命がある。ここにも、あそこにもと何度もそのアイコンに出会うことでひとつのブラジルフェアというイメージが醸成されていく。
まず、1階のメインステージ。ここはハワイアナスのビーチサンダルがメインの売り場。売り場を取り囲む大きなユニットの壁面や、販売員の方のTシャツ以外の細かい部分にもアイコンの花模様を切り取るように使っている。これは店頭で配布されたフライヤーで、デザイナーの樋口牧子さんが施した動きのあるデザインからの変奏である。
地下のブラジル料理を提供するレストランとビールやシュハスコのお店のディスプレイ。アイコンの矩形やベタ面の色や形が工夫されている。美味しそうな感じも表現していて、上手い。
各フロアのエスカレーターの踊り場。ここも全て違うデザインで、展開が工夫されている。とてもかわいい。
2階のファッションコーナー。壁全面の木目模様を含め、一枚の大きな壁紙としてプリントしている。こういう壁紙を市販したら売れるかな?
外部の通路。地下鉄との接点の地下道のデジタルサイネージ。
そして、ブラジルナイトでの中原仁さんのDJブースの正面。
これ以外にもっと沢山の細かいサインが山ほどあった。アイテム数として、どのくらいあっただろう。さすがに初日は漏れているところがあり、あれ?と思う部分もあったのだが、二日目にはすっかり改善されていてそのことにも感心した。
とにかく、ディスプレイの現場の方々には頭が下がる思いだ。ここまで作り込み、仕上げるのは並大抵ではない。
しかし、それにも増してすごいと思ったのは、売り場の販売員の方々の客への対応力である。
毎週のようにイベントが変わり、そのたびに商品やその背景を勉強して客に当たらなければいけないのだと思うけれど、とても気持ちよく質問に答えてくれたり、2度目にお会いした時にはそのことを踏まえて対応してくれたりする。そんなことは、百貨店では当たり前のことなのかもしれないけれど、何かが違うのだ。
伊勢丹は店頭の方々の存在によって、売り場に活気が生まれ、他には無いエネルギーに満ちているように感じる。それはもしかしたらそこで働くことの喜びのようなものかもしれない。販売員の方々に生命力がある。そういうものがあるからこそ、客との間に自然なコミュニケーションが生まれ、物が動くのではないか。交易の原初の形がそこにはあるような気がした。そして売り場にある様々なデザインや、数多くの人々が仕事にかかわっていくことで、異なるエネルギーが混ざり合い、大きなうねりを生み出しているのだと感じた。
ゴールデンウィークに新宿伊勢丹で開催されるブラジルフェア『アブラッソス・ド・ブラジル〜ブラジルの抱擁』のキャンペーンヴィジュアルを制作。
ブラジルの持つ多様性、混合性、自然の力、人々のエネルギー、意外なモダンさ、光、影、‥‥。
そんな複雑さをキャンペーンヴィジュアルとしてシンプルに強く表現すること。
それが表現すべきテーマである。
しかし、ブラジルの多様性はシンプル化することでは表せない。
だから逆にグラフィック表現特有のシンプルさを複雑化する必要がある。「シンプルな複雑系」というような表現。そして全体から受ける印象は「過剰」であること。これが、このビジュアルを制作するにあたって肝に銘じたことである。
そんな矛盾する内容を一枚のヴィジュアの中に息づかせた。
その象徴として様々な花をモチーフに選んだ。
花々は美しい色彩とその多様な形で我々を魅了する。
瑞々しい生命力に溢れ、どんな時でも生きて行こうとする。
花々はまた暗闇に潜む野生動物の目であり、空に向かって広げられた女性の性器である。
ブラジルはこのように多様な生と性に溢れた国なのだ。
また、この作品は今回のフェアで来日するブラジル人アーティスト、マウリシオ・ヂ・ソウザ氏のキャラクターMonicaと画面の中でコラボしている。彼は「ブラジルのディズニー」といわれている「超」が付くぐらいの巨匠である。しかし、彼の描くキャラクターは日本人には郷愁を感じさせる。彼は手塚治虫氏と友人であり、色々な影響を受けてきたからだ。Monicaの足はウランちゃんの足を思い出させて懐かしい。
今回のために描いてくださったMonicaは何ものにもとらわれない自由に満ちた表情で抱擁している。
描いた絵はB1サイズ。下記のリンクから拡大してご覧ください。
isetan graphic–BIG
http://megabrasil.jp/20140419_8000/
この仕事をプロデュースしていただいたスタヂオユニと、伊勢丹宣伝部の方々に心より感謝いたします。
もう桜の盛りが過ぎて、街中の花吹雪もそろそろ終わりそうな気配。
週末に花を見に近所の公園へ行くと、桜の木々がかなり大きくなっていることに気づいた。
毎年見ているのでわからなかったのか、かなりの大木になってきている木が沢山あった。この町に引っ越して来て20年以上経つのだからそれも当然といえば当然なのだ。毎年花で我々を楽しませてくれる桜も、その木は密かに成長していたのだ。
引っ越して来た当初は植えたばかりの小さな桜の木ばかりで、「あまり風情がないな」と感じていたのだが、今年はもう一人前の大木に近づいている。公園ならではの、枝が地面まで垂れ下がっているような風格のある木もちらほら出て来た。新宿御苑や千鳥が淵のような風格にはまだまだだが、成人した大人のような雰囲気は出始めて来た。桜にも成人(成樹?)があるのだろうか。これからやっと大人の色香が出始め、あのごつごつした枝振りになっていくのだろう。その木ならではの個性が強く出始め、様々な個性ある役者が乱立するような公園になるだろう。子供の成長を見るように、桜に成長を見た。
連翹、雪柳、花蘇芳、菜の花、柳や紫陽花、欅の新芽‥‥‥。
花々と緑の乱舞。
これから八重桜が咲き始め、夏へと向かって行く。
その一方で、公園の木に比べて街中の木はひどい扱いを受けているような気がする。街路樹やマンションの敷地内の樹木の剪定が強すぎるのである。以前はこんなに強く剪定してなかったように思うが、最近はかなり短く刈り込んでしまう。桜など枝が半分くらい刈り込まれて、本当に見るのがつらい木も多く見受けられる。腕をもがれた人のように見える。これでは「剪定」ではなく「伐採」である。行政の方針でそうなっているのか。あまりに風情のない刈り込みにそのセンスの無さを感じる。景観維持やベランダに枝が入って困るなどのクレームを恐れているのだろうか。伸ばした方が枝振りも自然で美しいし、なにより真夏に日陰を作り、暑さ対策になるのだ。
毎年、街中が暑く最高気温を更新したなどと、ニュースで言われるが、それに対する対策をみない。あたかも、最高気温を更新するのが毎年のお決まりのニュースのような報道ぶりだ。報道の後、提言をするのもニュースの役割だとも思うのだが、そんな話は一向に出てこない。メディアの意識はどんどん低く思考しない方へ向かっている。
私が住んでいる集合住宅の前庭には大きくなった桜の木が2本ある。毎年3月の末、朝出かけようと玄関から外へ出ると、目の前が桜の枝と花で一杯になる。玄関に桜の花びらが吹き込んで来ることもある。3階なのでちょうどいい高さに桜の枝が来るのだ。こういった贅沢を味わうためにも、また木が伸びやかに見えるためにも、剪定が入る日にはいつも庭師の方に、緩めに切るかまたはほとんど切らずに形だけ整えように注文を出している。世間話などしながら、挨拶のように話すのが習慣になっている。庭師の方も剪定の方向が決まるとやりやすいのだ。
桜にはいつも伸びやかに成長してほしい。
故郷洲本のお祭りに協力し、ポスターやチラシを制作中。この祭りはまだ5回目で、始まって3年目くらいの赤ん坊のような祭りである。
もともと淡路島はお寺や神社が沢山あるので、その数だけお祭りがあり、毎月どこかでお祭りをやっているような感じの中で育って来た。
真夏の阿波踊りの淡路島祭りを筆頭に、だんじり祭りや、曲田山浄水場の桜祭り、毎月の夜店、弁天さんのお祭りなど賑わいのあるイベントがしょっちゅう催された。
子供の楽しみは、そこに出店している綿菓子やりんご飴、裸電球に照らされた飴細工やピンス焼きの店。はっか飴、金魚すくい、型抜き、わらび餅・・・。その頃は島内から人が集まって来ていたので、とにかく多くの人でごった返していたように思う。
また、年末には町内で餅をつき、各家総出でそのつきたての餅を小さく分けて、丸餅、角餅、餡入りなど様々な餅に仕立てたものだった。その時、親戚の家の中の多くの人で賑やかで活気のある時間。みんなで何かをやっているという充実感。全ての餅が出来上がった時の達成感。ご褒美のジュースやお菓子。これも子供たちにとっては楽しいお祭りの記憶である。
そのような幼少期の記憶に残るような祭りになればという思いで、この新しい祭りに協力しているが、このイベントはこれまでの祭りと違う視点も持っている。
空き家を利用して、島内外の若い人たちに作り物や食べ物屋で出店してもらい、その後恒常的な店舗展開までサポートしていくという町づくりの視点があるところだ。外部からの人を導入し、新しいコミュニティを作って行く。その人たちがこれまでの住人といっしょになって、町を賑やかにして行ければという思いでスタートしたのだ。地権者や様々な方がいて、思惑が異なるので、執行委員の方は大変だろう。いい祭りに、そしていい町づくりになればと願い、微力ながら私もこんなポスターやマップ制作で参加している。
そしてそんな賑わいの中から生まれてくる人と人が接する豊かな体験をした子供たちが、新しい町や地域を作って行くと思うのだ。
一度覗いてみて下さい。今後の出店に興味のある方はこのアドレスへぜひどうぞ。
http://sumoto-retro.com
今日も、午前中の晴れ間の後に3時を過ぎて雪がちらほら舞ってきた。
今年は関東では2月の週末に二度大雪が積もり、生活が大いにかき回された。3月に入って晴れた日の光は、すっかり春色になってるとはいえ、季節は行ったり来たりである。
先日の新聞に「世界一の雪国、日本。国土の半分が豪雪地帯」と書いてあり驚いた。
記事によれば、「積雪によって産業の発展や生活の向上が阻まれる地域を支援するために、国は豪雪地帯を定めている」。そして一定の積雪量以上の市町村を豪雪地帯、そのうちきわめて積雪が多い地域を特別豪雪地帯としているらしい。つまり、北海道全部と本州の日本海側一帯(青森県から島根県あたりまで)が豪雪地帯とされ、そのうちの北海道から石川県あたりまでの日本海側のほとんどが特別豪雪地帯となっている。つまり、雪の量では広大な国土の国(ロシアやカナダやアメリカのアラスカあたりか)の方が多いが、「雪の積もった土地にこれだけ多くの人が住んでいる国はない」とし、「日本は世界一の雪国」であると結んである。
日本近海は海洋生物の多様性でも世界一らしいし、先進国(まだ、こんな風に呼ぶのか?)の中では昆虫の多さもすごく多い。夏はとんでもないくらい暑くなる地域があり、冬は雪のあまりの多さで毎年死者がでる。このように日本は様々な自然現象や、そのきびしい自然の中で暮らすことで形成された様々な人の多様性に溢れた国と言えるのだろう。そのせいか夏も冬もオリンピックに沢山の選手を送り出し、沢山のヒーロー/ヒロインが生まれてくる。それは、日本の経済力や教育システムによるところがとても大きいのだろうが、夏も冬もこんなにがんばってる国はちょっと無いのではないか。国別のメダル獲得数を上げるよりも、どんなジャンルのスポーツにも選手を送り出し、その能力の幅の広さと飽くなき探究心に溢れた他のどんな国にもありえない国民性を面白がった方が楽しいと思う今日このごろである。
写真は2月8日と9日の近所の公園の雪景色
夏の鬱蒼とした木々や草花は影を潜め、きれいに葉が落ち整然とした公園の中を散歩していると、その景色に心が共鳴してとても落ち着いた気持ちになる。掃き清められたように思える芝生や広場が神聖ともいえる雰囲気を醸し出し、草に覆われて見えなかった世界がそこに現れていることであたかも隠されていた神殿に足を踏み込むような気さえしてくる。
冬は転生を待つの仮死の季節。春に爆発するその命や喜びを静かに秘めた様々なもののかすかな気配がする。
だから冬の旅はそんなことをより強く感じさせてくれる別世界への旅なのだろうか。
雪景色を見たり、しんと静まり返った町を歩く旅は、とても味わい深い思い出を残してくれる。
息さえも凍り付きそうな世界。話す言葉が吐かれた瞬間に凍ってしまい、パリンと壊れる音がしてすぐに地面に落下するような世界。そこでは、粉々になってしまった言葉があちらこちらに散乱している。
凍り付いたような空気に触れると、北への旅に出たくなる。
その一方で、木々のつぼみは少しずつゆるみ、刻一刻と春の訪れを待っている。
自然とはよくしたもので一斉に全ての命が目覚めるのではなく、早めにお目覚めになる木も用意している。
そんな植物が春の予告編のように、順序よく目を覚まし始める。
例えば本のページをものすごくゆっくり、数日かけて1ページづつ開いて行くかのように。
冬の公園には、神話のようなこんな世界がある。
もし冬のような季節が無く、常夏の国に暮らしていたとしたらどうだろう。
仕事の旅で数週間海外にいて、雲や天気の変化をほとんど感じられない日々があった。毎日が変わらない雲ひとつない晴れ続きの日々。そんな日が続くと、今日がきのうと変わらなく思えてくる。抽象的な世界。そのせいで気持ちが不安定になっていたかもしれない。毎日の雲の表情にも、我々の生活は彩りを与えられているのだろう。もしかしたら、そんな風景に左右されない人間の方が生命体としては強いのかもしれない。しかし、そんなことに一喜一憂する人間を信じる。
初めて海外旅行に行った時、アンカレッジで給油着陸した(当時はノンストップでニューヨークへ行けなかったのだ)。着陸して目の前にある巨大な雪の大陸の風景は強烈な驚きとともに目に焼き付いている。とても人が生きていけるとは思えないような死の世界に見えたからだ。人が想像できる広さのレベルを遥かに超えたそのスケールに圧倒された。
世間知らずの日本の若者が初めて見る全くの非日常/非人情のアラスカの雪世界。もしかしたら、そこで過ごした数時間はその先の旅行よりも強いインパクトがあったかもしれない。
それとは逆に、雪に埋もれた町の風景がこれ以上無いくらいの暖かみを感じさせてくれる旅もあった。着陸が近づき、町のディテールが見えてくると、雪に埋もれた風景のあちこちに家の明かりが灯り始め、その近辺には大小様々な氷結した湖沼がある。水源に恵まれ、整えられデザインされた町の情景は、住む人の知恵や心の繊細さ、その中での生活の豊かさをそこで生活したことのない私にも伝えてくれた。それは厳しい自然の中にある冬の風景のせいでよりいっそう強く印象づけられたのかもしれない。そしてその最初の印象通り、凍てつく吹雪の吹き付けるその町の人も食事もそこで体験したことも素晴らしい思い出になった(Minneapolis,USA)。
さてこの空間から一歩外へ出ると、生臭い都知事選挙の声が聞こえてきた。目先のことではなく、大きな視野に立ち、ずっと先のことまで考え、投票する人たちがどれだけいるか。人間の哀れさ、健気さが問われる選挙である。
今年の正月も例年のばたばたさ加減は変わらないけれど、そんな中でも両親や親戚と新年のお祝いができ、その後日人形浄瑠璃を見たり、
改修中の姫路城を訪ねたりした風情ある日々だった。
姫路を訪れたのは、縁あってその地の農家の方々の6次産業倶楽部というワークショップのようなところで、デザインについての話をさせていただいたからである。県民局や生産者の方と話していると、物作りの原点に触れているシンプルな喜びを感じる。生きていくのに必要な物を、必要なだけ作るというしごく全うな考え方がそこにあるからだ。お金があればあるだけ投資して、必要でも無い物を作り続けているこの社会。そんな循環から離れようとしている若い世代も増えているという記事を最近新聞でよく見かけたりもする。この生産の現場に、そのヒントがある。必要ない物を作ることをやめて、みんながそのような方向を向いて行ければ。今回の姫路は講義をしに行ったようで、実はこちらが沢山のことを教えていただいた、とてもありがたい時間なのであった。
和食がユネスコ無形文化遺産に登録された。本当の遺産を残すのなら、国産の材料へのこだわりは必要だし、そのためには農作物の自給率を格段に上げる必要があるが、TPPの交渉に入ってしまった今はもうそこに触れている記事はない。
それにしても今回招いてくれた学生時代の友人と話していて思ったのは(講義の日の朝の高速道路が事故渋滞して、1時間くらい朝のしゃきっとした頭でゆっくり話ができた)、「友人とは自分の外部化した脳である」ということである。過去に同じ時間を共有して同じような体験をしていても、視点や記憶の斑さ加減に個性が出るので、自分の記憶の足りないところを補ってくれるのだ(もちろん話の馬が合ってのことだが)。「ああ、あの時の真相はこうだったのか」と膝を打つことがたくさんあった。「写真は外部化した記憶装置である」と思い、忘備録的に写真を撮っているけれど、友人との過去の時間にもそのような意味があったようだ。いい友達が多いほど人生が豊かになるという理由もそこにあるのかもしれない。
われわれはもうすでに沢山の美しい時間を生きてきている。
初めて一人で旅した夕暮れの町。
朝焼けを見ながら仕事場に急いだこと。
新緑の緑の中を、自転車で駆けたこと。
幼かった子供たちと、雪の中で転げ回ったこと。
毎日のルーティン。突然の出来事。
数々の決断と、後悔。
歌ったこと、夢見たこと。
そんな風に生きて身につけてきた幸せなことを、こんどは誰かに手渡していくこと。
そんな年にしていきたいと思う。
今年のヴィジュアルとして「世界で一番貧しくて美しいオーケストラ」という本の冒頭にあるこの写真を挙げたい。
シモン・ボリバル・ユースオーケストラのことは、何年も前からドキュメントで見たり、ライブ演奏をDVDやCDで聴いて衝撃を受けていたけれど、この一枚の写真から伝わってくるものは本当に大きく強く心を揺さぶられた。
この本は、シモン・ボリバル・ユースオーケストラやそれの母体となっている、ベネズエラのエル・システマという貧しい子供たちへ楽器を無償で与え、合唱やオーケストラを中心とする音楽教育を通して子供たちを貧困や犯罪から救おうとする社会変革の運動の記録である。
貧富の差の激しいベネズエラのスラムで、まともな教育を受けずに育っていけば、それだけ社会がますます悪化する。そんな子供たちを救うにはどうしたらいいか。音楽家であり政治家でもあるホセ・アントニオ・アブレウが起こした革命。どんな家庭環境の子供でも、楽器と適切な指導があれば、楽団メンバーとして向上心と連帯感が生まれる、という思いが形を取り始め、その運動がベネズエラ全土に広がり、今では政府から年間65億円規模の支援を受け、40万人近い子供たちが、国内300カ所の教室に通っているという。そのオーケストラの演奏に触れると、演奏する者の喜びが聴く者に迫ってくる。ヨーロッパや日本のオーケストラでは感じ得ないその喜びと、演奏することへの祝福の感情。それは、聴く者のハートを揺さぶる。
この写真の指揮者グスターボ・ドゥダメルは、今ではロサンゼルスフィルの常任指揮者になり、世界中で客演も行い、絶賛されている。彼が、その師、アブレウに関する質問で、最も印象に残っている教えは何かと問われ、こんな風に答えている。
「音楽を教えるとき、マエストロはいつも社会的な価値についても教えようとします。音楽だけじゃない、愛について。」
そしてまた、このドゥダメルを始めとしたもとの生徒たちが先生となって、この組織で教えていく。
そこでの教育の本質がCATSという略称に象徴されている。C(citizen:市民)、A(artist:アーティスト)、T(teacher:先生)、S(scholar:研究者)。音楽を教えるだけでなく、よき市民としての模範を示し、芸術家として高い技術を持ち、勉強を続けるという責任も担っているのだ。そして生徒たちにもこれらの資質を持つように促す。
音楽を演奏する者の目標は、正確に演奏することではなく、音楽を通して全人格的な成長を目指し、社会に貢献することなのである。
ここには、これからの教育に関するヒントやアイデアが満載である。日本の高校の授業から芸術科がどんどん縮小されていくのとは全くの逆である。
美しい物に触れること、それも幼い時に触れ、その感覚を大切に持ち続けること。昨今の日本の学校教育においては、とても軽く見られがちだけれど、勉強だけをしてそれを持ち得なかった子供とは将来的に生き方や持つ世界観に大きな差が生まれてしまう。
それにしてもこの写真から伝わってくる喜びは何だろう。スラムのような建物から乗り出している鈴生りの聴衆。そこで演奏できる喜びを体現する演奏者。歓喜。誇り。祈り。目に見えない物を媒介にした魔法の様な時間がここにはあるように思える。
「世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ エル・システマの奇跡/トリシア・タンストール著」
[シモン・ボリバル・ユースオーケストラの日本での演奏]
(追記)もう一冊。こちらの本は、ベネズエラの国の歴史を含めて論考している。
ベネズエラの1900年代。石油の発見による急速な経済発展と、石油価格の暴落による1980年代の経済失速。急激なインフレと、政府にノーをつきつける民衆によるカラカス暴動。
「ベネズエラの人々は、国全体の貧困化が進む中で、もはや中産階級的な政党は無用と断じたのである。そこに貧困の撲滅と、庶民の見方を標榜するウーゴ・チャベスが現れ、1999年以来、政権を運営している。(中略)そして国民の半分近くが、貧困層というような、社会崩壊寸前の状態が長らく続いた結果、貧困に苦しむ子供が増え、犯罪の危機にも大いにさらされる状態に陥っている」
そういう年月を経、反グローバル主義の社会体制ができて行く中で、生まれて来たのがこの「エル・システマ」なのである。この本の中では、「南銀行(Banco del Sul)」(北のIMFへの非依存)やマイクロ・クレジットなどのミシオンと呼ばれる社会政策も紹介されており、この中に「エル・システマ」が含まれれているのだ。そしてなんと、監獄や少年保護センターの中にもオーケストラが作られて行く!そこで音楽に出会い、いまではユース・オーケストラのソリストにまでなった青年は今でも感慨深げに言う。
「僕はあの日のことを忘れません。初めてバイオリンを手にした日のことを。興奮した僕は、ヴァイオリンを手にした、その感触を消したくなく、翌朝まで起きていました」
荒れ果てた生活の中で楽器と出会った時の思いは、どんなだったろう。登場してくる人々のコメントが本当に喜びに溢れている。
「この場所に来られて本当によかった。家にいても何もやることがないけれども、ここに来れば、楽器を練習できて友達と音楽ができる。それは本当にうれしい」
ある指導者は、
「それはもう、本当に大切にコントラバスを扱っていました。楽器というより、自分の兄弟に話しかけるように。ある時など、本当にコントラバスに向かって何か話していました」
指揮者のシノーポリは、
「彼らは素晴らしい音楽家であるだけでなく、人間性でも、驚くべき子どもたちだ。このようなオーケストラを、私は人生で指揮したことは無かった。このオーケストラはまるで経験豊かなオーケストラのように、音楽に接する。そして技術レベルも音楽への理解も深い」と。
「エル・システマ―音楽で貧困を救う南米ベネズエラの社会政策」
山田真一
(追記2018)
近年のベネズエラの経済崩壊により、このシステムも過去のものとなる。石油によってもたらされた富をこういった文化政策に使うという試みも終ってしまうのか。動向を見守りたい。
HP上でリンクを張ろうと思い、それぞれの音楽画の元になった演奏をネット上で探していると、普段目にしないような映像が沢山出てきた。
ボサノバの創始者といわれるジョアン・ジルベルトとアントニオ・カルロス・ジョビンの映像がどうしても多くなってしまうけれども、彼らの映像自体も貴重なものが沢山出て来て驚いた。
ジョビンの自宅での演奏(Sabia)、二人の軌跡を描いたTV番組だと思われる1時間のドキュメント(イパネマの娘)、カエターノ・ヴェローゾとジョアンのデュオ(ヂサフィナード)などを始め、リンクしたそれぞれの映像に魅力が溢れてる。
「ブラジルの水彩画」、「三月の水」、「テハ」、「誰かが歌っている」は3月の展覧会の時にも使用させていただいた私の一番好きなバージョンのものが見つかった。
「ブラジル風バッハ1番」にリンクしたCELLOMANIA CROATAの演奏は、ライブでぜひ見たいと思わせる映像だ。YouTubeなので音質は悪い。しかし、その雰囲気はしっかりと伝わってくる。オーケストラ版で聴くのとはまた違った音の滑らかさが出ていて素敵だ。ウッディでオーガニックな雰囲気に満ちた幸せな映像。
「ジェット機のサンバ」はGROOVE ALLEGRO の若者たちによるリオを見下ろす山の上での演奏で、着陸間際の曲の世界観を見事に表現している。指揮者や歌い手の表情が生き生きしていて心躍る。オーケストラで演奏するサンバ。これも見ていて幸せな気持ちになる。
こういった美しい音楽を愛したり、絵を描いたりして生活を楽しむことで、われわれは世の中の不正や不条理なことに押し流されないで生きて行こうとする気持ちを静かに表現しているのかもしれない。
その他の映像にも見るべきものが沢山あってセレクトが楽しかった。まさに音楽の宝庫ブラジル。秋の夜長にぜひご覧ください。
The Portfolio : Graphic Art of Brazilian Music「ブラジルの音楽画集」
オフセット版のポストカードが4種類できました。夏に販売していたインクジェット版とはまた違うしっとりした雰囲気。オフセット印刷ならではの質感があります。秋の新作もひとつ追加しました。洲本の坂本文昌堂で販売開始です。島外で暮らしている学生時代の友人たちに出してみてはいかがでしょう。洲本への懐かしい郷愁の気持ちが蘇ります。上から寺町裏、洲本城、大浜海岸(かき氷)、大浜海岸(ボート)。
Saudade Sumoto Postcards each¥150
坂本文昌堂 http://www.bunsyoudo.com/index.php?contentid=1
以下、Saudage(サウダージ)という言葉に関する面白い記述。お時間のある時に、ぜひご一読を。人の心のとても深いところに潜んでいる普段は気づかない気持ち。
SAUDADE サウダージ/サウダーデ
語源はラテン語のsolitate(孤独)。
日本語では「懐かしさ」「未練」「懐旧の情」「哀惜」「郷愁」「ノスタルジー」などと
訳され、英語ではlonging, yearning, ardent wish or desire, homesickness, nostalgiaなどの訳語が与えられている。
しかし、いずれの訳語もサウダーデの表す多面体な意味のいずれかの面に対応するものであって、それが持つ意味の総体を示す訳語ではない。サウダーデはまことに外国語に訳す難しい語である。
サウダーデとは、自分が愛情・情愛・愛着を抱いている人、あるいは事物が自分から遠く離れて近くにいないまたはない時、あるいは自分がかつて愛情・情愛・愛着を抱いていた人あるいは事物が、永久に失われ完全に過去のものとなっている時、そうした人や事物を心に思い描いた折に心に浮かぶ、切ない・淋しい・苦い・悲しい・甘い・懐かしい・快い・心楽しいなどの形容詞をはじめ、これらに類するすべての形容詞によって同時に修飾することのできる感情、心の動きを意味する語である。そこには、単にそうした人や事物を思い描いた時に心に浮かぶ感情だけでなく、そうした人や事物を再び目の前にしたいと願う思いも含まれている。サウダーデはこのように複雑で豊かな内容を持つ語であるから、外国語で一語によってその意味を表すことは不可能であることも、訳語として挙げられている種々の語が意味の一面しか表しておらず思い出す対象によって訳語が異ならざるを得ないことも、明らかであろう。
日本語に則していえば、例えば異郷にある人が、故郷にいる家族などのことを、そしてそうした故郷そのものを思い浮かべた時の懐かしい思いもサウダーデであれば、事情があって容易には会うことのできない恋人 などに対する思いもサウダーデであり、この世を去った肉親、あるいは再び帰ることのない少年時代、そしてそのころ草野球に明け暮れした日々に寄せる思いもまたサウダーデである。また大切にしていたものを手離さざるを得なくなった時、心に感じる痛み・悲しみを伴う感情もサウダーデであり、家族・親友・恋人などと永く別れるときの惜別の情もまたサウダーデである。
(「スペイン・ポルトガルを知る辞典(平凡社)」より抜粋)
亡くなった家族(うさぎ)を埋葬した場所の一画に、今年も彼岸花が咲いた。時々思い出したように墓参りをしているが、お彼岸にこの花を見がてら参拝する。
それにしても、この赤い花はこの世のものと思えないような雰囲気=デザインをしている。緑に囲まれた環境の中に濃い赤があることでその非現実さが一層増していて、怖ささえ感じる。あたかも、空中に浮かぶ炎のようだ。
アマリリス、ベニバナサルビア、鶏頭‥‥。深紅の花は概ねそう感じさせるなにかがあるのかもしれない。近寄りがたい人のように。滴る血潮のように。
手元にある牧野日本植物図鑑によると、「堤防や道ばた、墓地などにはえる多年草。秋の葉のない時、地下の鱗茎から高さ30cmの花茎一本を出し数花を輪状に開花。花被片6は細長く外側に反る。雄しべ6と雌しべが長く出て同色、結実しない。花後に葉を束生し翌3月に枯れる。有毒。」とある。
ぴんぴん外にはねているように見えるのが雄しべ。 その中に紛れている葯の着いていない1本が雌しべ(この写真ではよく見えない)。お墓の側や田んぼの畦に生えるのは理にかなっているようだ。ねずみやもぐらなどが死体や作物を荒らさないように、有毒な植物を植えて近づかせないという先人の知恵であろう。
そんな自然の力を本能的に感じてしまうのだろうか、群生している彼岸花を見せている観光地が沢山あるが、その毒と毒を象徴するような強い赤い色によるあまりのパワーに気圧されて、わたしにとってはとても近づき難い場所に感じてしまう。
深紅はとっても怖い色なのだ。
秋の夕暮れ。近くの公園から。
上り始めた月の側に、金星が見える。
家路を急ぐ人。ランニングをする人。夕涼みの人。
夕焼けを見に来た人。寄り添うカップル。思い思いの夕刻。
ただ一日が暮れて行くという何でもない時間。
会期中、多くの方にお越しいただくことができました。これは学生時代の友人たちのおかげです。私の知らないところで、遠くの方までメールやら電話やらのネットワークでこんな人までっていうほど、連絡網ができていたようです。その行為にあきれるやら、感謝するやら・・・。小学校〜高校時代の恩師をはじめ、会えなかった友人たちとの再会も多くあり、これから考えていくべきことの宿題をいただきました。長く会えなかった友人から、温かいメールをいただき胸が熱くなることもありました。突然の再会で友を抱きしめたことも。その一方で、遠方からも多くの方がいらっしゃいました。北海道、横浜、東京、長野、名古屋、和歌山、神戸、徳島、福岡・・・。そして、新聞記事を書いていただいた記者の方々。書かれる側になってみると、その気持ちの優しさがわかります。全ての人たちがここにいることに感謝いたします。そして、この場を提供していただいた坂本文昌堂のご家族の方々、スタッフの方々に心からお礼申し上げます。
中学・高校時代の同級生の辻恵子さんに誘われて画家の大石可久也さんにお会いした。
辻さんは兵庫県の農林水産省事務所の職員。生産者、加工者、販売者間の6次産業化による産業の活性化に尽力されている。様々な事業者の情報をインプットして最適の情報を提供したり、事業者間のマッチングをしたりする、例えて言えば花と花の間を忙しく飛び回るミツバチのような大事な仕事をされている。そんな方にしかアレンジできない、大石さんを訪問するというおこがましい席を同級生ということで用意していただいた。
大石可久也さんは淡路島で生まれ、小学校の教員をしながら絵を描き、41歳の時に教員を辞し様々な旅の中から、作品を生み続けている方である。団体展に所属されているが、そういった流派を超えたもっと自立した大きなアーティストだ。現在89歳。
1994年に初めてその絵を見た時に感じたのは、とても大胆でダイナミックな画面構成をする方だなということ。すぐにその世界に引き込まれた。その一方で、画面に近づいてみると、ディテールが繊細で精緻を尽くしており、その柔らかで沢山の物語を秘めたような筆さばきに魅せられた。細部に疾走するような若いスピードがあり、なおそれが正確に着地しているような驚きがあった。そして、描かれている人たちへの温かいまなざし。
その大石さんの住居件アトリエ/美術館が見られるという嬉しいお誘いである。
その場所は、海を見下ろす山の中腹にある。ボランティアの方々と手作りで建てられたという。階段や案内板やレンガのタワーなど、あるもののほとんどが手作りのアートである。館内にはオブジェや石や木の実などの自然の造形物で満たされている。椅子や、「これ以上は近づかないで」という絵の前のバーも手作りである。絵からだけではわからない画家の生活の中のアートがあふれている。
アトリエの窓からは大きな海が見下ろせる。この日は晴れた夏の光景だったけれど、様々な季節の曇りや雨の日にも来たいと思った。雨がどれほど海の光景を変えるのか、この場所から見たいと思った。
奥様にお話をうかがって印象的だったのは、この場所ならではの「場の力」ということ。これは自然の少ない場所では得られないものなのだろう。感覚が鋭くなり、見えなかったものが見えてくる、聴こえてくる。そういった自分を生かす環境の選び方自体が、大石可久也というアーティストの生き方によるものだ。目に見えるもの以上に豊かさを感じる空間。
大石さんの作品に触れ、日常にある様々なオブジェなども初めて見ることができた。人が生み出すものとは、途方も無く大きく幅広く深い。
それでも、と思ってしまう。
以前あるアーテストにこういう言葉があった。
「個人の資質は、どのような場合でもアーティストがなしうる芸術的目論見よりはるかに幅も広ければ奥も深く、なおかつ入り組んでいる」
つまり、作品より遥かに大きな人間がいるということである。
それは、作品では表せなかったその人自身。作品の隣には、作品すら超越した人間そのものがいるということ。
こんなに多様な作品を見たせいか、そんな思いを得ながら大石さんと家族の方々に見送られ帰途に着いた。
http://www.eonet.ne.jp/~artyama/
現在開催中の展覧会に、様々な人が駆けつけてくれている。高校時代の友人たちを中心に小学校時代の恩師(91歳!)や高校3年時の担任の美術の先生(反抗的な高校時代、言うことを聞かずにすみません)やお会いできなかったけれど記帳してお帰りになった方々。和歌山県からわざわざ来島していただいた会社の先輩。展覧会を取材し、心のこもった温かい文章を新聞に書いてくれた高校時代の友人。小学校の時足が速くてかっこいい少女だった(いまもかっこいい)同級生。そして、親戚やその友人の方々・・・。どれもうれしく、その温かい気持ちのありように感謝します。
そのような再会の中でも、旧友とその家族との出会いはとても特別な気持ちにしてくれる。学生時代は本当にみんなひとりぼっちで社会に向かおうとしていた。自分の親を中心とするあらかじめ決められた家族の中で。その時からかなりの時間を経て自分で選び取った新しい家族。いろんな問題をそれぞれ抱えているだろう。途方も無い喜びもあるだろう。そんな時間が凝縮した家族という集団(?)と接すると、ひとつの民族と接しているような気分がする。友人と一対一で会ってる時には、味わえない気持ち。見知らぬ国の旅先で出会った外国人の家族のような趣もある。
高校時代の友人一家は息子さんを含め全員がグラフィック系のデザイナー。高校以来会ってなかったようなものなので、その彼女の側に息子さんがいっしょにいるとなると本当に驚いてしまう。テープの早回しであっという間に過去が今の画像に変わってしまったような驚き。往復のフラッシュバック。突然聴こえてくる新しい音楽。息子を従えたおかあさん、かっこいいよ。
おととい神戸から来てくれたのは、大学時代の後輩の3人家族。去年神戸で食事をして以来の再会である。その友人本人とだけ話しているより、家族も一緒に話している方が、話が立体的になり、寄り道・脇道があり別の方向から話が理解できたりする。友人の言葉を、その息子さんが話してる感じがする。社会への駆け出し時代、大学を出て若くてやせっぽっちだった友人のことを奥さんが教えてくれたりする。4人で食事をしながら話していると、それぞれの音を聴きながらみんなで楽器を演奏しているかのような気さえする。そんな風に演奏できるのも稀なことだ。
不思議なものである。
洲本での展覧会が始まって今日で一週間。ここでしか再会できない方々と、初日から出会っている。またいろいろな連絡をいただき、これから再会するのが楽しみな方もいる。ありがたいことである。
久しぶりに、毎日実家のベッドで寝起きしていると、朝の蝉の声が凄まじい。目と鼻の先に曲田山という山があり、その左方には洲本城をかかえる三熊山がある。これらの山全体が鳴っているのである。
だいたい夜明け前5時くらいからニイニイゼミが鳴き始める。静かにおずおずと。夜が終わったよと囁くかのように。それから30分くらい遅れてクマゼミの合唱が始まる。まっさらな朝の始まりを告げるように。届いた封筒の、封を切るように。高らかに歌い上げている。そして第三の蝉であるアブラゼミの声は他の蝉の鳴き声の間を繋ぐように、全体を支えている。こんなに巨大な楽器。
その大合唱は、朝食のリビングでも、自転車で駆ける商店街の中でも、午前中と夕方、常に耳に入ってくる。まさに生活の中の通奏低音だ。
夏はその気温や湿度や光や雨や食べ物や衣服やあらゆるもので、その存在を感じるが、ここ淡路島では蝉の声がもっとも大きな要素かもしれない。
先日。あまりにも大きな声で鳴っている木が近くにあったのでのぞいてみた。
そうだった。
これがこの辺りの蝉たちの生態。一本の木にとまっている個体数が凄いのである。こんな細い木でこれだから、大きな桜の木などには数十匹いるのはざらである。一本の木に少なく見積もって10匹として、蝉の好きな木が1,000本あれば10,000匹の大合唱になっているということである。
こんな壮大な合唱付きオーケストラが夏の間毎日聴けるのは、とても贅沢なことだと思う。マーラーにもなし得なかった大オーケストラ。
セーミ・サマー交響楽団ただいま来島中。
洲本での展覧会が始まりました。
みなさま、ぜひ遊びに来てください。
この場所と、ここにいる人たち。
なにものかに与えられた、大切な時間。
そして、これから。
洲本といえば大浜海岸とその周りの釣り場になっている灯台などのある突堤だ。この場所があるから、町が明るく開放的な性格を帯びている。人工物の突堤もズドンと沖に突き出しているが、シンプルな雑作で美しい。ここが昔の面影を保っていて、海がいまでも我々を遊ばせてくれる。実際はかなり手が入れられ、変わっているのだろうけれど、海岸線は穏やかだし、砂浜の砂の色も昔から変わらない明るいベージュ色である。
日本を見渡せば昔遊んだ海岸が埋め立てられたり、海岸の土に真っ黒いヘドロのようなものが混じってしまって泳げなくなっていたりする場所も多い。
ましてや、昨今のように大きな天変地異が起こると、命以上に守るべきものはなくなってしまう。
そうなってしまえば、全ては思い出の中にしかなくなり、新しい海との思い出は生まれるすべもない。
2011 年の夏に、淡路島の西側・福良港からタクシーに乗ることがあり、運転手さんと世間話をしていた。
「淡路島は原発がなくて幸いでしたね」
「お客さん、よくご存知ですね。この辺り、危なかったんですよ」
「え、建設の計画があったんですか?」
「この辺りは、話があったけど住民の反対で立ち消えになったんです」
淡路島の農地はそれほど広大な面積ではないが、温暖な気候もあって、とても豊かな農家が多い。稲作の後、野菜を作り、さらにタマネギまで作る三毛作が定着している。このタマネギがまたうまい。
また、漁業も豊かで季節ごとにありとあらゆる魚介が獲れる。幼い頃、あまりに沢山の魚をもらうので、辟易していた記憶がある。今だと嬉しいのにね。
そんな豊かな場所だからこそ、原発を拒否できたのだと容易に想像がつく。
原発は沖縄の基地問題と似たところがあって、撤退すると地元の飲食店や商店街が困るということになっている。
つまりこれは、原発じゃない何かしらの産業があればそれで済むのだ。そこをうまくやらなくてはならない。
それにしても、帰省するたびに思うのは、商店街は寂れたりしているけれど、自然が比較的変わらず残って私たちを迎えてくれることの喜びだ。自然が元気であれば、人は正気でいられる。町中に木をもっと植えたいとか、溝に流れる水をもっと美しくしたいとか見るたびに思うところはあるのだが。
洲本に関する絵を現在制作中。
故郷に関する思いは簡単には言い表せないけれど、
洲本に対する今の気持ちを、またこれから来る夏の洲本を表現したらこうなったという感じか。
若かった時よりも、もっとニュートラルに故郷を見つめ、その存在自体を自分にとっての取り替えのきかない、不思議な存在として表現した。
昔、ある映画で故郷の島を出て行く若者に、幼い頃からの大事な先輩が
とても強い言葉で諭すシーンがあった。本当に、驚くほど強い言葉で。
「帰ってくるな。私たちを忘れろ。手紙も書くな。
郷愁に惑わされるな。すべて忘れろ。
我慢できずに帰ってきても、私の家には迎えてやらない。
自分のすることを愛せ。」
「ここにいると自分が世界の中心だと感じる。
何もかも不変だと感じる。だがここを出て2年もすると、
何もかも変わっている。たよりの糸が切れてしまう。
会いたい人もいなくなってしまう。
一度村を出たら、長い年月帰るな。
年月を経て帰郷すれば、友達や懐かしい土地に再会できる。
今のお前には無理だ。お前は私より盲目だ。
ローマへ行け。お前は若い。前途洋々だ。
もうお前とは話さない。お前の噂を聞きたい。」
都会に出て働き始めた者にとって、こんな台詞のひとつひとつが胸に響いた。
まあ、こういったことを考える暇もなく、滑ったり転んだりしながら夢中で生きていたのだろう。
映画と人生は違うけれど、映画もまたひとつの人生なのだ。
ぶどうの開花の後、驚くような速さで実ができていく。毎朝眺めては、感じ入る。人の成長にもこんなときがあるけれど。
毎朝それを目の当たりにすると、やはり心が揺さぶられる。
最初の花の時が、食べ終わったブドウの実のように見える。そこから、実が大きく発生していく。食べ終わったお皿の上で、実ができていくと思うとすごくシュール。
さて、いつ熟して、食べたらどんな味なんだろう?
それにしても、実の緑、それをとりまく葉の緑の色の美しいこと。この季節ならではの、若く柔らかい緑。
昔、覚えた言い回しに、’hear through the grapevine(that~)'というのがあった。〜を噂に聞く、風の便りに聴く、という意味の言い回しだけれど、イディオムができた場所は、ぶどうの産地だったんだろうか?ぶどうの蔓はいろんな所に絡まっていくから、噂がねじ曲げられて広まっていくという共通のイメージから、この言い回しができたとも聞いたことがある。
「悲しい噂」という、昔のソウルミュージックの原題は"I Heard It Through The Grapevine"だった。マービン・ゲイの懐かしい曲。日本人からすると、このタイトルが不思議で、印象に残っている。マービン・ゲイはブドウの産地で別れた恋人の噂を聞いたのだ、と思っていたものだ。
こんな風に考えていると、ベランダにできたぶどうの実をすり抜けるように、南風に乗っていろんな人の風の便りが聞こえて来るようだ。
宇都宮美術館の「クリムト・黄金の騎士を巡る物語」を見る。タイトルにある作品を所蔵する愛知県美術館と、クリムトのいくつかの小品を持つ長崎県美術館、宇都宮美術館の3館による合同企画展。この3館以外の国内外からも関連する作品を借り出し、表題の作品を中心に物語を語るように構成した所が、展示を豊かなものにしている。そしてこの3つの美術館を展覧会が巡回する。もう宇都宮が最後らしいが。なによりうれしいのは、東京から離れることで、これほどゆったりと絵が見られるということ。大行列もなく、じっくりと絵と対面できる。画家とひっそりと話込んでいるかのようだ。海外の美術館で絵を見る時のようだ。
それにしても、クリムトの絵はなんと心を切なくする絵なんだろうか。なにか記憶の深い所にある人間の原初のエロスに語りかけてくる。そのせいか彼の絵を見た後は、いつもなぜか酔ったような感覚になる。
クリムトの絵にあるもの。パトロンの女性、正方形の中に納められた風景、生・老・死のテーマ、男女の愛、幼子、ベートーベン、裸の女性と女性器‥‥‥。クリムトが描いたそれらすべてから、世界を肯定し、生きることを讃える思いが聞こえてくるというと楽観的すぎるか。しかし、少なくともその声を聞くことで、見るものは気持ちのカタルシスを得ている。
そもそも絵とは何だろう。なぜ、こんな感情にさせるのだろう。絵があることで、空間が変質して、世界が変わる。なつかしさや、いとおしさ。眼が快感に酔い、その振動が心を動かし体に伝わっていき、その場に立ち尽くす。思いもしなかった様々な感情を沸き起こしてくれるのが、クリムトの絵である。
緑がいっぱいの郊外の美術館にて。
ベルギーのストックレー・フリーズの原寸レプリカも出品されていた。これは実際には見ることができない私邸内の壁画。原寸で3面を体感できる。実物はとんでもなく贅を尽くしたモザイクの集積らしい。部屋の形をした大きな宝石箱。
この春大学を卒業し、名古屋に赴任する長女を早朝東京駅に送る。時の経つのは速くて、すっかり大人の出で立ちで前を見て歩いている。部屋にあった沢山の荷物を運び出し、こんな見事な季節に旅立っていく。
春の真ん中で、日中の緑の変化に目を奪われているうちに、夕方の空気はもう夏色を帯び 美しいブルーに傾いてきた。そんな鮮やかさとしめやかさの入り交じった季節。人も同じように様々な側面があっていい。そして季節と同じように、人生の春はいつしか夏に向かっていくのだよ。
鮮やかさだけではない、夕方のしめやかな深みを帯びた、この季節の美しいバラを贈ろう。このバラも、君が幼い頃から大切に育ててきたもの。いまでは立派な大人の風情。Bon Voyage!
3月の末から色々な行事が続いたので、義理の母が3週間ほど家に滞在してくれた。これはそのときにやってくれた繕い物である。高校生の娘のスポーツストッキングの、踵やつま先の破れた箇所を直してくれた。自分でも時々やっていたが、ここまできちんとやったことはなかったのでおもわず唸った。母としては当たり前のことをやってるのだけれど、これはどんな新しいものより、値打ちがある。どんな新しい商品からよりも、パワーをいただける。
今の時代の商品の特性は、修理不能のものが増えてきたこと。携帯電話に代表される電子機器やPCや様々なソフトなどは、新しく買い替えていかないとこれまでと同じサービスを受けられなくなるように設計されている。あるいは2−3年で壊れるように設計されている。しかし、これで消費を促進させようという思考が、時代とずれてきているのではないか。
1950年代のアメリカで提唱された「浪費を作るための戦略」
1:一家に一台ではなく、家族に重複して買わせる(TVや電話)
2:捨てさせる(ビニール傘やコンタクトレンズ)
3:計画的廃物化
Aー物理的陳腐化(壊れやすく作る:電化製品)
Bー機能的陳腐化(より新しい機能をもった新製品で、旧製品を古くする:PCやTVゲーム)
Cー心理的陳腐化(旧製品を時代遅れだと感じさせる:衣服、CD)
4:混乱を作り出す(携帯電話や保険の価格設定)
5:月賦販売やチャージするカード(クレジットカード、suica)
6;消費の口実を与える(クリスマスやバレンタイン)
(『脱資本主義宣言』鶴見済より抜粋)
このようなやりかたにわれわれは柔軟に対応しながら、社会生活を生きてきた。それは、提示されたものを自分たちで選択ができたからそれほどの苦痛は感じなかった。でも今の時代は、しなくてもいい消費を強いられる場面が増えてきている。
反貧困についての活動をしている湯浅誠氏が、先日の新聞紙上で『「引き出し型」の発想を』というタイトルでこういうことを書いていた。
◎
(前略)
都市部から離れた日本の地方を回っていると、この「底付き」という言葉を思い出す。地場産業が衰退し、公共事業も限界になる中、企業誘致などに注力する。だがそれも難しくなり、どこかの時点で「今ここにいる人・モノ・自然でやっていくしかない」と観念する。
障害者、シングルマザー、高齢者、放棄されている田畑、うち捨てられている間伐材、魚介類、閉まっている商店や空き家ー。すべてがこの街の「財産」だ。その時人々は「切り捨て型」から「引き出し型」の発想に切り替わる。それはその人やモノが「かわいそう」だからではない。何かを切り捨てる余裕など、もうないからだ。
市民・企業・役所が等しく「底つき」を経験し、街は「引き出し型」の発想に変わる。
さまざまな力を引き上げて、足し上げられるかどうかー。それこそが自分たちの力量だ、という認識に変わるのだ。(中略)
その点、都市部は鈍感だ。アジアの成長を取り込めば、グローバル企業の本社を誘致すれば、オリンピックが来れば、まだ何とかなると考えている。(中略)
貿易収支改善も観光立国もいいだろう。しかし「カジノで海外旅行客誘致」とまで言われると「違うだろう」と思う。その力を、すでにここのいる多様な人々の多様な力を引き出すことに使おうよ、といいたい。(中略)
人間として知恵を発揮する。それを「社会の底力」という。その力が発揮された時、「切り捨て型」の発想は恐ろしく危機感のない、悠長でのんきな話に見えてくる。
◎
そうなのだ。そこに眠っているモノや、自然や、人的資産に目を向け、活用すること。そのことが、震災後を生きる我々にとって、希望に満ち、生きる価値を感じる充実した社会を作る鍵になるだろう。
こんなストッキングを履ける娘は幸せだ。義理の母から孫への、心からのプレゼント。次の試合は、大活躍するかな?
大学生の娘を訪ねて帯広へ。初めて見る街は、水平に限りなく広がり、まっすぐな木々がそれと交差するように伸びている。おいしい水と、豊かな食材。秋撒きの小麦が早くも芽を出している。驚くほどの星が輝く空を見た。前にこんな多くの星を見たのはいつだろう。娘の運転で、北海道の湖の中では最も標高の高い所にあり、まだ氷結中の神秘的な然別湖(しかりべつこ)や、古い鉄橋の三の沢橋梁跡などを回る。そこいら中にある温泉。六花亭や柳月などの老舗の菓子店。大学やその街の新しい仲間たち。知らない街で生活をし、様々な生きるすべを吸収し、人として成熟していく。
いろいろな人の力を借りながら進めてきた「ブラジルの音楽画」展が終了。会期中に訪れていただいた多くの方々に感謝いたします。忙しい日常の中で、このような作品が何か心の希望に役立つことができればと思います。新たに出会った方々、久しぶりに再会できた方々、いつもよく会ってる方々。思ってもみなかった様々な出会いがあり、ペーターズギャラリーという場所で出会えたことが新たな体験として今後の糧となります。本当にありがとうございました。
Yamada Munehiro Graphic Art of Brazilian Music Exhibition
22(Fri)–27(Wed) March, 2013
12:00–19:00
PATER'S GALLERY (Harajuku, Tokyo JAPAN)
http://www.paters.co.jp/gallery/gallery.html
Samba, bossa nova... Brazil abounds in music.
The music that comes from Brazil is full of natural motifs,
lots of love and sorrow with its landscape.
In this exhibition I try to visualize such a musical world
which you can almost call ‘a world heritage.’
At the beginning of spring, please come to see the exhibition
and enjoy being soaked in the Brazilian sunshine.
[ The music we listen to with our eyes = Graphic art of music ]
Artists such as Klee, Kandinsky, and Klimt depicted
the attraction of music in their paintings.
Musical and visual works have compatibility
and historically they have had influences on each other.
Please enjoy the colorful world of music through visual works.
展覧会に向けての制作も佳境に入って来た。今、つくづく思うのは展示に向けての協力スタッフのことである。毎日気持よく起き、制作し、仕上げて行くにはこのスタッフが大事である。会社に所属しているときとはまったく違う人たちと出会い、新たな環境が地元にできた事がうれしい。これも何かの縁。巡り巡ってここで出会ってるような気もする。そういう人たちのいい気をもらって、作品に思いが入り、制作は進んでゆく。
写真上は販売するB1ポスターの一部。下は「ブラジルの音楽家」というアーティストの名前がいっぱい入ったジグソーパズル。これは3月17日(日)17:00~J-WAVEでオンエアされる「SAUDE! SAUDADE...」の中で展覧会のインフォメーションに合わせてプレゼントとして提供するものです。ぜひ、聞いてみてください。あれもこれも多生の縁です。
先日、映画を見ていたら大崎上島が舞台になっていた。数年前の夏に親戚の集まりで初めて訪れ、印象深かった島である。たしか羽田から松山へ飛んで(当日券だったので、べらぼうに高かった記憶がある)、電車で今治へ。そこから船で海を渡ったように記憶している。造船や海運の華やかで賑やかな時代を思いおこさせる瀬戸内の懐かしい風景だった。
映画では、その島の小さな港に、東京で亡くなった母親の遺骨を持った家族が降り立つ。彼女の留守中に犬の面倒をみていた隣家の娘の悲しむ姿が印象的であった。劇中で何度か港の赤い鉄骨の橋とゲートが出てくる。島に住む者にはあたりまえでも、部外者から見るととても印象的な建築物を効果的に使っているように見受けられた。この映画は小津安二郎の「東京物語」を現代に置き換えて、再構築している。小津へのオマージュであるが、そこに新たな視点を組み込んである。難しいけれど、とても幸せな創作物だと思う。
わたしがいま準備を進めている展覧会は、ブラジル音楽へのオマージュ。少し違うかもしれないけれど、根幹にある姿勢は意外に近いかもしれない。
「東京家族」山田洋次監督2013年
どこか遠くで生まれた波が、
この島の浜辺に到達する。長い長い旅。
たどり着いた砂浜をぬめぬめと洗う。
まどろむように。寝息のように。
シロナガスクジラのくちばしのように。
カブトムシの幼虫のように。
命の鼓動。
かつて、若々しくなまめいていた命も、自ら衰える。
しかし、その輝いていた命のその命は、
永遠に生きているのだろう。
・・・・・・・・・・・・・・(先日亡くなった友人の父親に)
「宗ちゃん、酒井君とこ行こうか?」
そう言ったのは、由良小の校長の西村君だった。
今日は朝から友人の尊父の大往生(91歳)のお葬式に行った。しめやかな温かい葬儀の中、そこで西村君に会い、彼の学校を見せてもらう事になった。海に面した豊かな由良の町を見、紀淡海峡を眺め、学校の中を案内してもらった。そして子供の絵を見て、先生たちに紹介され教頭先生とも話し、子供たちが飼っているふぐやうさぎを見た。それだけでも、得難い体験だったのに、次はもうひとりの同級生校長、酒井君のところに行こうとしている。
向かう途上対岸の志筑を見ると、雪雲がたれ込め、雪が降っている様子。酒井君の洲本第二小学校に着く頃には、われわれにも、雪の祝福。そして酒井君の校長室で話す事1時間。時間の観念がなくなり、甘美な小学校時代の放課後の時間が訪れる。
なかなかだ。やっぱり、話す中身の筋がいい。そんないい時間を過ごした今年の正月。なにか、いい予感を感じる。ありがとう、旧友。
これがその時の校長室の写真。私にとっては大僧正のように見える校長sとわたし。
昨晩終了したフジテレビのドラマ「ゴーイングマイホーム」の最終回がとてもよかったので、その作品のベースになっている是枝裕和氏の「歩いても歩いても」をあげたい。出版は2008年だが、今回のドラマで一般的に認知されたという意味で。また、これは小説だけれど、映画やTVドラマの映像を喚起するという意味で。
わたしは映画しか見ていなくて、このドラマが始まってからこの本を手にして読んだのだけれど、家族を巡る縁と愛情に満ちていて、とても心の深いところに触れる作品だった。この小説のラスト近くに次のような通夜のくだりがある。
ザラッとした感触が指の先にあった。ひげだった。亡くなったあとには一度きれいに剃られていたはずだ。死んでから時間とともに皮膚が縮んでそんなことが起こるのだと、何かの本で読んだのを思い出した。
遠い昔、やはり、こうやって父の顎ひげに触ったことがあった。居間の畳の上に座った父のあぐらの上にお尻を乗せて、僕たちはテレビで野球を観ていた。僕の顔のすぐ脇に父の顎があった。その、剃り残したヒゲが時々僕の頬に触れるとチクチクと痛かった。
「痛いよ」
僕が言うと父はわざとその顎を僕の頬にすりつけた。その時の感触が甦って、僕はひとり棺の脇で泣いた。一度泣き出したらもう涙は止まらなかった。
きのうのドラマでも、このエピソードが描かれていた。その時、主人公が見ていたテレビ番組は野球ではなくて、(たぶん)札幌オリンピックのジャンプ競技の映像だった。これは誰もが一度は経験した事のある、父とのエピソードだろう。今は形を変えてしまった、せつなく、ほろにがい、幼い頃の自分と父との記憶。それがみごとなカメラワークと編集で描かれていて驚かされた。
その他にも、この本では書かれてはいなかったさまざまな人間関係が巧みに描かれていて、あたかもオーケストラの演奏を聴いてるかのような、あるいは複雑な模様を織り込んだ織物のような印象にすら感じた。夫と妻、母と娘、会社の仲間たち、ご近所さん、父の親友とその娘・・・。そんな関係が、重くならず、じっと見ていないと見落としてしまう位、短い時間の中で端的に描かれる。作者は本当にさりげなく、何事でもないかのように演出しているが、相当な思いでやっているのだ。
そんなドラマのベースとなった、シンプルだけど奥の深い、たぶん時々取り出して読みたくなるような本です。今、Amazonなどでは、数百円から買えるのでぜひ読んでみてください。
12月5日、二人が同日に亡くなった。91歳と104歳。堂々たる大往生。その長命は、二人に共通する自由さによるものなのかなと、ニュースに触れた時に感じた。
ブルーベックはジャズの中でも異端児で、素人目から見ても、全く好き勝手な音楽を作ってきたように感じる。白人であったが故に、黒人の人種的葛藤を感じさせないある種のハッピーさを醸し出す演奏は、通からは軽く見られている節もある。でもそんな評価とは関係なく、[テイクファイヴ」や「ブルーロンド・ア・ラ・ターク」の洒落た演奏にはしびれたものだ。そのあとも、エスニックな演奏をしたり、CULCUTTA BLUESとかの演奏まで来ると、さすがにやりすぎの感じがしてちょっと引いてしまったけれど、そのようなセンスが彼の美点なのだろう。またやってるよ、といわれながら、かっこつけないで自由に振る舞う。クールにやってくのとは、また違うひとつのスタイルを感じて、私はそんな彼を愛しくおもう。「勝手なおっちゃん」、というスタイルです。ジャズを突き詰める事で、早死にしてしまうミュージシャンが多い中で、彼は幸せな人生を送ったんじゃないのかな?
オスカー・ニーマイヤーにも、同じにおいを感じる。ブラジリアへの首都移転に際しての都市計画や、ニテロイ現代美術館などのデザインは、今見てもモダンで未来的である。その建物の中に入ってみたい。上海にある様々なスタイルの建築のはしりのような思想を感じる。彼もまた、因習に囚われないスタイル。しかし、奇をてらってるわけではなく、しっかりとした美しさがある。彼も「勝手なおっちゃん」だな。そのように生きると、どうやら長生きするらしい。
昨今の様々な事故や天災による死を見ているわれわれからすると、本当に幸せな死なんじゃないかと感じてしまう。色々と楽しませてくれて、ありがとう。
久しぶりにテレビドラマを見ている。火曜22時フジテレビの「ゴーイングマイホーム」である。監督が是枝裕和氏と聞いて見始めた。もうすでに回はかなり進んできたけれど、毎回唸らせる脚本と、絵作りの妙味があって、とても楽しい。お話がどこへ行くかよりも、それぞれのシーンの会話に味がある。小説で言えば、プロットよりも文体を楽しむ小説。全体を貫くテーマがしっかりしてるので、見飽きない。テレビドラマのエンドロールに、監督・脚本・編集=是枝裕和とあるのもうれしい。
この作品には、もととなる映画がある。2008年に劇場公開された「歩いても歩いても」という彼自身の映画である。映画では法事で実家に集まった姉、弟の家族と、実家の両親との一日の事を描いた佳作であった。監督の母親が亡くなり、「結局、何もしてあげられなかったな」という思いを一度きちんと整理したくて書いた脚本だったそうだ。今回のドラマと同じように、演出されてないかのように見える家族の会話がいとおしい。子持ちなのに大人になりきれない息子。品のない会話に終始する姉。優しさと無念さ。すれ違いの会話……。
おそらく今回も同じようなテーマになるのだろうけれど、とりたてて何も起こらない、繰り返しの日常のせつないかけがえの無さを描いている。テレビの民放で、このような連続ドラマが放映されている事もめずらしいのかな。スポンサーの名前を覚えておいてあげよう(付き合いで、出資してるのか?)。見るたびに、正月などの帰省時に経験しているこのような家族の事柄に思いを馳せる。
藤原新也氏主催のウェッブマガジンに猫写真の読者投稿のコーナーがある。先日、うちで飼っていた愛猫ちょこの短いエッセイと写真が掲載されました。私の書いた文と写真の後に付けてくださった藤原さんの文章が心を打つものでした。ここに転載させていただきます。言葉とは、こんなに強いものか。藤原さん、素敵な言葉をありがとうございました。
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「わしはおまえをまもるんや」
そんな風情で、いつも台所の棚などの高いところに上がって義母を見守っていたかっこいいちょこ。
そもそも、娘たちが近所で拾ってきて、東京のマンションで飼い始めた。小さな娘たちと、沢山の楽しい楽しい時間を過ごした。やんちゃな雄で、洗濯機の排水ホースを何度か外してしまい、下の階が水浸しに。それが原因で(3年くらいで)飼えなくなってしまい、いわき市の義母のもとに。
ここで彼は新たな役割を見つける。体の不自由な義父に変わって、義母を支えるという役割を。朝夕の散歩を一緒にしたり、モグラやスズメをとってきたり、外で彼女を待ち伏せしたり。一家をにぎやかにもり立てた。
そのうち、義父が亡くなり、彼女の本当の心の伴侶になる。毎日彼女を見守り、共に生活をした。
翌年2010年の初冬に、ちょこも亡くなり義母は一人に。
そして、その年が明けた3月11日に東日本大震災が起こる。すぐに義弟が彼女を名古屋へ呼び寄せ、そのあと親戚のいる長野へ転居して今は落ち着いて暮らしている。
幼稚園児だった娘たちの目の前に現れ、義母を支え、震災前に亡くなったちょこ。まるでわれわれのために生まれて生きてくれたかのようだ。
やっと、きのう全ての扇風機を片付ける。カバーを外して、きれいに磨き上げる。リビングや台所や子供部屋・・・。沢山の扇風機にこの夏もお世話になりました。おかげで今年もクーラーをつけずに夏を乗り切った。扇風機の片付けが、ハローウィンのキャンペーンの始まり辺りに重なるってことは、今年はかなり暑い夏だったってことかな。暑かった夏の後、実り多き秋に。
先週末から父の用件に付き添うため、数日上野に滞在した。朝、都美術館へ送り、夕方迎えに行くまでの間、いくつかの展示を見る。目移りするくらい沢山の展覧会をやっている。フェルメールが2つの美術館に来ていて、1時間以上の待ち時間で日向で大行列。みなさん、暑さの中倒れないで・・・。今回はパスして国立博物館の常設展示と、住宅案コンペ「生きるための家」展を見る。博物館は国宝や重要文化財の展示が定期的に変わるので、常設展とはいえ好きな物に当たるとうれしい。今回は、「見返り美人」の展示に当たり、掛け軸の表装の色味に感心する。絵そのものだけより、遥かに雄弁に語りかけて来るように思った。これは、好みもあるでしょうが。掛け軸全体の色味や質感も含めたモダンさが、遠い過去から現在の日本のデザインにつながっている。土器は平成館の方にも沢山あるけれど、こちらでもいいのが見られる。仏像も豊富。うーむ、これから何度行っても行き足りないかも。住宅案コンペ「生きるための家」展は学生と、卒業5年以内の若手によるコンペ。こちらも力作ぞろい。東日本大震災のあとの、共生への意識が出品作に沢山表れている。最優秀賞の原寸模型(建築そのもの!)は圧巻。
http://www.tobikan.jp/museum/2012/artsandlife2012.html
Antonio Carlos Jobim
僕の心が歌い出す
リオ・デ・ジャネイロが見える
恋しくて死にそうだ
リオ おまえの海 限りなく続く砂浜
リオ おまえは僕のためのもの
救世主キリスト
グアナラバラ湾の上で広げられた両腕
このサンバをつくったのは
リオよ 僕はおまえが好きだから ただそれだけ
全身をゆすりながら モレーナが踊り始める
太陽の、空の、海のリオ
ものの1分で飛行機はガレオン空港に着くだろう
このサンバをつくったのは
リオよ 僕はおまえが好きだから ただそれだけ
全身をゆすりながら モレーナが踊り始める
ベルトを締めるんだ もうすぐ着陸だ
光り輝く海 ごらん 滑走路に着いたよ
まもなく僕らは
着陸だ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この詩を読むたびに、「いやぁ、すごいなー」って思ってしまう。自分が生まれた町を強く愛し、こんな素敵な歌にできてしまったことに。町の息吹が曲の中に満ち溢れ、町が恋人でもあるかのように語りかけている。ちなみに、「モレーナ」とは黒人と白人の混血の褐色の肌の女性の事。ここで歌われている「ガレオン空港」は、いまでは「アントニオ・カルロス・ジョビン空港」と名前を変えているらしい。これも、すごいですね。日本はなんてたって「東京スタジアム」が「味の素スタジアム」ってなっちゃう国。ブラジルはヨーロッパと同じように、人の業績を町に残していく文化なのだ。
先日のオリンピックの閉会式で次回開催のリオ・デ・ジャネイロのコーナーがあって、ブラジル音楽の圧倒的なパワーを見せていた。西洋の文脈でみると若い、まだまだ一般的ではない文化が弾けていた。ブラジル音楽が好きな人にはたまらない演出。マリーザ・モンチ、セウ・ジョルジなど旬のアーティストが目白押し。オリンピックの式典全体は、あまりぱっとしないものでしたが。それはオリンピック自体に問題が大いにあるのでしょう。選手には関係のない構造が。道路にオリンピック関係者の車を通す専用レーンを50kmにもわたって、2車線の道路にすら1車線作らされたり、IOCのために運転手付きリムジンを500台用意する、またそのファミリーのために5つ星クラスのホテルを4000室用意する規定があったりと、そうとう要求がすごいらしい。IOCの委員は選手村に宿泊し選手とわいわいやってた方がオリンピック精神的にも良さそうだけど、そのような意識は無い組織なんですね。その辺が残念な大会ではあります。先日のリオ・デ・ジャネイロのコーナーはそんな事をしばし忘れさせてくれる時間でした。
8日あたりにはツバメも巣立ち、今日はすっかり秋の気配。色んな人との出会いでばたばたしている間に、例年どおり未消化なまま、あっという間に今年の夏も暮れてゆく。大きな世の中のうねりにまぎれてしまいそうな小さな町だけれど、通りを自転車で流していて感じるのは、「島時間」という感受性・精神性・身体性はいたるところに残されていること。これがこの町の素敵なところ。
もう何回見ているだろう、この映画を。外交官にして、純文学の詩人だった男が、「想いあふれて」や「イパネマの娘」を作詞しボサノヴァの誕生にかかわる。新しい恋人ができるたびに、「あなたを最高に愛している」ということを伝えるための詩を編み出す。それまでなかったような表現のラブソングや人生を描いた優れた曲を書き、そのあげくに9度も結婚・離婚を繰り返した、ブラジルの詩人。その人生は華麗に見えて、とても人間臭く飾り気がない。年をとっても権威的にならず、いつまでも不器用で子供っぽい。嘘つきで正直。臆病なおっちゃん。この詩人の人生が愛おしい。
われわれの日常のメディアに満ち溢れる、心のない建前の言葉ではなく、人生をたたえる大いなる詩がそこにはある。今生きている人生を賛美する詩が。
この映画には、詩が満ち溢れている。
映画はこういうナレーションで始まる。
親愛なるヴィニシウス
イパネマから、悲しみを君に伝えよう。
今、イパネマは春。
君はもういない。
君が生まれた1913年以来、初めての君がいない春だ。
君の名は通りに残っている。
昨日、その通りを3人のイパネマの娘が歩いていた。
ミニスカートをはいて。
この春、またミニスカートが流行している。
君は喜ぶだろうね。
海は荒れている。
東からの強い風が、雲と雨を運んでくる。
春の嵐だ。
劇中、フェヘイラ・グラールという詩人がヴィニシウスを思い起こして語る。
思い出の彼はいつも笑っている。
ヴィニシウスが消滅するなんてことはありえない。
ラジオをつけると僕の好きなボサノヴァが流れてくる。
そのたびに彼を思い出す。
彼は常に存在している。いつだって姿を現す。
面白いことにそれは失望したり幻滅している彼じゃない。
ここが肝心だ。
人生は気の持ちようだよ。
悪い方に受け取るか、良い方に考えるか。
それで、物事が決まる。
僕は悲観的な人間は嫌いだ。
実存の真実?
バカげてる、ベケットは退屈だ。
実存の真実などウソくさい。
腐った真実を語ったところで、
ノーベル賞は取れてもだれも救われない。
世界を元気づける人間がいい。
誰も真実を知らないのに、なぜ悲観する必要がある?
ヴィニシウスは僕らが生きる力になってくれた。
国は彼に借りがある。国民を幸せにしてくれた。
映画のラストには彼の「祝福のサンバ」が流れる。
悲しいよりも、楽しい方がいい
喜びに勝るものなど、なにもないのだから
心に光を灯す方が、素敵に決まってる
でも美しいサンバを作ろうとすれば
悲しみがたくさん必要だ
耐えきれないほどの悲しみが
でなければ、サンバなんてできやしない
さもなければ、
ただきれいなだけの女性を愛するようなもの
女性は美しさ以上の
何かを持っていなくてはならない
女性は涙するような
何かも持っていなくてはならない
悲しい何かを
「サウダージ」を感じるような何かを
傷ついた恋と同じような
自分が女性である事に気づく
悲しみから来る美しさを
それは恋人のためだけに生きる事
それは全てを許す事
サンバを作るのは、ジョークを飛ばすのとは違う
冗談でサンバを作っても、何にもなりはしないんだ
素晴らしいサンバは祈りと同じ
なぜならサンバはスウィングする悲しみ
でも、悲しみにはいつも希望が寄り添っていて
いつかはきっと、この悲しみも終わるのだと
思わせてくれるんだ
カデンツに、愛を
この世には、勝てるものなんかいない
サンバの美しさには
サンバはバイーアで生まれたものだから
たとえ、その詩はホワイトでも
今日、その詩はホワイトでも
ハートは、十分すぎるほどブラックなんだ
例えば、わが友ヴィニシウス・ヂ・モライス
詩人でもあり、外交官であり
ブラジルで最も黒人らしい白人である
シャンゴーの神の直系の子孫、サラヴァ!
女神に祝福を
バイーアのオリシャー神よ、
ドリヴァル・カイーミの地、ジョアン・ジルベルトの地
ピシンギーニャに祝福を
あなたはフルートで
愛の涙のすべてを流させてくれた
カルトーラに祝福を、シーニョに祝福を
イズマエル・シルヴァに祝福を
エイトール・ドス・プラゼーリスに祝福を
ネルソン・カバキーニョに祝福を
ジェラルド・ビニェイロに祝福を
シロ・モンテイロに祝福を
私はあなたの甥であることが名誉です
ノエルに祝福を、アリに祝福を
わが故郷の偉大なるサンビスタたち全員に祝福を
白人も黒人も
オション神の肌の様に柔らかなムラートも
マエストロ・アントニオ・カルロス・ジョビンに祝福を
パートナーであり偉大な友人
あなたはすでに数多くの曲を旅立たせた
まだこれから旅立つ曲はいっぱいあるだろう
カルロス・リラに祝福を
100%のパートナー
あなたの行動は感覚的で
思慮深いこの人たちみたいに、
人生と戯れながら行くのかい?
気をつけるんだ相棒よ
人生は価値あるもの
人生はただひとつだけ
人生がふたつあれば
それはそれでいいかもしれない
確信を持ってそんなこと言うやつはいない
最後の行に偉大なる神の承認が書いてある
天国の戸籍係でもないかぎり
そんな事言ってもしょうがない
人生はゲームではない
人生は出会いのアートだ
たとえ人生に数多くのすれ違いがあったとしても
君を待ち望んでいる女性がいるから
愛情に満ちた瞳で彼女の人生にもちょっぴりの愛を
サンバみたいに
バーデン・パウエルに祝福を
新しい友、新しいパートナー
一緒にこの曲を書いた友に祝福を
マエストロ・モアシール・サントスに祝福を
あなたは一人のサント(聖人)じゃない
ブラジルの全ての「サントス」
わが聖人サン・セバスチャンもその中にいる
サラヴァ!今その祝福を分かち合う
そして私は別れを告げなくてはならない
(対訳・國安真奈)
ヴィニシウスはだれを責める事もなく、女性たちを愛し、自分をも含めた詩人やアーティストや聖人たち全てを祝福し、去って行った。
ヴィニシウス/愛とボサノヴァの日々
ミゲル・ファリアJr.監督作品/2005年 ブラジル映画
日本語字幕:松岡葉子訳/字幕監修:國安真奈
料理を作るのは好きなのだが、米を研ぐのがあまり好きではなかった。なにか単調な作業に思えたのだろうか、いつもおっくうに感じ、その度に気が(少しだけど)重くなっていた。
時は流れて去年の夏に、米は土鍋で炊き、炊いたご飯はお櫃に移すことにした。電気釜が壊れてしまったことと、夏の電力不足も重なって、やり方を変えたのである。するとこれが大当たり。米を研ぐのが楽しくなった!
考えるに、電気釜のてらっとしたアルミの内鍋に触れたり、これにくっついたご飯を取って洗ったりする事があまりしっくりきてなかったらしい。また炊く時に、米をカップで量って、規定どおりの水を入れることが、機械的でおもしろくなかったのかな。今は陶器や木材に触れているだけで、体は納得し喜んでいるようだということと、土鍋だと米の量も水の量も全て感覚でOK。さらに炊きあがりも、蒸気の香りでチェックするので五感が生かされて楽しい。色んな要素が重なって、「私は米を研ぐのがあまり好きではない」ことはなかったのだ。電力不足も、満更でもない。
これは、何か他の事にも応用できるかな?日々の中でできれば回避したい事も、まっすぐに努力して乗り越えるのではなく、システム自体を変えてしまえばスムーズに行くかもしれない。無理してがんばらない。視点を変える。すると、ストレスが無くなるだけでなく、より楽しくなってしまう。何事においても、そのように生きられればよろしいね。
亡くなった者を偲ぶ時間は、穏やかな諦めに満ち、時間というものに否が応でも向かい合わされる。彼の両親、同僚たち、そして地元の親戚や仲間たち。酒を酌み交わすうちに、彼もその場所に来て話し始める。一年経つと、何かが変化してそれが人に及び、それぞれが口を開き始める。亡くなった者によって与えられた時間。翌朝、彼が歩いたであろう道を、今を生きている同行の友人と歩き、甘酸っぱいサクランボの土産を買って、生きている家族のもとへ帰る。
クートラスとの出会いは、ある先輩から贈られた彼の小さな画集だった。「これはきみの世界かもしれないね」といった趣旨のメモと一緒に去年の夏に送られて来た。確かに小さいカードを沢山作るところや、素朴なテキスチャーは好きだな、と思いながら、絵を眺め、「それにしても最近亡くなった人にしては、なぜこんなに絵が中世の時代風なんだろう?」と思い、心の隅にひっかかっていた。そうこうしているうちに、今年に入ってこの「クートラスの思い出」という本に出会った。これは、彼の最期を看取った日本人女性の目から見た、彼の生涯の記録である。悲しくも美しい、という表現だけでは収まらない、想像を越えた古典的な芸術家の姿が刻まれていた。
彼は1930年にパリで生まれて、1985年に亡くなったアーティストである。若い頃は画廊に属し絵を描いていたが、売るために描くことに嫌気がさし、自由にしかし貧しく生きていくことを選ぶ。画材を買うことすらできない極貧のなかで、カルト(カード)の制作を始める。それがパリの5月革命(1968年)の頃。1977年にこの本の著者である岸真理子さんと出会う。生活をともにしたことで得た多様なエピソードが、この本には詰め込まれている。それを貫くものは、現代のアーテストには考えられないであろう、金銭への無頓着と、自由に生きることへの願望である。毎日作り続けるカルトは、重ね塗りした絵の具の面に、ヤスリをかけたり、アイロンをかけたり。そうして放置し、風化させる。そんな熟成のプロセスがあって、このカルトが出来上がるらしい。古さを感じるわけだ。
しかし、その古さの本質はその制作技法によるものだけでは、成立しないだろう。おそらく、彼の持つ内的な中世的時間感覚のようなものが、作品にそのような時代性と、品格を与えているように感じる。さらに(彼は無神論者だったらしいが)神への視線も感じる。
またこの本は、岸真理子さんの詩的でいて鮮明な記憶に基づく文章や、飾り気のない愛に満ちていて、2重3重にアートの層が重なっている。「クートラス、幸せだったね」と、読後心の中で思った。本当に悲しくて美しい恋愛小説を読んだような思いだった。でも、これはノンフィクションなのだ。
そして先日、現物のカルトを見に行って来た。それは、この作品を見るのに、これ以上の場所はないと思える場所だった。麻布台の和朗フラット4号館。1930年代に建てられ、いまも大切に使われている木造の洋館の集合住宅。その一室のギャラリー空間と、作品が一体化していた。そのカルトを岸真理子さんから託され、展示しているギャラリーSUの山内彩子さんの温かく聡明な人柄もあって、大切に受け継がれているカルトを見て、ここでも「クートラス、幸せだね」と思った。カルトはモチーフごとに分けられ、それぞれのモチーフがまた何バージョンもある。そこにはもう沢山のモチーフはなかったけれど(10モチーフくらい。各モチーフにそれぞれ3〜20バージョンくらいバリエーションがあった。ドットや球体、波頭のような模様やCOUTELASの文字が入ったものなど)それが並んでいくとバッハのゴルトベルグ組曲のように、重層的に色や形が響き合ってくる。カルトに触れると、思っていたようにそれは分厚く、無骨で、彼の魂を手に持っているように感じた。そしてカルトを手にし、作品世界と繋がっている自分もまた、様々な人々と繋がって生きている歴史の中の不思議な存在に感じた。
クートラスの思い出/岸真理子・モリア著
Gallery SU:http://gallery-su.jp/index.html
また今年も、この季節が巡ってきた。毎日生まれてゆくバラの花。アリが出て来た。バラにはミツバチ。一時間見ないうちに、植物は育つから。同じように、若い人は驚く速さで育って行くね。年老いた人は、別の時間で進化する。5月は他の月より進む速さの密度が違うように感じる。美しい五月。
少し東京を留守にしていたせいか、今年の春はあっという間に生まれて育っている感じがする。ぶどう、レンギョウ、バラ、菜の花、桜にタマネギ!こんなにタマネギが蠢いてくると、驚く。年に一度くらいしかしないすきやきでもしよう!今日は家族にうれしいこともあったことだし。
見つめられることによって、人は成長するんだな、と考えさせられた。全くのダンスの素人(14〜17歳)にダンスをさせるという試み。専門の教育を受けていようが、受けてなかろうが、ピナのダンスは同じ一人の人として、その人の心を解き放っていく。ピナのダンスには、予定調和的流れや、ラストの大団円や、物語としてのカタルシスのようなものは、もともと存在しない。西洋のバレエにあるような「望ましい形」という形を作らず、演じるその人の形を「望ましい形」とする。ドキュメント性が前面に出て来る「その形」を作るためにダンサーは、考え、悩み、叫び、走り、交わり、話し、笑い、泣き、触れ合い、心を開き、踏み出していく。参加している若者自身に起こった父の死や、自国の内戦による悲劇を思い起こす。いつもは舞踏団のダンサーたちがやっていた自分を見つめる行為を、今回は素人の生身のカラダを持った若者たちがやるものだから、見る方へのインパクトは大きく、感動を誘う。
練習を見るピナの眼差しは優しい。現場を取り仕切る彼女の舞踏団の二人のベテランダンサー(ジョーとヴェネディクト)にも、けっして多くを語りはしないが、穏やかな心配りを見せる。あの激しい舞台は(時に底なしの残酷ささえその表現に取り込まれている)、こんなにも穏やかで、愛に満ちた空間で行われていたことを知り、驚いた。
しかしまた、その愛があるからこそ、受ける者にとっては、責任やプレッシャーもきわめて大きいだろう。
つまり、ピナ以外の人たちは、ピナに見つめられることによって、愛を受けると同時に大きな責任を課される。自由を与えられることによって、独自に思考する自由を得るとともに、自分から動いていかざろうえない局面に追いやられる(これは恋愛と寸分違わないことだ)。その両面があることによって、若者たちはすごい勢いで成長しているように見える。彼らがピナから受け取ったものは、計り知れないほど大きい。それを見ていると、本当の教育者との時間の中にいるように感じる。それを見ていると、心から幸せになる。それを見ていると、涙が出て止まらなくなる。この映画を見る者も、ピナのまなざしによって成長させられているのかもしれない。
ピナ・バウシュ 夢の教室/アン・リンセル監督 2010年
https://www.youtube.com/watch?v=j9OZhrmOK8k/
ヴェンダース監督のこちらも。
Pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち/ヴィム・ヴェンダース監督 2011年
https://www.youtube.com/watch?v=Nihr5yqcHGg/
これらを見ると、ピナ亡き後、もしかしたらもう一度「コンタクトホーフ」の舞台が日本でも見られるかも、と思ってしまう。なぜなら、ダンスとは次の世代への伝承のアートだから。
今年もまた、梅の咲く季節。光が少し春らしくなったので、週末にいそいそと出かけた。空気がまだひんやりしている日中に、花を見たりする幸せ。しみじみとしていて、桜とは違う趣がある。日の光は、春を手招きするようにあちこちで跳ねてる。池には冬の鴨がいて、海の彼方には春らしい陽炎。毎年家族と行けることに感謝。それにしても、その日に届いたYONDA君。夏に応募してたのにあまりに届くのが遅く、サプライズ的にうれしい、という妙な感慨。YONDA君も春の使者?。
寒い日が続くので暖まるために、アントニオ・カルロス・ジョビンの曲をヴィジュアル化してみた。(ちょうど今ブラジルはカーニバル!)サンバやボサノバはいつ聴いても、若々しくみずみずしい響きがある。ロックなどとはまた違った形の若い時代を表出している。この曲の軽妙さと、シリアスさ。当時は最高に洒落ていただろうメロディー。それに乗せる歌詞の乗せ方。雰囲気が出てるといいな。原曲の詞はニウトン・メンドーサだが、これはジョビンみずから作詞した英語版からのイメージ。
これはささやかなサンバ
ひとつの音符でできている
他の音符は自然とついてくる
でも最初の音符は変わらない
新しい音符は経験してきたことの結果にすぎない
私があなたの生んだ結果を避けることができないように
多くの人はしゃべってばかり
結局なにも語っていない
知ってる限りの音階を使っても
結局何も出てはこない
だから私は最初の音符に戻ってきた
あなたの所へ帰るのと同じように
一つの音符にあなたへの全ての愛を込めて
派手なショーをお望みの方には
レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド
そんなものがなくても、自分を見つけるだろう
あなたのひとつの音符を奏でなさい
This is just a little samba
Built upon a single note
Other notes are bound for follow
With the rule that's still that note
This new one is just a consequence
Of the one what 's just been through
As I'm bound to be the avoidable
consequence of you
There's so many people who can talk and talk and talk
And just say nothing ,ah nearly nothing
I have used up all the scale I know at the end
I have come to nothing or nearly nothing
So I come back to my first note
As I must come back to you
I will pour into that one note
All the love I feel for you
Anyone who show the whole show
Le mi fa so la ci do
He will find himself with no show better
Play your single note
去年の11月のコンサート(11月25日、東京国際フォーラム)で、彼女は全霊をかけて歌っていた。震災の年に、あの急造日本人バンドと一緒に。そんな外国人歌手を知らないし、そんなステージを見たことがない。世にもありえない光景が目の前にあった。何度か、涙が出た。なんと今、そのバンドでワールドツアー中である。日本への思いを伝えるために。
私が知るかぎり、(極端にいえば)彼女はわれわれ日本のファンによって生かされていた。今は、ゲンズブールの曲が英訳され、世界中に広まリ、英米でフォロワーが増えている(それは、ゲンズブールの死んだ1991年以降のこと。日本でのゲンズブールの最初で最後のコンサートは1988年、バーキンの最初のコンサートは1989年)。でも、その前夜、1980年くらいからフランス語の翻訳を読み、あのこんがらがった比喩や引用や言葉遊びを完璧ではないまでも感覚的に理解し、メロディーの美しさにうたれ、ゲンズブールに酔ったファンが日本に数多くいたこと。そのことを、彼女はうれしそうによくインタビューで話していた。
「日本のファンは、みんなフランス語の訳を読んで来てくれる繊細な人たちなの・・・」。たぶん、そんなファンは世界にいなかったのだろう。スタンディングオベーションは最後の最後だけでいい。大人のコンサート。彼女のおかげで、われわれは成熟したコンサートを知った。しかし思うに、彼女は80年代から、われわれを裏切らず、きちんとテーマのあるアルバムを作り、コンサートをやっている。それは、昨今日本に来ている新譜のない稼ぐだけの大物アーティストたちのコンサートに比べると、実は雲泥の差があるのだ。3年に一度、内容のある新譜を作り、人の口に上るのがいかに大変なことか。
そして、ゲンズブールの曲を歌うのと平行して彼女は、2008年から「アウンサン・スーチー」という曲を作詞し、ミャンマーの現状を訴える歌を歌ったりもしている。ミャンマー(旧ビルマ)のことを歌った歌手にU2がいたが、他にいただろうか?かつてロックがやった政治的、人権的なことを、バーキンがやっているのである。今回も、彼女のコンサートには「国境なき子供たち」のブースがあった。そんなまっすぐの形が、毎回の彼女のコンサートにある。それは、かつて熱い気持でロックコンサートに行って感じてたような、われわれの小さな生活は生の世界に直接触れているということを教えてくれる。今も出来事は目の前で起こっているのだ。歌自体はハードではなく、ソフトに。いま議論に説得性を持たせるのは、そういう態度かもしれない。
東京ー大阪。かつては3時間だったものが、いまや2時間に迫ろうとしている。 そこまで,急ぐこともない用件の時は,こだまを利用する。早割もあり。それを利用すると、所要時間は4時間。ゆったり本が読める。お茶が飲める。距離が昔のように遠くなり,旅情も多少は復活。狭くしてきた日本を,精神の中で新たに広げる運動。それにしても、今年も富士山の雪が少ない。新富士駅で、停車中にしげしげと見る。豊橋駅で停車すると、ういろうの気分。三河安城(みかわあんじょう)という駅の音の響きに引っかかる。各駅停車で行くと、そんなことがいちいち気になってくる。大急ぎで飛ばし読みしてきた文章の、行間を楽しむ運動と言えるのか。もしくは、「もう、この辺りまででいいよ」という、速さという膨張を少し後戻りさせ、人間の捕らえられる感覚に引き戻す運動か。ポスト・グローバリズムの世界は、これまで人間が進めてきた膨張ではなく「縮む世界、もしくはダウンサイジング」になると言われているが、理想的な速さは、どの辺りなんだろうか?
寒い中なぜかペンギンを見に行く。寒風にも動じず、あくまでペンギン的に気持ち良く泳いでいる。いつ見てもペンギンはペンギン。わいわいと、群れたりはぐれたり、のんびり泳いでたかと思うと、急にターンしたり、潜水したり、陸に上がってよたよた歩いたり。いわしの取り合いをするやつがいて、背中をぽりぽり引っ掻いてるやつがいる。ジェット噴射のように、排泄してるやつも・・・。それらのすべては、あたりまえのこと。われわれもこんな風に、群れたりはぐれたり、いつまでもそんなには変われず、かっこよくスマートにもなれず、どたばたしながら生活していくのだ。新しい年、彼ら(彼女ら)みたいに楽しげに、何を気にしている風でもなく、飄々と生きていきたいものだ。どうぞよい年をお迎えください。
ひとつはコミック版『星の王子さま』である。作者は原作を維持しつつ、行間を膨らませるようにストーリーを編んでゆく。オリジナルの寓話的物語が、コマ割りになり、さらにストーリーが膨張してゆくことで、新たなパワーを得て現代的になっている。絵がいい。王子さまが急に邪悪な顔(猫目小僧みたい)になったり、滝の涙が流れたり、本当に小さく可憐な子供に変わって、サン=テグジュペリに抱かれていたりもする(おおむね王子の顔は変な顔に描かれている)。また、さまざまな登場人物のキャラクター作りがうまい。この作者は、ゲンズブールの伝記的映画も撮っていて(映画の出来は悪いが)、幼い頃の回想シーンに現れるゲンズブールもどきの人形のキャラクターは素晴らしかった。幻想と怪奇的なものの境目の世界観が得意なのだろう。その飛躍が気持ちいい。そもそも全体の半分くらいのページにサン=テグジュペリが登場してる所が普通ではないのだから・・・。そして、この本の中に元々あるエピソード。自分が水をやったバラが、他のどんな美しいバラよりかけがえがないというくだりがある。その一輪のバラの話を、猫に置き換えたものがもう一冊の本『吾輩は看板猫である』である。まさに、ご近所で大切にされている猫ばかり。ゆるやかで温かな、日だまりのような、かけがえのない生活を描いた写真集。幸せな猫たちと、幸せな人々との交流が「青果店のミミ」とか、「理髪店の全次郎」とか、次々と出てきて見飽きない。何度でも繰り返し見てしまう。さすがに「看板猫」と謳ってるだけあって、出てくる店も、銭湯、宝くじ売り場、クリーニング店、唐辛子屋、中華料理、酒屋、駄菓子屋、仏壇店、民族衣装店、中古レコード店、ブラシ製作所などなど。全店で店番をしています。単なるかわいい猫のオンパレードではなく、店で働いている、とした所がみそである。まったく可愛くない猫もいる。しかし春のあの爆発以来、このような生活を手放さなければならないくらい切迫した状況にわれわれは今追い込まれている。奇遇にもこの本は発行が3月10日になっており、あの爆発以前の神話的世界のように見えてしまう。しかしこの猫ちゃんたちとの生活は絶対に手放してはいけないし、「あの人たち」によって、奪い取られてはならない。この小さな、温かいものを手放さなくてもいいように、考えていかなくてはならない。
『星の王子さま/バンド・デシネ版 作:ジョアン・スファール 訳:池澤夏樹 原作:アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ』
『吾輩は看板猫である 著者:梅津有希子』
いわき市に親戚の所用で訪れる。道中のコスモスにカメラを向けると風の中、揺れながら何度もこちらに話しかけてくる。美しい青空のもと、いろんな思いを笑うかのように。
インドからダイアリーが到着。また、新しい年がやってくる。来年のテーマは「無国籍のアイコン」。チェコやロシア、インドなどのモチーフが満載です。
春に死んだ家族のお墓の周りに、彼岸花。普段なかなか行けないわれわれの代わりに寄り添うように。自然の摂理に感謝する。捨てる神あれば、拾う神あり。世のなか、捨てたものではない。
3人の息子たちと家族の物語。物語に大きなうねりがあるわけではない。キリスト教の世界観を小さな世俗と取り結んでる。家族の日常の喜びや諍いのシーンと、天地創造が並列して次から次へと描かれる。監督の繊細な筆遣いが、人間の生きる意味のような事柄を、ひとつひとつひも解いていく。出産シーンを、水没した家の窓からの脱出になぞらえる。その映像の美しさ。イメージの洪水。ミクロとマクロを行き来する、神の視点。アメリカの田舎の頑固親父をブラッド・ピットがうまく演じている。これほど音楽が異様にくっきりと聴こえてくる映画をゴダール以外に知らない。ラストシーン、これまで出て来た大勢の登場人物たちが広大な浜辺を歩く場面の中で、少年時代の自分とすれ違う主人公。希望に満ちたラストがうれしい。
テレンス・マリック監督・脚本/2011年/アメリカ映画
今日、小出裕章氏の「原発のウソ」(扶桑社新書)を読んでいて考えてしまった。
なぜ、小出氏の様な人が少数で、悪の手先のような人が多数なのか。まさにディズニー映画の様相。アメリカの影響も大きいが、学校の現場もおかしくなっている。とりわけ公立で教育を受けた人は(筆頭は東大、京大)は将来的に、日本に善を返すという意識が強くあっていいはずなのに。もうけ意識を育てている学校にも多大な問題があるように見受けられる。アメリカのアイビーリーグ的思想(授業料が年間500万円)。教育の中にモラルが含まれていない。マイケル・サンデル氏のアンチ・リバタリアリズムの様な思想が広がらないと、破滅への加速度は増す。
夏は冬より自転車の速度が速くなりませんか?速く走るほど、夏は涼しい。だから、自然と速度が上がる。桜並木を走るとき、蝉時雨が5チャンネルにも6チャンネルにも聞こえ、さらにドップラー効果で音程が変わって行くのが心地よい。何度も試してしまう。音の渦の中に埋もれて。そして夏が、未消化なまま終わってゆく。政治的な決断の必要性。「遺伝子組み換え大豆不使用」と同じように、「原子力エネルギー不使用」の表示の商品が売れるようになるかもしれない。われわれはもう、選んでエネルギーを買いたいのではないのかな。スピードを少し上げよう。福島の子供たちのことを思おう。
http://www.youtube.com/watch?v=Vyd3O1SeHsQ&feature=related
http://www.apbank.jp/
http://www.msf.or.jp/index.php
自然にあふれ、生き物にあふれ、人にあふれ。
夏真っ盛りの海はおだやかで、
いろんなものが奇跡的なバランスを保って。
美しい緑とブルー。
我々はイルカといっしょに暮らせはしないけれど、
少し想像力を使えば、いつも身近にいるように感じられる。
我々の世界とは全く違う世界がそこにあり、
人間よりも巧妙なコニュニケーションの世界が広がっているようだ。
争いを回避するシステムが巡らされている。
快感を得る、肉体の原則がある。濃密な親子の感情がある。
生命エネルギーの爆発がある。
心をなくした世界中の政治ショーを毎日見せられているわれわれは、
大事な命を忘れないためにも、時に彼らを思い出したい。
Live with dolphins,travel with whales!
福島では小学生が学校のプールに入れないらしい。暑くてしばらくつらいだろうけれど、授業が終わったら、みんなで市営プールへ繰り出そう!
スポーツクラブや会員制のプールより、市営プールで泳ぐ方がうまくなる!?って言うと、そんなうまい話はない、って言われそうだけど、実際そうなのだ。最も悪いのが高級会員制プール。泳いでるのは、ほぼ年寄りのおじさんである。プール全体が静かで活気がない。その中にいても、あまり楽しい場所ではない。スポーツクラブも一所懸命泳いでるだけで面白みに欠ける。それにひきかえ、市営プールには泳ぐことの全てがある。まず年齢層の広さ。下はおむつがとれた赤ん坊から、上はリハビリで来ている老人まで。最も中心的な存在は、子供を泳がせているお母さん方である。小さな子供と遊ぶお母さんは本当に美しい。お父さんも見ていると中々いいですよ。子供と大笑いしながら、遊んでいる。泳がなくてもこれでいい。町中じゃあ、出さない表情。そもそも裸だしね。さらに、小中学生の泳ぎの達者な少年少女たち。隣のコースなどで泳いでいると、躍動する体がイルカのように見える。ダイエットで、歩くプールにいる女性たち。選手上がりの青年たち。マスターズにでも出場しそうな老人たち。発達障害の少年たちのクラスが数コース貸し切りで行われている。子供たちの歓声、水飛沫の音、天窓から差し込んでくる陽光。監視員のにいちゃんねえちゃんの真剣なまなざし。そういった沢山のエネルギーの渦の中で泳いでいると、泳ぐことによる充足とはまた別のエネルギーで満たされる。プールの環境全体にα波が満ちているようである。という訳で、その波動に触れるために自然と毎週通うようになり、泳ぎが徐々にうまくなるという訳である。みんなで、市営プールへ行こう!
友人の葬儀の帰途 福島を通る。ここは、義父の墓のある町。この町に漂ってるであろう放射線を思うと、いつもとは違う風景に見えることの悲しさがある。「ここが家だ」という書物〈ベン・シャーン(絵)/アーサー・ビナード(文)〉、ビキニ環礁で被爆した第五福竜丸を描いた物語の中の一節が思い出される。
「ビキニの海も 日本の海も アメリカの海も ぜんぶ つながっていること。原水爆を どこで 爆発させても みんなが まきこまれる。『久保山さん(筆者註:福竜丸乗員の最年長者、被爆のため死去)のことを わすれない』と 人々は いった。
けれど わすれるのを じっと まっている ひとたちもいる。」
最近の電力関連のニュースから見えてくる、グロテスクなひとたちの姿が、じっと時が経つのを待っているひとたちの姿が立ち上がってくる。福島のこと、福竜丸のこと、そして亡くなった友人が受けた放射線治療のことが絡まり合って、この科学の途方もない闇の部分に呆然とする。
あるコンサートを見ていて、「ああ、これは二度と経験することができない季節のようだな」という気持ちになった。春夏秋冬という四季の巡りは、程度の違いはあれ、毎年繰り返されるものである。それがもし、春夏秋冬のあと、全く経験したことのない別の季節に変わって行くとする。たとえば春夏秋冬青音竹爆水霰風香痛穴・・・と初めて経験する季節が次々現れてくる。冬の後は、世界が真っ青に染まってしまう「青」という季節。次に世界中が不思議な音で満たされる「音」という季節。至る所から竹が次々生えてくる「竹」という季節。あらゆるものが自然に爆発する「爆」という季節・・・。同じ季節は2度とこない。人々は次にどんな季節が来るのかがわからないので、年間の予定が立たない。そのような、予想もできないような展開の音楽、追体験できないような音楽を聴いた。そういった観点から考えると、通常の音楽を録音したCDは季節を再生する装置かもしれない。バッハの音楽を随時取り出して聴くのは、季節を繰り返し経験することに似ている。CDを聴くことで、いつでもまたその季節に戻って行ける。CDはきれいに並べられた様々な季節である。100枚のCDがあれば、そこに100の季節がある。それぞれの季節に、赤ん坊の誕生があり、友人の死がある。季節を何度も何度も経験することで、われわれの心は既視感にとらわれつつ新たなものを見いだし、かけがえのない体験の淵に降りて行く。日常のメディアを超えた、原初の記憶を掘り起こすような世界がエヴェリン・グレニーのコンサートにあった。「エヴェリン・グレニー パーカッション・リサイタル」
横浜みなとみらいホール 大ホール 2011年6月7日 (火)
https://www.youtube.com/watch?v=rEuZ3B9B4HA
https://www.youtube.com/watch?v=IU3V6zNER4g
震災後の報道の中で、汚れたり傷ついたりした写真をきれいにして被災者に届けているというニュースをいくつか目にする。写真を洗浄したり、デジタルで修復する学生ボランティアがいたり。衣食住に次いで、基本的な生活アイテムとして、写真が占めていた精神的役割の大きさを感じる。生活の中で多くの写真を所有しているわれわれは、どうやら意識せずともそれによって自己確認の作業を行ったり、心を癒されたりしていたようだ。そして、精神的に依存していると思えるくらい、写真は大きな存在になっていたのかもしれない。水のように、空気のように。なくてはならない存在。生まれた日から始まり、入学式や各種の学校行事のたびに、写真が撮られていく。そしてアルバムの中には、生きてきた証としての写真が息づいている。幸せな笑顔があり、家族や友人がいる。旅があり、季節があり、出会いがあり、別れがある。その背後には、決意と諦めがある。そこに写っている幸せな出来事が、われわれを支え励ましている。
昨日の新聞にあった『君が代起立命令は合憲』の記事に行政側のセンスのなさにため息がでた。これによって校長は教職員に対して起立斉唱命令を出せるらしい。何らかの理由があって歌いたくない人に、それを強制することは低次元だと思う。国歌を歌ったり、国旗に敬意を表したりするのは、その国を好きだと思ってるからこその行為である。この国を好きだと思わせるような仕組みを作らず、強制的にその行為をしいることは、逆効果だということに考え及んでいないことが情けなく愚かしい。世界から見るイメージにしても同じである。「キューバっていろいろ問題があるけど、医療制度がいいよね。弱者を助けてて素敵だよ」、「チェコはいろんなデザインがかわいいだけじゃなく大国に対して無血で革命をしたり、正義感があってかっこいいよね」など、われわれはそれぞれの国のイメージを持ち、好きになったりする。そして、その国を尊敬したりする。だから、「ブータンってGDPじゃなく、GDHとかいってることが将来性を感じるよね」などといわれて評価があがる一方で、「日本って文化や食やハイテク製品や治安の良さや国民性や、南北に延びた地形からくる変化に富んだ自然などみんないいんだけど、学校の先生は国歌を強制されちゃってるんだって。大きい声じゃ言えないけど、実は独裁的で怖い国なんだね」って言われることになるであろうことに気づいていない。原発処理の問題に続き、日本の不人気をプロモーションしている。
身近な動物が亡くなると、その飼い主に代わって死に臨んだんだとよくいわれる。動物は目に見えない危険を察知して、人間より早く行動を起こす。そのため、人間からみれば動物が人間の先回りをして、その危険を負って身代わりで死んだように思えるのだろう。それを今の日本の状況にあてはめると、相当に怖いことになる。日本全体が危険な状況にあるからだ。
しかし私は、もう一つの説をとりたい。(これは私にも覚えがあるのだが)動物を飼いたいと子供が言い出すのは4、5歳くらいだろうか。「かわい〜」とか言いながら、子供は本当に全身で動物を愛してしまう。そのうち犬に引っ張られてた子供が、犬を引っ張るようになる。主従が逆転し、数えきれない経験を共有し、そうしてやがてその蜜月も終わる。私も小学生時代に犬が死に、埋葬するために親が農家の方に頼んで、引き取りに来てもらった日があった。真っ暗な夕方、土間のところで、その人に犬を託し、泣きながら見送った。永遠の闇の中に、犬が入って行くようで絶望感に襲われたこと。小さい時に飼いだした動物は、寿命の関係で飼い主の子供時代が終わる頃にその寿命を迎える。つまり、動物の死が子供の少年・少女期の終わりを意味している。子供であった飼い主もまた、動物のように成長していた。動物達は、飼い主を大人にし、何かを残して去っていく。そのために生まれて私たちの前にいたかのように。
なにげない日常が違って見えている。今は、人間の力が試されている時。現代の生活の中であまり使ってなかった部分の知性や直感を使って判断していく。出てくる情報をそのままうのみにするのではなく、また過敏でパニックになることのないように。いま自分にできる小さなことでも貢献できる。買いだめをしたり政治家を批判することではなく、食品の食べ残しが無いようにしたり、周囲の人を大切にしたり。なにか、小さなことでも遠くに影響があることを想像する力も問われている。
日が経つにつれ、被害の深刻さが明らかにされてきている。喜びを与える海は、一瞬で悲しみをもたらした。あまりに恐ろしい現実。これ以上の、悲劇が起こらないことを祈る。
いつまでも、変わらないでいてほしいもの。太陽のにおいのするバスタオル。少しくたびれたジーンズ。冬のシチューやベルギーワッフル。‘My favorite things’の歌でもないが、雪の冬が春に溶けて行くこと。人ならば、私の名字や名前を呼び捨て(または君付け)で語りかけてくれる女性。電話の受話器を耳と肩で挟んで喋りながらメモをとる女性も。今年の冬も、雪は変わらず白く、美しい。
Raindrops on roses and whiskers on kittens
Bright copper kettles and warm woolen mittens
Brown paper packages tied up with strings
These are a few of my favorite things
Cream colored ponies and crisp apple streudels
Doorbells and sleigh bells and schnitzel with noodles
Wild geese that fly with the moon on their wings
These are a few of my favorite things
Girls in white dresses with blue satin sashes
Snowflakes that stay on my nose and eyelashes
Silver white winters that melt into springs
These are a few of my favorite things
When the dog bites
When the bee stings
When I'm feeling sad
I simply remember my favorite things
And then I don't feel so bad
[My Favorite Things
written by Oscar Hammerstein / lyrics;richard Rodgers]
毎週末行くおいしいランチの店での、唯一の悩みごとといえばこのグラス。いくつかグラスの種類があって、透明のグラスはなんら問題がないけれど、モルツのグラスに当たった日は、水が少しモルツビールの味がする。マグリット的な意味の置き換えを感じてしまう。ランチの時に、この気分は違うんだな。日々の暮らしの中でも知らないうちに影響をうけていること。今いる部屋や、そこにある植物や細々としたものの色や形。窓から見える雲が多い空や、全くない空。ころがっている商品のパッケージ。床に落ちている紙屑。そんな色いろの目に見える部分で、その時の気持ちに影響が及ぼされている。そのものの本質がまとっている外側の形。それによって、知らないうちに気分がよくなったり、悪くなったり。具合が悪くなることすらある。サラダボウルに「ごはん」、みそ汁のお椀に「オレンジジュース」と書かれてたりすると思うと恐ろしい。だから、このグラスが出てくるたびに、少し動揺してしまう。いいお店なんだけどな。そばで小さい子供も、モルツで飲んでるんだ、水を、おいしそうに。
年末に修理に出したレコードプレーヤーが復活。もう直らないかと思ってたけど、きちんと直って帰って来た。30年以上たって使える家電もすごい。構造がシンプルなので、トランジスタやコンデンサを換えれば直るのだ。もう、家族ですね、この関係は。以前にも、もとの会社の友人達と話していて、「年に何回か会うこういう関係って、ほとんど法事で会う親戚だよね」っていう話がでていた。友人も長くつきあうと親戚になる。まあそれはさておき、このプレーヤーはずっと棚の中にいて、ちょくちょく(最近はCDをかける方が圧倒的に多いけれど)活躍してくれる。その上、音がいいので、ほっこりする。LPは、最高の段階で音質の進化が止まってるから、CDのように改良されるたびに買い替えなくてもいい。しかも、すでに昔の名盤を沢山持っている。これって、レコードプレーヤーのことを言ってるんだけど、つきあいの長い友人のことを説明してるようにも思える。一方、今の世の家電の趨勢は、3年で陳腐化する携帯電話や、5年で古くなったと感じさせられるコンピューター。愛着を持つ暇もなく、使い捨てられていくものたち。そんな商品を、われわれは使わざるをえなくなってしまった。3年で離れて行く友人にも何らかの縁があるんだろうけど、30年、適度に会って刺激し合える新旧の友人が増えるといいな。そんな気持ちで。2011年。(Virginia AstleyのLP:Hope in a Darkened Heartを何度も聴いている。昔のように)
今年は、電子ブック元年だったせいか、逆に手触りの美しい本が多かったような気がする。いい本に共通しているのは、読者を励ます内容に満ちていることだ。同じ悩みを持つ人が他にもいると感じさせてくれること。あまりぱっとしないことも多いけれど、人生は生きるに値すると感じさせてくれること。この4冊の本は、それぞれ別の方法で、それを伝えてくれる。そして、内容もさることながら、これらの本は、手触りがあまりにも素晴らしい。手にした時の、感じが生きている。紙や印刷、色や文字、分厚さ、重さ、意外な軽さ。色んな要素が絡み合って、ただならぬ感じを発している。一匹の生き物のように。たとえばこのムナーリの言葉。「木 それは ただひとつの種(たね)の ゆっくりとした 爆発」。このセンテンスに関してはウェブ上で読んでも、意味内容に関して感じる所はあるだろう。しかし本で読むのとは、あきらかに違う。この本の、この厚さの紙の、この弾力の、このページの、この位置に、このサイズのこの書体で、このインクで印刷されているということ。そういうことを、少なくともわれわれの世代は、分かった上で電子ブックに接することができる。もっとあとの世代に関しては、どうしようもなくなるのは、しようがないことかもしれない。「ムナーリのことば」ブルーノ・ムナーリ(著)、阿部雅世(訳)/「僕の虹、君の星」ハービー・山口/「不完全なレンズで---回想と肖像」ロベール・ドアノー(著)、堀江俊幸(訳)/「死ぬな生きろ」藤原新也
インドからやっとダイアリーが到着。Printed in Indiaにアップしました。あたたかな気持ちで過ごせるよき年へ、デザインに思いをこめて。
朝からの強風が止み、夕方、駅前の公園から富士山を望む。旅先で見た様な風景。風景に吸い込まれて、歩いて行きたくなる。そう、どんどん歩こう、どんどん。一人で旅した町、二人で旅した町、大勢で旅した町。「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ」と、書き記した須賀敦子の旅に思いを馳せる。また、星野道夫は泣ける様な夕陽や星空をひとりで見た時に、愛する人にどんな風に伝えるかって聞かれた時のエピソードをこう記している。「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって……その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」。そして、ヴィム・ヴェンダースは「ONCE」という本の中で、「かつて、わたしはポツダムでリスボンを思い出していた…。…そしてリスボンでわたしが子供だった頃のドイツを思い出していた」と記している。旅心を刺激する秋の夕暮れなり……。
環境に配慮して、移動手段としておおむね自転車を使ってるせいか、自転車のブレーキレバーの先端から植物の新芽が発芽してきた。これも日々の行動の成果として受け止めよう!そのうち自転車全体が新芽におおわれるような事態になったら、また報告します。
先日、娘が財布を紛失。大急ぎで警察に届け、クレジットカードを停止した。そうこうしてるうちに、二日後に、「財布を取得しています」と地下鉄上野駅から葉書が来た。どうやら、近所の駅近くで落としたのを、道行く人が拾ってくれたらしい。それが、まわりまわって上野まで。うっかりミスを救ってくれたそのシステムと、届けてくれた人の心根に打たれる。テレビからは暗いニュースばかりが流れてくるけれども、実は心ある人は、変わらずいるのである。日本全体の犯罪率を統計でみても、数十年増えてないらしい。報道に占める犯罪事件の割合が増えているのである。報道機関の姿勢の問題が大きい。そう、日本の市民が作るシステム自体はいまも素敵なのだ。昔、ある小説家が書いていた。「いいニュースは小さな声で話される」と。新聞を閉じ、雑誌をゴミ箱に捨て、テレビを消して、遊びに行こうー。
この夏は、猛暑でバジルが大豊作。そんな話を、夜の会食の席で話していると、そこにもここにも、この夏バジルのスパゲッティを作ったという男たちが登場した。バジルを(種から、苗から)育て、収穫し、バジルペーストを作製。そしてスパゲッティジェノベーゼにして食べる、という男たち。これは、これまで(私の周りでは)あまりなかったことで、この変化に少し感じ入った。イクメンとか言われて、この頃、育児する男が取り上げられている。何でもかんでも手に入る、歴史上一般市民が最も即物的欲望を満たせるようになった、とも思えるこの時代だから、逆に、自分で手をかけて、下地を作り、急がず育て、トラブルもあるけれどそれもよしとして受け入れ、そのプロセスを楽しみたいという、男性のささやかな気持ちの変化の表れであろうか。男の胸の中に灯った、小さな一つの明かり。高くかかげて。あるいは、ただ消費することより、作ってから消費するという行為に価値をおくということ。いいですね。既製品と違って、オイルやチーズの量を、好みにできるので、実においしいのだ。
好きな人の、生まれた月を知るといろんな風景を思い出す。
その日の気温、風、匂い。木漏れ日、花々、虫の音。
夕闇、電話、涙や、笑い声。
ずーーっと前、ずっと前、かなり前、少し前、ついこの前。
そんなことがあったことを、思い出させてくれる。
小さな雲が道路脇に降りて来たのかと思って横を見ると、低空飛行のクロアゲハだった。どうやら、地面にまかれた水を飲みに来たようだ。仕事に向かう歩みをゆるめて、一息つく。朝から蝶の水飲み観察である。日本の蝶は種類が多く、雄雌でも違いがあり、さらに別の蝶に化けた種があったり、判別がかなり難しい。こういう判別をおもしろがれる人がなるのだろう、生物学者に。先日の新聞には、日本近海の生物の多様性についての記事があり、世界で最も多様な海洋生物が棲息しているらしい。さらに日本は、森林や山国でもあるから、その生物層は膨大であろう。小さい時から覚えきれないほどの生き物と出会っている。日本の神が八百万の神になったのもうなづける。国の中の生物層が薄かったり、人間が自然を制圧してしまえば、一神教の方が理解しやすいとも思う。今年は国連が定めた「国際生物多様性年」とされており、多くの生命が息づく自然環境を守ろう、という提言が色々されている。自然環境を守るのはもちろん大切だが、それを守る人間の多様性も大切にしてほしい。たとえば、イスラエルとパレスチナがお互いの多様性を認めたらどうなる。イラクとアメリカが多様性を認め合ったらどうなる。学校でも、学習はもちろん大切だけど、それ以外の人間の様々な側面を刺激できないか。職場でも、違った考えの人を排除せず逆に発想に広がりを持たせられないか。国連さん、人間同士が多様に生きていける世界も目指してくださいね。
ここのところ、毎日のようにアゲハが産卵におとずれる。グレープフルーツと柚の葉に、産卵しては飛び去ってゆく。この季節、もう10年以上になるだろうか?産みつけようとする葉を、足の感触で(わかるのだろう)確かめるようにタッチしては、目指す柑橘系の葉に産みつけてゆく。それを何度も何度もくりかえすものだから、木の回りを飛びながら数10分はダンスをしてるみたいだ。数年前に柚の幼木が入ってからは、柚の方が人気である。多分、柚の毎年の発芽が6月半ばあたりなので、その柔らかくおいしい葉の出るタイミングに合わせて、産卵に来るようになったように思える。まさに、新芽が出たその日に産みつけに来たくらいのタイミング!この辺の、柚の新芽をおいしそうに思う蝶の感覚は私も理解できるようになってきた。本当においしそうな、やわらかい柚の新芽なのだ。さらに不思議なのは、蝶はその種類ごとに、卵を産みつける葉が違うということである。アオスジアゲハはクスノキ、クロアゲハはサンショウ、カラスアゲハはコクサギやカラスザンショウ、キアゲハはミツバ、パセリ。モンシロチョウはキャベツで有名。そしてアゲハ(ナミアゲハ)は柑橘類。種の保存のための棲み分けと言われている。ひとつのパイを奪い合わないところが、賢く美しい。生物多様性の知恵ですね。そういうわけで今現在、ガラス一枚隔てたベランダには、1齢から、5齢までの幼虫がぱっと見でわかるだけで11匹。夢でも食べてるかのように、おいしそーうに葉っぱを食べ続けている。もぐもぐ。
季節が姿を変えて、日差しと温かな風に、南の国の匂いが漂い始めた。やがて積乱雲が立ち始める。強い雨に包まれた列島が、その水の塊から抜け出す頃には、たっぷりの汗と蝉時雨がやってくる。なつかしい、あこがれのような日差しの夏の季節。そして扉を開けて入ってくる季節が、南の国から来た香りで部屋を満たし、すみずみまで部屋を駆け巡る。夏と名付けられた思い出の季節を、今年も残していくだろう。という思いを、電車のなかでメモする
今年も無数の栴檀(せんだん)の花が開花して、新緑の街角にかわいい色添えをしてくれている。遠くから見てると、木が白い綿をまとってるように見える。近づいて見るとその小さな花の可憐さがわかる。雨で落ちた花をいただいて、部屋にかざる。
今年は4月の低気温の影響か、色んな植物の新緑が重なって見事である。新緑の明るい緑のパワーには毎年のことながら圧倒される(視覚から入ってくるグリーンエネルギー)。花や新緑を見がてら近所の公園を散策していると、今年も沢山のグローブをはめた女性がいてほほえましい。たいていは子供とのキャッチボール。カップルのキャッチボーラー(?)もそこかしこに続々登場。夫婦や恋人どうしの関係性が垣間見える。とにかく各人、思い思いのフォームで投げているので個性的で自由に見える。表情も、心から楽しんでるようで美しい。こんなにキャッチボールのうまい女性が多い国もめずらしいんじゃないかと思う。ここには、普天間もミャンマーも非核問題もない。日本の平和な風景。もし、外国の美術館で美術作品を展示するなら、普通の主婦と子供10組が、実際にキャッチボールをしているという行為をインスタレーションしたい。タイトルは「日本の5月の日曜日」。同じ部屋にジョルジュ・スーラの「グランドジャットの日曜日」なんかの、公園がモチーフの絵画を展示して。それと日本中の公園で撮影した親子のキャッチボールの映像を映しながら。相手がかまえたところに、ちゃんとボールを投げられるっていうことは、普通じゃなく本当にすごいことなんです!
高校時代に、宇宙空間の中を落下してゆく夢をよく見た。無重力空間なんだけど、川が激しくしぶきをあげて流れ落ち、真っ暗闇の中で、そこだけ輝いている。自分の体がその川の上空を浮遊しながら,川と一緒に下降してゆく。この世の果てに落ちてゆく様なイメージ。そんな夢を十代の半ばによく見た。そんな青春期に何気なく見ていた雑誌のページに、この横尾忠則氏のポスターが掲載されていて驚いた。というのも、私が夜な夜な見ていた夢の風景が描かれていたから!その作品との出会いによって、グラフィックデザインへの興味が一気に広がっていった。現実の見える世界にはないものや、人の心の奥底に手つかずで眠っているもの。口にした瞬間に嘘になってしまう微妙な気持ち。言葉ではうまく表現できない素敵なこと。そんな描写不可能なものを描写して人々に届けられる。そんな力を身につけられたらどんなにすばらしいことか!という思いが、今の仕事を始めたもとにあったことを思い出した。そんなことが表現できたり、できなかったり。仕事の内容はその都度異なるので一概にはいえないが、いつもそのことだけは忘れないでおこうと思う。ⓒTADANORI YOKOO Poster for TANGERINE DREAM
重ね着する服の色合わせによって、ずいぶん体感温度は変わる。1の場合、体はポカポカ暖かく感じ、2は逆に涼しく感じる。これは,人間が持ってる色彩に関する本能的な感覚だけど、この人間の特性を生かして、電気を生み出せないものかと考えてみる。たぶん視神経や肌を通じて何かが変化しているはずだ(!?)。そこで発生した電気を、携帯で飛ばしてどこかにためる、なんてできそう(?)。というのも、むかしむかしロックのコンサートやディスコ(古いですね〜)に行くたびに、この床をどかどか踏みならして歌い踊るすごい人数のパワーを発電に使えばいいのにねって友人たちとペルノーとか飲みながら話してた。その時は、理想の高い冗談として。そしたら、最近は駅の改札付近に、発電装置を仕掛け、なんと通勤客のどかどか歩くパワーで発電してるらしい。ですから、色彩発電もまんざら、夢ではなく思える。電力会社の方々、人間が持つエコなナチュラルエネルギーを使ってください。(これ見てないか〜)
(連絡事項)無事到着に安堵。結構時間かかる様子とお見受けしました。でも 楽しい時間が過ごせたようでなによりです。そちらでも早めに友人たちとわいわいできるといいですね。星空も美しいようです。いずれのものは、いずれなにします。PS.マフラーはお見受けしません。
羽田空港に、ある旅立ちを見送りに行く。まだまだ若い、新しい生活への一歩である。みんなが通る道ではあるけれど、空港はそれを鮮やかに描いてくれる。電車や船とは違う描き方で。20年くらい前に、ロサンゼルスへ若くして赴任する友人を成田で見送ったことを思い出す。ニューヨークに旅立つ友人を六本木で見送ったことも。そして、一人で暮らすことの孤独を思う。ヴィム・ヴェンダースはかつて、映画のなかでヒロインのソルヴェイグに「どんな時にもさびしさを感じたことはなかったけど、人を愛してさびしさを感じるようになった」って言わせてた。家を出て一人で暮らすことは、さびしさを感じることだから、人を愛する力をより強く得るということ。さびしさを知ることは、より広い世界を知ること。さびしさは、人を成長させる。そして、人の大きさには限りがあるから、何かを得ると、何かをなくす。しかし、その逆もまた真。その旅立ちを選んだ君に、Bon voyage!
2月の末にあった清水靖晃氏のサックス5本&コントラバス4本のゴルトベルクのライブを聞いて以来、いろんなゴルトベルクを聞いている。管楽器や弦楽器で演奏されたこの曲は、ピアノの演奏では感じることが出来なかったいろんなニュアンスを感じさせてくれて面白い。祝祭的なニュアンス、荘厳さ、あいまいさ。騒々しさや、憂鬱さ。なにより晴々とした気分の表現が素晴らしい。キャッチーなメロディが聞こえてくるという意味で、ゲンズブールやベックを聴いてるような錯覚も(ネタ取りと言う意味では逆戻り?)。春の今、聴き時です。これは、清水氏のリハーサル風景。
http://tower.jp/article/feature/1790
https://www.youtube.com/watch?v=vjaGCchP_jY
降りしきる雪の中に消えてゆくスキーヤーたちの後ろ姿が、懐かしい。凍てつく吹雪の中、山に登り、山頂から風を切って、雪の中に飛び込んでゆく、人間の無防備さと切なさ。選手たちの強靭な肉体とずば抜けた運動能力よりも、むしろその周辺にある風景付きの人間として、見るものの意識の中に入ってくる。そんなさびしい場所で、一人で、孤独と戦っている人間として。誰の助けも借りられない、孤立無援の人間として。家では、心配顔の家族が待っているだろう。温かいシチューがことこと湯気をあげている。耐えきれず、手をあわせ、窓ごしに外を見る。雪はまだ、降り続いている。それがクラシックな回転競技だったせいもあるけど、そんな思いにとらわれ、ぼんやりと競技を見ていた。(誰が勝ったのかは不明)次から次へと、雪原を駆け降りてゆくスキーヤーが愛おしく思える。
写真家の藤原新也氏と、昔のアパートのような場所でお会いする。明るい光が差し込み、春の様な天気である。彼に急用が入って先に帰ってしまい、後には彼の画鋲やカレンダーのようなものが残される。彼から電話が入り、後日、その忘れ物を届けがてら改めて会うことになる。指定された場所は、彼が経営(?)している大きな仏教寺院。チベットの文字のようなものが見える。車いすの老人たちが沢山、祭壇に向かってお経をあげている。この寺院のことは、なぜいままで知らなかったのかなと、不思議な思いにとらわれる。祭壇の後ろに回ると、廊下があり、松の木のある小島と海が見える。窓の木の欄干ごしに、波打ち際がせまっていて、3〜4メートルほどもある大きなカニがゆっくり、横歩きしていく。手前にはそのカニを模した小さな彫刻がおいてある。・・・不思議な思いで夢からさめると、ベランダの光はもう春。
近所で買うパンがおいしい。とりたてて高級でもなく、普通のパン屋の食パンである。でも買って帰る時、清々しく感じる。なぜ?焼きたてだから、おいしいことはもちろんだけど、つつみのビニール袋には、なにも印刷されていない。だから、焼きたてのパン生地がよく見えて、おいしそうである。至極単純なんだけど、それがうれしい。このシンプルさがデザインともいえる。法的に印刷すべきことがないこと。みんなわかってる普通のことが大切なのだ。自分でパンのパッケージをデザインするとしたら、まずパン自体のレシピ。次に印刷する必要な要素があれば、インクは白で刷り面積を少なくシンプルにまとめるか。それすら必要なければ、デザインするのは上につけるひもだけかな。今日の久しぶりの雪の朝、近くの公園を散歩してると、雪はいつものように白い。環境悪化が頻繁に叫ばれる昨今、ちゃんとした白い雪が積もってるか心配だったけど、雪は白く、水は透明でいてくれている。そんな普通のことが最高級に感じる。
CDショップの店頭で久しぶりにびっくりした。CD化されることを期待していなかった「伝説の」アルバムが普通に並んでたから。記念すべきボサノヴァ誕生のアルバム。裏ジャケットにはこう記されている。「1958年の夏。北ブラジル、バイーア出身の歌手でギタリストのジョアン・ジルベルトが音楽の革命をやってのけた。彼は、このクールで超モダンなニューミュージックを録音するべく、才気溢れる作曲家アントニオ・カルロス・ジョビンと、詩人で元外交官のヴィニシウス・ヂ・モライスというボサノヴァの独創的な作曲仲間とチームを組んでいた。(中略)ジルベルトは前例のないギタースタイルと、静かで控えめなヴォーカルによって音楽史の流れを決定づけ、その方向を変えた」。ライナーがそそりにそそってますが(聴いてみたいでしょう?)、中身も負けてはいなかった。あまりにも古すぎて新しい。ブラームスやシューベルトを今聴いてもいいと思うように、いい。今より50歳以上若いジョアンが、静かだけど、ものすごく熱いパフォーマンスをしていて感動的である。2003年の初来日公演の時に強く感じ、記憶していることは、ステージ上に20代の彼の姿が立ち上がってきて、驚いたことである。それほど彼のボサノヴァは若くサンバしているがゆえにせつないのか?
地方の疲弊はあいかわらず。でも、美しい海岸線と、わき立つ雲と夕暮れがある。そして、話せる人がいて、しゃれたカフェができ、穏やかな時間が流れている。それをこの上ない贅沢って思えなくっちゃ。目の前の世界をどう感じるか。景気が良いとか悪いとか。あんまり大きく考えず、自分の時間を豊かに。2010年。楽しい一年に。
自分の身の回りのもので気に入ってるものを見渡してみると、いろんなところで拾ったものが多い。それじゃあ買ったものに対して、あんまりじゃないかとも思うが、拾ったものは思い出付きの一点ものだからだ。トルコの海岸で拾った石。LAのイームズハウスの庭で拾ったユーカリの葉。プラハの石畳のかけら。玄関の帽子掛けは近所の海で拾った流木だ。いずれも、みごとなアートである。さらに、義母のところにあずけた猫は子供たちが拾ってきた猫。ベランダで飼ってるうさぎは、小学校で沢山うまれたのでもらったうさぎ。いろんな縁で集まったものたち。それを選ぶ(拾う)時点で四の五の言えない切迫感と、感覚的判断が自分との強い関係を生むのだろう。友人との出会いも同じで、その縁は説明できない。また、すごい出会いに気づかず通り過ぎたり、何でもない出会いに感謝したり。つかみ損ねた縁や、自分から降りた縁。われわれは常にそんな不思議な渦の中で生活しているのだ。来年はどんな出会いがあるのかな。それではよいお年を。
文字を読んでしまう、というどうしようもない人間の習性を、いとおしく、愛に満ちたまなざしで採集していったアンドレ・ケルテスの著作である。60数ページの小さな本だけど、本の善し悪しはページ数に関係ないことを証明している。ここには、1915年から1970年までの55年間に撮影された「本読む人々」の写真がおさめられている。場所も、彼が生まれたハンガリーから転地したパリ、ニューヨークへと広がっていくが、そのあいまに、ベニス、東京、京都、マニラ、ブエノスアイレスなどの街まちでのスナップが混じり合う。写真が古めかしく見えないのは、本を読むという行為が今も昔も変わりがないからだろう。本当に、いたるところで人は本を読むんだな、と感じいってしまう。公園や電車の中の人々にとどまらず、古新聞の山の上の少年、キオスクのおばさん、くず箱から拾いだしたばかりの新聞を読む浮浪者、手持ち無沙汰なフリーマーケットのおねえさん、はたまた、風景画の中の人物や、レリーフの中の女性まで。長年本を読む人をよく撮り続けたものだと感心する。そして、そのときのケルテスのまなざしには、ヒューマニズムに流れすぎず、抑制がきいた非常にクールで乾いたトーンがある。そのトーンのせいで、この写真集は年月に耐えて、読み(見)継がれているのだと思う。
来年の春に向けて、剪定と植え替えの後、ひとかかえほどのばらを部屋に取り込む。つるばらの切り花はお店では買えないので、花瓶に入れるとすごく新鮮だ。春から秋まで次から次に咲いてくれたばらも、この季節に部屋に生けるとワイルドで香り高い。低くなった気温の中で、より香りが冴える気がする。春のばらと違う、冬のばら。春までベランダは淋しくなるけれど、栄養たっぷりとりながら、ゆっくりお休みしてください。
川向こうのうさぎの公園で。うさぎは犬や猫のように、こちらにむかってアピールはしてこないで、ひたすらうさぎどうしでなにやらやっている。人間といっしょに生活してきた家畜の中で、鳴かない動物はめずらしい。わんわん、にゃー、も〜、ひひ〜ん、め〜、ぶうぶう、ちゅうちゅう、ふっ(鹿が怒るとこんな声をだしたような気が)、こけこっこー。動物がまわりにいるだけで、にぎやかになる。十二支の中でも鳴かないのはへびとうさぎだ。まあ、へびは爬虫類なので、人間の方から、もともとコミュニケーションをとろうとは思っていない。うさぎのように、無言でコミュニケーションできれば、会議も、静かな中で物事が粛々と決まっていくのか。ただ、途中で追っかけっこしたり、毛繕いで、はぐはぐかんだり、時に数人で身を寄せてじっとしたりするんだろう。初期の鉄腕アトムの「ホットドッグ兵団の巻」で、犬を兵隊サイボーグに改造したら、予想外に犬の習性が表れて、戦いに支障が出るというシーンがあったっけ。(記憶があいまいだ)やたら毛布にじゃれついたり、夜中に遠吠えしたりしていた。同じようにうさぎを擬人化してみると、個性豊かだ。うさぎ人間が10人くらいで宴会をすると、だまってひたすら食べ、じーっと一点を見つめてたかと思えば、突然走り出し、机に乗っかったり、穴堀りをしたり、食べ物をひっくり返したり。宴席がぐちゃぐちゃになった後で、幹事がお会計をして、みんな無言で去っていくのだろう。個性的だけど、ちょっと怖い集団です。
毎週一度通る近所の道に大きな木がある。枝振りがみごとで、スケールがある。まるで手を大きく左右に開いた巨人の下にいるような気分になる。気になりだして、そのうち公園の管理室の人に木の名前を聞こうと思ってたら、表示板がついた。それで栴檀(せんだん)の木だとわかった。初夏には小さなかわいい花を無数につけ、今は小さいドングリくらいの緑の実があちこちに着いている。花は少しいただいて部屋で楽しみ(木の後ろ側に公園内の陸橋があり、そこから見ると花は目の前)、台風一過で落ちた実は拾って持ち帰った。通り過ぎるたびに、自転車を止め、振り返って見上げてしまう。「ひゅ〜」。ほれぼれして、声がでる。いつもじろじろ見てるから、私を覚えてくれたかな。木を見ること、木の下にいることで、こんなに満たされた気分にしてくれたことがうれしい。うちの近所で、一番かっこいい木。
ブラジル映画祭で、「オ・ミステリオ・ド・サンバ」を観る。リオにある様々なサンバコミュニティの中でも有名なポルテーラというコミュニティで歌われた沢山のサンバにフォーカスを当てた映画である。流れる曲は50数曲。全編すっばらしい、ゆったりとしたサンバが流れ、体が動いてしまう。70歳になっても伊達な衣装で粋に歌う。コミュニティに根づいた、ほんまもんの音楽。一人が歌えば、コーラスでどんどん入ってくる、ステップを踏む、鳴りものが鳴る。失恋の、人生の、幸せの歌、悲しみの歌。レストランのウェイトレスまで踊り、歌ってる。通行人がステップを踏んでいる。音楽の一番いいところ。さらに、それをナビゲートしてるのが、マリーザ・モンチという贅沢!彼女が昔の曲をメンバーの家族から聞き出し、古い録音を発掘し、彼らとセッションしてゆく。みんなで歌うEsta Melodia!過去の文化を尊重することで、世代の枠を飛び越え、現代性を獲得している。日本の都会にもこんな、生活に根ざした、生活をアートにしたような音楽がほしい。
都内某所で、ある人に遭遇。長年の夢がかなった。コンサートの翌日、およそ5分間くらいだったが、すこし話し、写真を撮らせていただく。柔らかく、空気のよう。羽根のよう。ポジティブな姿勢が、立場の違いを超えていく。無防備な彼女を守るようなアシスタントの差配によって(きっといつもそうなのだ)、眠いような、現実感のないような光の中で、お別れを言う。その後、そばのカフェにいると、そのホテルのオーナーがその夜にある、ある人が初めて監督した映画とティーチインのチケットをくれる。嗚呼なんという。どうして世界には、自分を助けようとしてくれる人がいるのだろう。助けてくれない人も、裏の意味で助けてくれているのだろうか。なにものかにデザインされた、人生の神秘に触れた一日。
インドからバンダナのサンプル到着。しっかりインドっぽい仕上がりです。いくつかの問題点を指摘して修正を求める。インド制作は雨など天候によって、かなり仕上がりが左右される。「天気が悪くて乾きがね〜」っていわれても、仕上がりは仕上がりなのです。指示どおりあがってこないことには、困るのです。この辺が、日本の仕事感覚とは違うインド制作の面白さと危うさ。よく転ぶか、悪く転ぶか。しかし、全体の発色や質感はすばらしい。日本製よりルーズでゆったりした印象。仕上がり次第、printed in Indiaのコーナーにアップします。